妖怪たちが利用する市場には二種類ある。
人間が開き人間が使う現世の市と、神魔が開き神魔の使う異界の市だ。
十和が今から行くのは後者だ。反物はどちらの市でも手に入るが、河童の傷薬は異界の方が手に入りやすい。
お出かけに必要なものを巾着に入れると、十和は頭から薄衣を被った。大蜘蛛の糸で織られた、天女の羽衣のように薄く軽い衣だ。独特の光沢が美しい。
月白が鼻を利かせる。
「天遊様のにおいがする」
「元は父のものなんです。出かけるときは、これを被るようにいわれていて」
十和は人間のにおいが強い。人間が異界の市のうろついていると思われると面倒が起きるので、父親のものを身に着けてごまかすようにしているのだ。
「まだ父のにおいってしますか?」
「かすかに」
「私は妖狐のにおいってよく分からなくて」
十和は人間なみの嗅覚しかない。布地に鼻をうずめてみても、感じるのは雅な香のにおいだけ。天遊が調香し、衣に焚き染めた香りだ。
(香りもだいぶ薄くなってしまったわね……)
十和は心細くなった。衣のにおいが薄くなると別のものと交換していたのだが、天遊が封印されてしまったのでできようはずもない。
(でも、これを持っているだけでも効果はあるし)
大蜘蛛の衣は高価なので、持てるのは力のある神魔に限られる。市には素行の良くない妖怪たちもいるが、報復を恐れてまず手出ししてこない。
「出ていいか?」
「はい。お待たせいたしました」
当たり前のように差し出された手を、十和はドキドキしながら取った。
手のひらに汗がにじんでしまわないようにと、深く息をして緊張をほぐす。
「ここから異界の市へはどうやって行くのですか?」
「この屋敷に来るときに使う
月白が向かったのは岩壁を貫通している穴だった。嫁入りの時に十和も通った道である。
暗い道を十歩ほど行くと、月白は立ち止まって右を向いた。どう見ても壁しかないのだが、ためらうことなく足を進める。十和も月白を信じて足を進めた。
「わあっ……」
三歩で、わびしい現世の山奥から賑やかな異界の都――妖都へ出る。
出た場所はどこかの建物の小部屋だった。丸窓の外は、背の高い瓦屋根の建物で埋め尽くされている。大通りには露店や屋台が並び、大勢の神魔が行き交っていた。
「まず薬でいいか」
十和はうなずいた。軽いものから買った方が良い。
小部屋を出て、通りを歩く。牛鬼やら蛇女やらのっぺら坊やら、さまざまな姿かたちの生き物が歩いている。市は扱われている品も、利用する人々も、人間の市とは比べ物にならないほど種々雑多だ。
目当ての店は、妖都を縦横無尽にめぐる水路のそばにあった。柳の下で河童が露店を広げている。
「傷薬を」
「へい。――あっしと腕相撲をして、勝てたらタダにしやすけど」
暇を持て余しているらしい。河童は月白に勝負を挑んできた。
「やめときな。負けたら代金倍だ」
入れ違いに去っていく客が、十和にそっとささやいた。手の甲をさすっている。無料につられて勝負し、負けたらしい。河童な人間の童子ほどの背丈しかないが、力持ちな妖怪だ。
十和は素直に財布を出したが、月白は行李の上で河童と手を組んだ。勝負は一瞬でついた。河童の手が行李に叩きつけられる。
「……だましやがったな。細っこい見た目してるくせに。これだから妖狐は」
「別にだましてない」
河童は悔しそうにしつつ、軟膏の入った貝殻を月白に渡した。
十和は呆気にとられながらも、月白と次の店へ向かった。化け狸たちが営む呉服店へ入る。
狸と狐は仲が悪いが、妖都はすべての神魔の中立地帯。もめごとは厳禁だ。
それに、そもそも商人をやる妖怪は商魂たくましいので、売れるなら相手が仇敵だろうが何だろうが等しくお客として扱う。
十和たちは恰幅のよい番頭と手代たちに笑顔で出迎えられた。希望を述べると、十和の前にいくつか濃い色の反物が並べられる。
「現世の今の流行りは縦縞模様ですから、これなどいかがでしょう?
