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第2話 出会い・1

 髪の手入れに爪や肌の手入れ、按摩もして、十和はようやく豊乃の面前を下がることを許された。

 暮れなずむ空を見上げ、ぼんやり自分の行く末について思いをめぐらせる。


(妖狐にお嫁入りするくらいなら、いっそ人間の世に行ってみようかしら……)


 考えてはみるものの、本気で行動に移す気にはなれなかった。


 人間の世にいっても頼りにできる相手はいない。十和の母親は天涯孤独だったと父から聞いている。


 半妖の身であることも心配だ。十和は妖術一つ使えず、狐の姿にもなれず、人間といっても差し支えない半妖だが、身の上を知られれば人間に迫害される可能性がある。


 それに人間の世に行ったからといって、十和の霊力をつけ狙う妖魔たちと縁が切れるわけではない。人間の都にも妖魔は出るのだ。


 だったら父の威光の及ぶ場所にいる方がまだマシだ。襲われる可能性は家出した場合より低い。


(月白様って、どんな方だったかしら?)


 ここ以外に居場所のない十和は、自分の命運を握る夫のことを考えた。

 上野国の白狐、月白。白狐は珍しい。十和も一度しかお目にかかったことがない。


(私が六つの頃に、新入りとしてお父様のもとにご挨拶に来ていた気がするけれど……『白い!』って感動した覚えしかないわ)


 毛色の珍しさばかりに目が行って、肝心の人となりについては記憶がない。子供の頃のことだから仕方ないが。


(大蛇を倒した後、戦勝の宴が開かれていたけれど、私は風邪で寝込んでしまっていたから参加していないのよね。

 出席していたら、一番の功労者である月白様のお姿を拝見できたでしょうに)


 妖魔として強いのは間違いないだろう。なんといっても五尾だ。妖狐の世界で五尾以上は数えるほどしかいない。四尾までは努力でなれるが、それ以上は才能が必要だといわれている。


(ご気性は激しいのかしら? 怖い? 厳しい? 冷たい? 怒りっぽい?

 どうか暴力をふるうようなお方ではありませんように……!)


 胸の内で不安をぐるぐるかき混ぜていると、十和を呼び止める声があった。


「十和、お母様のお手入れは終わったのでしょう? 次はわたくしをお願い」


 異母姉の吉乃よしのだ。障子を少し開け、自分の部屋へと十和を手招きしてくる。


「今夜はヌシたちの会合でしょう? 黒松くろまつ様は会合の前にわたくしの所へいらっしゃるはずだわ。許嫁に会うのだから、きれいにしておかないとね」


 一刻も豊乃に奉仕した後で疲れていたが、十和はすなおに頼みに応じた。

 ここで断っても結果は同じだ。吉乃は豊乃に不満を訴えに行く。豊乃の命令で十和は吉乃に奉仕することになる。今なら豊乃の小言がつかないだけ良い。


「あなた、結婚するんですってね。この着物あげるわ。ろくなものを持っていないでしょうし」


 部屋に入ると、吉乃は無造作に撫子色の着物をよこした。


「買ってみたけど気に入らなくて。意外と地味だったわ。あなたにはちょうど良いと思って」


 言外に容姿が地味、といわれたが、その通りなので十和は黙っていた。


 人間姿の吉乃は雰囲気に華のある美少女だ。髪も目も金に近い茶色で、自由奔放な性格もあって、明るく鮮やかな色がよく似合う。肉付きはふっくらとして少女らしい魅力にあふれていた。


 一方、十和はといえば、顔立ちは整っているものの地味な印象がぬぐえない。髪と目は真っ黒で、細い体は娘らしさに欠ける。天遊が封印されて以来、大人びた顔立ちはいつも憂いをたたえて暗い。


 おまけに、こうしてたびたび豊乃や吉乃の奉仕に当たるのだ。彼女たちは十和を気遣いはしない。根こそぎ奪うように、十和の霊力を求めてくる。霊力は減りすぎれば体力を削るので、豊乃や吉乃が輝けば輝くほど十和はやつれた。髪も肌も艶がない。


