十和が月白の元へ嫁いで半月ほどが経った。
すっかりとはいかないが、十和は新しい場所での生活に慣れた。屋敷にいる妖狐たちの顔も覚えた。
縄張りの警備は二尾以上の妖狐が、家事や雑事は若い妖狐や野狐が、全体の采配は赤城がふるっているので、十和の仕事はもっぱら夫の身の回りの世話だ。
十和は朝起きると、まず北棟の縁側に水の入ったたらいを置くことが習慣になった。お行儀悪く塀を乗り越えて帰ってくる月白のためである。
赤城には渋い顔をされるが。
「十和ちゃーん、甘やかしちゃダメよ。玄関にはちゃんと足洗うたらいがあるんだから、そっちに行くようにいわないと」
「でも、たらいを置いておきさえすれば、月白様ちゃんと足をきれいにして上がってくださいますし」
十和の言う通りだった。今日も塀を乗り越えて帰ってきた月白は、何を言わずともたらいに足を入れていた。
「十和ちゃん、甘やかすと一生このままよ? あとで困るわよ?」
「赤城さんの仰る通りだとは思うのですけれど……人の性格が変わるには、生きてきたのと同じ年数がかかると聞きました。
月白様は三百歳ほどでいらっしゃいますから、ちゃんと足を洗って玄関から上がるようになるまで後三百年ほどかかることになります。
私の生きている間に変わる見込みはないので、私は月白様の習慣に合わせるのが一番だと思って」
赤城は不服そうにするが、十和は身軽に動きまわる月白を見るのが好きなので、わざわざたらいを用意するのもまったく苦にならない。なんの屈託もない笑みを月白に向ける。
「月白様。私のいる間は、どうぞ気にせず塀から帰って来て下さいね」
「……」
十和はとまどった。てっきり喜んでくれると思ったのに、月白は無言だった。長い前髪のせいで表情もよく分からないが、少なくとも喜んではいない。
赤城がぽんと月白の肩を叩く。
「月白、あんた今、思いっきり見限られたわよ。もうどうしようもない男だって」
「み、見限っていませんよ!? 月白様のご意向に添ったつもりだったのですが、何かいけませんでしたか?」
「十和ちゃんはまだ十六年しか生きてないけど、ちゃんと玄関から入ってくるし、着物が汚れたり裂けたりしないよう気をつけるし、礼儀作法を完璧に身につけたお姫様に育っているのにねえ」
「私は子供のころからそうしつけられたからできるだけで。
何百年もそういう習慣がなかったのに変える方が大変ですよ。
私は本当に気にしないので、月白様の好きなように生活なさって下さい」
「……」
月白はやっぱり無言だった。が、水を捨ててたらいを伏せ、十和へ返してきた。
もういらないとでもいうように。
十和は衝撃を受けた。朝食の膳を受け取りに台所へ向かいながら、打ちひしがれた。
「月白、次回からちゃんと玄関から入る気になったみたいね。
あたしが何回いっても聞かなかったのに。十和ちゃん、すごいすごい」
「朝、縁側にたらいを用意するのが、私の唯一の仕事のようなものでしたのに」
赤城は誉めてくれるが、十和は気落ちした。
「赤城さん、月白様が全然お世話をさせてくださらないのです。
どうしたらよいでしょうか? なんでもご自分でなさってしまうので、私、何もすることがございません」
十和は月白の身支度を手伝おうと早起きするのだが、自身が支度をしている間に月白も起き出しさっさと着替えて出て行ってしまう。
洗顔用の水は川で洗うからと断られ、髪に櫛をいれることも嫌がられ、一服時にお茶を淹れようとしてもたいてい拒否される。
気づくと自室の掃除すら自分でやりだすので、十和が頼み込んでやらせてもらうというありさまだった。
「何のお役にも立てていなくて辛いです」
「月白、一人が長かったからねえ。なんでも一人でやるクセがついてるんでしょうねえ」
十和の悩みに、赤城は苦笑した。
「月白がここのヌシになってから、あたし、月白に身の回りをする小姓をつけたのよ。
その時も十和ちゃんと一緒。全部自分でやっちゃうのよね。
『小姓の仕事を取るな!』って叱ったんだけど、月白も頑固でさ。
『俺の世話をするより、妖魔の一匹でも狩った方がよっぽど今後に役立つ』っていって。
小姓をザコ妖魔の巣に放りこもうとしたものだから。諦めたわ」
赤城は深々とため息を吐く。
「基本的に、人に近づかれるのが苦手なんでしょうね。
ここに来たときも、仲間になりに来たくせに警戒心強かったし」
「月白様って、なんていうか野良猫みたいですよねー。近づくと毛を逆立てる感じで」
ご飯を盛りつけながら女中が口を挟む。料理番の野狐、
「猫っていうより、犬っぽくないっスか? 戦いぶりが狂犬って感じ」
通りすがりの妖狐も口出しする。二尾の妖狐、
「いや、あの行儀の悪さは野猿でしょ!」
力説して、赤城ははっと十和をふり返った。ヌシの奥方を前に、失言を補う。
「でも、いいやつよね!」
