髪の手入れに爪や肌の手入れ、按摩もして、十和はようやく豊乃の面前を下がることを許された。
暮れなずむ空を見上げ、ぼんやり自分の行く末について思いをめぐらせる。
(妖狐にお嫁入りするくらいなら、いっそ人間の世に行ってみようかしら……)
考えてはみるものの、本気で行動に移す気にはなれなかった。
人間の世にいっても頼りにできる相手はいない。十和の母親は天涯孤独だったと父から聞いている。
半妖の身であることも心配だ。十和は妖術一つ使えず、狐の姿にもなれず、人間といっても差し支えない半妖だが、身の上を知られれば人間に迫害される可能性がある。
それに人間の世に行ったからといって、十和の霊力をつけ狙う妖魔たちと縁が切れるわけではない。人間の都にも妖魔は出るのだ。
だったら父の威光の及ぶ場所にいる方がまだマシだ。襲われる可能性は家出した場合より低い。
(月白様って、どんな方だったかしら?)
ここ以外に居場所のない十和は、自分の命運を握る夫のことを考えた。
上野国の白狐、月白。白狐は珍しい。十和も一度しかお目にかかったことがない。
(私が六つの頃に、新入りとしてお父様のもとにご挨拶に来ていた気がするけれど……『白い!』って感動した覚えしかないわ)
毛色の珍しさばかりに目が行って、肝心の人となりについては記憶がない。子供の頃のことだから仕方ないが。
(大蛇を倒した後、戦勝の宴が開かれていたけれど、私は風邪で寝込んでしまっていたから参加していないのよね。
出席していたら、一番の功労者である月白様のお姿を拝見できたでしょうに)
妖魔として強いのは間違いないだろう。なんといっても五尾だ。妖狐の世界で五尾以上は数えるほどしかいない。四尾までは努力でなれるが、それ以上は才能が必要だといわれている。
(ご気性は激しいのかしら? 怖い? 厳しい? 冷たい? 怒りっぽい?
どうか暴力をふるうようなお方ではありませんように……!)
胸の内で不安をぐるぐるかき混ぜていると、十和を呼び止める声があった。
「十和、お母様のお手入れは終わったのでしょう? 次はわたくしをお願い」
異母姉の
「今夜はヌシたちの会合でしょう?
一刻も豊乃に奉仕した後で疲れていたが、十和はすなおに頼みに応じた。
ここで断っても結果は同じだ。吉乃は豊乃に不満を訴えに行く。豊乃の命令で十和は吉乃に奉仕することになる。今なら豊乃の小言がつかないだけ良い。
「あなた、結婚するんですってね。この着物あげるわ。ろくなものを持っていないでしょうし」
部屋に入ると、吉乃は無造作に撫子色の着物をよこした。
「買ってみたけど気に入らなくて。意外と地味だったわ。あなたにはちょうど良いと思って」
言外に容姿が地味、といわれたが、その通りなので十和は黙っていた。
人間姿の吉乃は雰囲気に華のある美少女だ。髪も目も金に近い茶色で、自由奔放な性格もあって、明るく鮮やかな色がよく似合う。肉付きはふっくらとして少女らしい魅力にあふれていた。
一方、十和はといえば、顔立ちは整っているものの地味な印象がぬぐえない。髪と目は真っ黒で、細い体は娘らしさに欠ける。天遊が封印されて以来、大人びた顔立ちはいつも憂いをたたえて暗い。
おまけに、こうしてたびたび豊乃や吉乃の奉仕に当たるのだ。彼女たちは十和を気遣いはしない。根こそぎ奪うように、十和の霊力を求めてくる。霊力は減りすぎれば体力を削るので、豊乃や吉乃が輝けば輝くほど十和はやつれた。髪も肌も艶がない。
古びた木綿の着物を着た姿は、御殿で働く女中たちと並んでも違和感がなかった。