太過ぎず、細すぎず、縞の幅もお嬢様にちょうどよいと存じますが」
「すてきですね! でも、今日は私でなくて。主人のための買い物で」
「失礼。お嬢様でなく奥様でしたか。いろいろと早とちりいたしました。
こんなに美しくたおやかな奥様なら、ご主人もさぞご立派なお方なのでしょうね。
どんなお方で?」
「隣にいるのが主人ですけど」
「えっ!? げ――」
「下男かと」と言いかけた口を、手代はなんとか閉じた。
無理もなかった。片や、見るからに高価な衣を被って育ちの良い雰囲気を醸し出している乙女。片や、くたびれた着物を着て殺伐とした雰囲気を漂わせている青年。お嬢様と付き人と見るのが妥当だ。
手代は咳ばらいを一つした。気を取り直し、何食わぬ顔で新たに反物を出してくる。
「そうですね、旦那様のような御方でしたらこちらはいかがでしょう? 背が高く細身でいらっしゃるので、細い縦縞がお似合いかと」
「まあ、良く似合いそう! ……でも、今日はひとまずどこにでも着ていけるようなものの方が良いかもしれません。流行りに関係ないもので、何かございませんか?」
柄のない、濃い色の生地がいろいろと出てきた。どんな場でも着ていけそうな無難なものだ。あれこれ手に取って、十和は悩む。
「……ううん、でもさっきの縦縞模様もすてき。今度のお花見程度の席ならああいう流行り物も許されるでしょうし。月白様はどちらがお好みですか?」
「……違いがわからん」
どこか途方に暮れたような答えが返ってきた。
二人の間に落ちた沈黙を埋めるように、少し離れたところでわっと声が上がる。
「さすが吉乃様! どれもこれもお似合いで!」
聞きなれた名前に、十和の肩がびくりとはねた。
そろそろと左に視線をやると、五歩ほど離れた所に異母姉の吉乃が座っていた。
自分の買い物に来ているらしい。目の前には絹の反物がいくつも広げられている。高慢に反物を指さした。
「ここからここまですべて頂くわ」
「毎度ありがとうございます!」
話さずに済ませたかったのに、十和は運悪く吉乃と目が合った。
「あなたもきていたの」
「ごきげんよう、吉野お姉様」
「ご主人のものを買いに? まあ、必要でしょうものね」
いつも変わらぬ格好の月白に、吉乃は馬鹿にした表情を浮かべた。
十和が二つの反物を見比べているのを見下す。
「どちらかと悩んでいないで両方買ってしまったら? 安いものでしょう?」
吉乃はふふっと笑った。十和が眉をひそめると、ますます調子づく。
「失礼。そんな余裕ないわよね。あばら家だもの」
「あばら家……?」
問い返して、思い出す。月白の屋敷は敵から目立たないよう、幻術でボロ屋を装っているのだ。
「黒松様がおっしゃっていたけれど、屋根も落ちているんですってね。そんなところが住まいなんて。信じられない」
「吉乃お姉様、違います。実は――」
「五尾の妖狐でもそう見えるのか。俺の幻術の腕も上がったな」
月白はぼそりとひとりごちた。
自慢するような口調ではなかったが、真実を知った吉乃は頬をカッと赤く染めた。
「黒松様も人づてにそう聞いただけです! ご自分の目で見たわけではございません。誤解なさらないでくださいまし」
吉乃は許嫁の名誉のために言い繕ったが、月白は別にそんなことは気にしていなかった。自分たちの買い物に集中する。
「あなたの姉は良いことをいうな。どちらか一つと悩んでいないで、二つとも買おう」
「月白様、あいにく赤城さんからは一反分のお金しかお預かりしておりません」
「金なら俺も持ってる」
月白は懐を漁り、薄汚れた紙包みを取り出した。
しわくちゃで包み方も無造作そのもの。しかし、開けば無垢な黄金の光がこぼれた。中身は小判だ。しかも一枚でなく二十数枚、いわゆる切り餅ほどある。
「月白様、どこからそんなに」
「前に倒した鬼から」
「いつも財産を持ち歩いていらっしゃるのですか? 落としたら大変ですよ」
「いざというとき、身一つで逃げるのに邪魔にならないだけだ。全部はとうてい無理だ」
十和はぽかんとした。つまり、今持っているのは全財産でなくほんの一部。簡単に運べないほどまだまだあるらしい。つくづく見た目と中身が釣り合わない人物だった。
手代も面食らっている。受け取った小判で会計をしながら、しみじみとつぶやいた。
「いやあ、本当。お客様にはつくづく化かされている気分です」
「妖術は一切使ってないが」
どこまでも生真面目に答え、月白は十和を気にした。
「あなたは何か買わなくていいのか」
「今日は月白様のお買い物ですから」
月白は少し考えて、手代が最初に十和に勧めた反物を会計に含めた。
「月白様! 私は結構ですから! 」
「気に入っていただろう。妻を着飾らせるのは夫の役目と聞いた」
「理解ある旦那様で。すばらしい」
化け狸の手代は、素早くそれもお代に含めて清算してしまう。
欲しいと思ったのは事実だったので、十和は素直にお礼をいった。
「ありがとうございます」
「どうぞまたごひいきに!」
番頭と手代の愛想のよい声に見送られて、二人は店を後にする。
十和は去り際に吉乃にも軽くお辞儀をしたが、返ってきたのは剣呑な視線だけだった。