「そうそう、若いけど本当に強いし!」
「実は美形ですよね!」
家来たちの補足はとても微妙だったが、十和は別に気にしなかった。自分の悩み事で頭がいっぱいだった。できあがった二つのお膳を抱えて苦悩する。
「お食事の給仕も必要ないといわれて、一緒に取るように言われる始末ですし。妻ってなんなんでしょう……」
肩に重石がのっているような気分で、とぼとぼと居間に向かった。月白と向かい合って膳を囲む。
白米に味噌汁に香の物というのが通常の献立だが、今日はもう一品ついていた。
(う……妖魔のお肉)
台所にカラスの羽根が散っていた覚えがあるので、元はカラスだった妖魔だろう。
わざわざおいしいもも肉の部分を載せてくれていたが、十和は箸をつけなかった。
(妖魔のお肉って、お腹を壊してしまうのよね)
月白の方をちらりとうかがう。野良猫だの野犬だの野猿だのいわれている月白だが、食事姿は人並みだ。座っている時にいつも背筋が伸びているので、それだけで美しく見える。
「月白様、お肉いかがですか? 私は相性が悪くて食べられなくて」
十和は嬉々として肉を差し出した。妖魔の血肉を喰らうことは、霊力を増す一つの方法だ。十和には無用のものでも、妖魔にとってはごちそうといえる一品である。
だが、月白は首を横に振った。
「鳥肉はお嫌いでした?」
「いや。これ以上食べる必要を感じない」
「……そう、ですよね」
考えてみれば道理だ。霊力の高い十和に興味を持たない月白なのだ。もっと強くなるために妖魔の肉を食べたいとも思っていないのだろう。
見れば、月白の膳にはそもそも妖魔の肉がなかった。料理人も月白が妖魔の肉を食べないことは承知らしい。十和はがっかりしながら膳の隅に肉を追いやる。
「月白様は、苦手な食べ物はございますか?」
「……べつにない」
「好きな食べ物は?」
「……とくには」
「私は辛いものが嫌いで。辛子やわさびは平気なのですが、唐辛子の辛さは苦手なんです。月白様は大丈夫ですか?」
「毒でなければ何でも」
十和は気まずくなってきた。月白の回答は端的で会話がつづかない。
「月白様、私にして欲しいことってありませんか?」
考えるように、目線が上をさ迷う。
「……帰って来た時、無傷で息をしていてくれればそれで」
十和は黙った。何も期待されていないことを知った。
沈んだ気持ちでお膳を返しに行くと、赤城に呼ばれた。
「十和ちゃんは縫物はできる?」
「はい。得意な方です」
「よかった。なら月白に着物でも仕立ててやってくれる? あいつ着る物ほとんど持っていなくて」
降って湧いた仕事に、十和は顔を輝かせた。
「二枚しかお持ちでないですものね。夜着と合わせて三枚」
「来た当初は着たきり雀よ。夜着も十和ちゃんと結婚するから用意したもので、それまで寝るときは狐姿。
礼服も無いし。これも婚儀に合わせて用意したかったけど、時間がなくてあたしの知り合いに借りたやつだったのよね。
二尾の妖狐ならまだしも、ヌシがこれじゃ困るから、頼める?」
十和は手を叩いて喜んだ。
「いっぱい作らないといけませんね。部屋着に普段着にお出かけ着に礼服に。羽織や浴衣も」
「まずは外出着をお願いしていい? もうすぐ御殿で花見の宴があるでしょ。その時にふさわしい装いが欲しいの。五尾の妖狐として恥ずかしくないような」
「かしこまりました。父の着物を仕立てるのは私の仕事でしたので、お任せください!」
十和はすぐさま居間に取って返し、縁側にいる月白にうきうきと尋ねた。
「月白様、月白様。好きなお色は何色ですか?」
月白は困ったようにしばし宙に視線をさまよわせた。
「……特にない」
「お着物をお仕立てしようと思っているんです。好きな柄やこだわりはございます?」
「派手でない色。汚れが目立たない色」
「濃い色ですね。月白様は髪も肌も白くていらっしゃるから、きっと映えますね」
話していると、赤城が顔を出した。
「十和ちゃん、あたしお昼から出かるけど。一緒に行く?
嫁ぐときについてきた妖魔のせいでずっとお屋敷にいて、いいかげん気が伏せってくるでしょう。一緒に反物を買いに行かない?」
「行きます!」
二つ返事でうなずと、月白がもたれていた柱から背を離した。
「俺も行く」
「あら珍しい。人が多いところ嫌いなくせに」
「妻を守るのは夫の役目だろう」
当たり前のように吐かれた言葉に、十和は頬を赤くした。赤城が笑う。
「月白が行くならあたしは留守番してるわ。用事はまた今度でもいいことだし」
「私で間に合うことでしたら、赤城さんのご用事を承りますけど」
「そう? じゃあ、悪いけど河童の店で傷薬を買ってきてくれる? 二人でどうぞごゆっくり。これ、お金ね」
十和は預かった金子を握りしめた。月白と二人きりでお出かけ。心が嬉しさと緊張でふくれていた。