「しかし、まあ。とんでもない相手と結婚することになったわねえ」
十和に髪を梳かせながら、吉乃がのんびりといった。
「あんな血に飢えた獣のような男と。お母様も酷いわ。お父様が知ったらお怒りになるわよ」
酷いと言いながら、吉乃はけらけら笑う。異母妹である十和のことは、吉乃にとってまったくの他人事だ。無責任に十和の不安をあおる。
「どんな方……なのですか?」
「知らないの?」
「めずらしい白狐で、お強い方ということくらいしか」
「強いわ強いわね。なんたって三百歳で五尾だもの。普通じゃないわ」
「三百歳? お若いですね」
十六歳の十和と比べたら三百歳は長命だが、妖狐の世界では若い方だ。
人間でいえば二十歳ほど。十五で成人してから五年、世間のだれもが自立した大人と認める年といったところだ。
「なんでも生まれたときから尾が二本あったのですって。天然の妖狐よ」
「すごい。妖狐の夫婦から生まれても、普通は一尾なのに」
妖狐の生まれ方には二種類ある。野生の狐が長生きしてなる場合と、妖狐の夫婦の間に生まれてなる場合だ。
だが、どちらの場合も尾は一本から始まる。一尾の間は妖狐でなく
野狐はたいてい強い妖狐――たとえば天遊――の傘下に入り、そこで修行を積む。霊力を増やし、二本尾になれば晴れて妖狐と認められる。
尾の増える早さはだいたい百年に一本だが、大多数が四尾止まりだ。一生、二尾止まりもめずらしくない。それを考えれば、月白の成長の早さは驚異だった。
「天然の妖狐なんて初めて聞きました。そんな方いらっしゃるのですね」
「ごく稀にいるらしいわよ。ただ、そういう子は生まれてすぐに他の妖怪に喰われて、霊力の足しにされてしまうから、生き残らないのですって」
「もう百年経ったら、六尾にも七尾にもなってしまわれそう」
急に、吉乃が不機嫌になった。十和は不用意な発言をしてしまったことに気づく。
吉乃の婚約者の黒松は、月白と同じ五尾の妖狐だ。敵視している異母妹の夫が、自分の婚約者より強くなるなんてことは、仮定でもおもしろくないはずだ。
吉乃は小さな唇をとがらせると、今度は月白をこき下ろしはじめた。
「でもまあ、それだけよ。強いだけ。
先日の宴で見たけれど、あの方、作法がまったくなっていなかったわ。普通の狐上がりの野狐のように、動きから獣くささが抜けていないの。
皆が食べることも忘れて琵琶の音に聞き惚れている中、一人黙々と食事しているし。歌の一つも詠めない野暮よ。
ここに来る前は色々な妖魔の群れを渡り歩いていたのですって。ごろつきと一緒ね。
無口で不愛想で陰気で。でも雰囲気は荒々しくて。気味が悪いったら」
近づいてくる足音で、吉乃の話は途絶えた。光沢を帯びた髪に指を通し、着物に乱れがないか確認する。
吉乃は豊乃と違って、裕福な町娘のような装いだ。見るだけで明るい気分になるような菜の花色の振袖に、幅広の帯を締めている。
豊かで美しい髪は結わない。背に流したまま、障子を開ける。褐色の肌をした男に抱き着いた。
「黒松様! いらっしゃると思ったわ」
「よお、吉乃。会いたかったぜ」
男は気安く吉乃の頬に唇を寄せた。吉乃の許嫁、黒松だ。五尾の黒狐で、
黒松は大股で部屋に入ってくると、目配せで十和に
堂々とした――ともすれば図々しい――態度だが、黒松は五尾だ。
天遊の縄張りに六尾から八尾はいないため、天遊の次席は五尾である。二匹しかいない五尾の内の片方なのだから、黒松の態度が大きくなるのは自然なことだった。
「十和、おまえ、月白のところに嫁に行くんだってな」
無遠慮に距離を詰められ、十和は身構えた。むわっと煙を吐きかけられ、咳きこみそうになる。
「何か危ないことされそうになったら、いえよ。俺がぶちのめしてやるよ」
喰われそうになったら助けるぞ、ということだ。黒松は同じく五尾になった月白を邪魔に思っているようで、三白眼は敵意でぎらついている。
ありがたい申し出だが、頼りにはできなかった。黒松から舐めるような視線を浴びて、十和は肌が粟立った。助けてもらったなら腕の一本でも要求されそうだ。
座り直すふりをして、黒松との間を少し空ける。
「仮にも天遊様の娘が、あんな野良犬みたいなやつに嫁がされるとはねえ。かわいそうに」
「野良犬! 確かにその通りですわね」
吉乃が手を叩いた。不快そうに、口元を袖で覆う。
「あの方、今日もあのお着物なのかしら。藍染で、ボロボロの。宴の時ですらあの格好でしたわよね。みっともない」
「来た時からずーっと、夏も冬もなくあんな格好だぜ。目元も前髪で隠して、湿っぽいやつだよな。いったいどんなツラしてるんだか。隠さないとまずいような顔なのかもな!」
黒松は大口を開けて笑い、髪油でなでつけた黒髪に触った。
黒松自身は深紫色の着、粋に真紅の長襦袢を着込んでいる。帯に凝った細工の煙管入れを下げ、肩にはかつて退治した妖魔の毛皮をひっかけていた。ヌシらしい堂々とした出で立ちだ。酒を運んできた年若い侍女が、吉乃に遠慮しながら見惚れていた。
「十和、気になるなら玄関で待ってみたら? きっともうすぐあなたの野良犬さんもいらっしゃるわよ」
吉乃が黒松にべったりと寄り添って、しっしと手を振ってくる。
もう自分は用なしなのだと理解して、十和は部屋を出た。
(……ええと、若くて強くて物静か。いつも同じ格好で、前髪で顔をほとんど隠していらっしゃる。雰囲気が荒っぽくて、野良犬みたい?)
吉乃と黒松から聞いた月白の印象を整理して、まだ見ぬ夫の姿を想像してみる。
野良犬、の表現の印象が強すぎて、人に変化している姿は描けなかった。
白くて大きな四つ足の獣が、真っ赤な口を開けて牙を剥いている姿が思い浮かんだ。
(……一口で食べられてしまいそう)
十和はずんと重みを増した胃の腑を押さえ、御殿の奥から表へと足を向けた。
怖いが、自分の目で夫の正体を確かめないことには気が落ち着かない。
行き交う妖狐たちの間を抜け、玄関口の脇にある控えの間に身を潜める。
(ひょっとしてもう会合のお座敷にいらっしゃるのかしら)
控えの間を出ようとして、十和はぎょっとした。わずかに開けている襖の間に、長い顔が差し込まれていた。黒光りする鼻がひくひく動いている。
「におう……におうぞ……人間のにおいだ」
長い顔が襖を押し開ける。天遊の縄張りと親交のある犬神だった。腰を抜かしている十和を見下ろし、なんだ、という顔をする。
「天遊殿のところの半妖姫か。表に出てきているなど珍しい」
犬神は一旦は顔をひっこめたが、黒い鼻先を十和に寄せてきた。
「妖狐たちも惜しいことをする。喰らえば楽に尾が増えように」
だらしなく開いた犬神の口から、よだれが一筋垂れた。ほんの一すすりで良いから、霊力にあふれた十和の血が欲しいというように。
生臭く湿った息が肌にかかる。十和が助けを呼ぶのも忘れて息を詰めていると、犬神の首根っこをつかんだ者がいた。
「どいてくれ」
犬神は無造作に脇へとどけられた。
十和は詰めていた息を吐きだしたが、今度は犬神をどけた人物に「ひっ」と怯えた。
白い髪に白い肌をした男は、血まみれだった。