 古びた木綿の着物を着た姿は、御殿で働く女中たちと並んでも違和感がなかった。


「しかし、まあ。とんでもない相手と結婚することになったわねえ」


 十和に髪を梳かせながら、吉乃がのんびりといった。


「あんな血に飢えた獣のような男と。お母様も酷いわ。お父様が知ったらお怒りになるわよ」


 酷いと言いながら、吉乃はけらけら笑う。異母妹である十和のことは、吉乃にとってまったくの他人事だ。無責任に十和の不安をあおる。


「どんな方……なのですか?」

「知らないの?」


「めずらしい白狐で、お強い方ということくらいしか」

「強いわ強いわね。なんたって三百歳で五尾だもの。普通じゃないわ」


「三百歳? お若いですね」


 十六歳の十和と比べたら三百歳は長命だが、妖狐の世界では若い方だ。

 人間でいえば二十歳ほど。十五で成人してから五年、世間のだれもが自立した大人と認める年といったところだ。


「なんでも生まれたときから尾が二本あったのですって。天然の妖狐よ」

「すごい。妖狐の夫婦から生まれても、普通は一尾なのに」


 妖狐の生まれ方には二種類ある。野生の狐が長生きしてなる場合と、妖狐の夫婦の間に生まれてなる場合だ。


 だが、どちらの場合も尾は一本から始まる。一尾の間は妖狐でなく野狐やこと呼ばれ、見習いの身分である。


 野狐はたいてい強い妖狐――たとえば天遊――の傘下に入り、そこで修行を積む。霊力を増やし、二本尾になれば晴れて妖狐と認められる。


 尾の増える早さはだいたい百年に一本だが、大多数が四尾止まりだ。一生、二尾止まりもめずらしくない。それを考えれば、月白の成長の早さは驚異だった。


「天然の妖狐なんて初めて聞きました。そんな方いらっしゃるのですね」


「ごく稀にいるらしいわよ。ただ、そういう子は生まれてすぐに他の妖怪に喰われて、霊力の足しにされてしまうから、生き残らないのですって」


「もう百年経ったら、六尾にも七尾にもなってしまわれそう」


 急に、吉乃が不機嫌になった。十和は不用意な発言をしてしまったことに気づく。


 吉乃の婚約者の黒松は、月白と同じ五尾の妖狐だ。敵視している異母妹の夫が、自分の婚約者より強くなるなんてことは、仮定でもおもしろくないはずだ。


 吉乃は小さな唇をとがらせると、今度は月白をこき下ろしはじめた。


「でもまあ、それだけよ。強いだけ。


 先日の宴で見たけれど、あの方、作法がまったくなっていなかったわ。普通の狐上がりの野狐のように、動きから獣くささが抜けていないの。

 皆が食べることも忘れて琵琶の音に聞き惚れている中、一人黙々と食事しているし。歌の一つも詠めない野暮よ。


 ここに来る前は色々な妖魔の群れを渡り歩いていたのですって。ごろつきと一緒ね。

 無口で不愛想で陰気で。でも雰囲気は荒々しくて。気味が悪いったら」


 近づいてくる足音で、吉乃の話は途絶えた。光沢を帯びた髪に指を通し、着物に乱れがないか確認する。


 吉乃は豊乃と違って、裕福な町娘のような装いだ。見るだけで明るい気分になるような菜の花色の振袖に、幅広の帯を締めている。


 豊かで美しい髪は結わない。背に流したまま、障子を開ける。褐色の肌をした男に抱き着いた。


「黒松様! いらっしゃると思ったわ」

「よお、吉乃。会いたかったぜ」


 男は気安く吉乃の頬に唇を寄せた。吉乃の許嫁、黒松だ。五尾の黒狐で、常陸国ひたちのくにの妖狐たちのヌシでもある。


 黒松は大股で部屋に入ってくると、目配せで十和にしとねを要求した。どっかりと腰を下ろし、煙管に紫色の狐火を灯す。吉乃の侍女に我が物顔で酒とつまみを要求した。


 堂々とした――ともすれば図々しい――態度だが、黒松は五尾だ。

 天遊の縄張りに六尾から八尾はいないため、天遊の次席は五尾である。二匹しかいない五尾の内の片方なのだから、黒松の態度が大きくなるのは自然なことだった。


「十和、おまえ、月白のところに嫁に行くんだってな」


 無遠慮に距離を詰められ、十和は身構えた。むわっと煙を吐きかけられ、咳きこみそうになる。


「何か危ないことされそうになったら、いえよ。俺がぶちのめしてやるよ」


 喰われそうになったら助けるぞ、ということだ。黒松は同じく五尾になった月白を邪魔に思っているようで、三白眼は敵意でぎらついている。


 ありがたい申し出だが、頼りにはできなかった。黒松から舐めるような視線を浴びて、十和は肌が粟立った。助けてもらったなら腕の一本でも要求されそうだ。

 座り直すふりをして、黒松との間を少し空ける。


「仮にも天遊様の娘が、あんな野良犬みたいなやつに嫁がされるとはねえ。かわいそうに」

「野良犬! 確かにその通りですわね」


 吉乃が手を叩いた。不快そうに、口元を袖で覆う。


「あの方、今日もあのお着物なのかしら。藍染で、ボロボロの。宴の時ですらあの格好でしたわよね。みっともない」


「来た時からずーっと、夏も冬もなくあんな格好だぜ。目元も前髪で隠して、湿っぽいやつだよな。いったいどんなツラしてるんだか。隠さないとまずいような顔なのかもな!」


 黒松は大口を開けて笑い、髪油でなでつけた黒髪に触った。

 黒松自身は深紫色の着、粋に真紅の長襦袢を着込んでいる。帯に凝った細工の煙管入れを下げ、肩にはかつて退治した妖魔の毛皮をひっかけていた。ヌシらしい堂々とした出で立ちだ。酒を運んできた年若い侍女が、吉乃に遠慮しながら見惚れていた。


「十和、気になるなら玄関で待ってみたら? きっともうすぐあなたの野良犬さんもいらっしゃるわよ」


 吉乃が黒松にべったりと寄り添って、しっしと手を振ってくる。

 もう自分は用なしなのだと理解して、十和は部屋を出た。


(……ええと、若くて強くて物静か。いつも同じ格好で、前髪で顔をほとんど隠していらっしゃる。雰囲気が荒っぽくて、野良犬みたい?)


 吉乃と黒松から聞いた月白の印象を整理して、まだ見ぬ夫の姿を想像してみる。

 野良犬、の表現の印象が強すぎて、人に変化している姿は描けなかった。

 白くて大きな四つ足の獣が、真っ赤な口を開けて牙を剥いている姿が思い浮かんだ。


(……一口で食べられてしまいそう)


 十和はずんと重みを増した胃の腑を押さえ、御殿の奥から表へと足を向けた。

 怖いが、自分の目で夫の正体を確かめないことには気が落ち着かない。


 行き交う妖狐たちの間を抜け、玄関口の脇にある控えの間に身を潜める。

 下野しもつけ下総しもうさ上総かずさ安房あわ相模さがみの妖狐のヌシたちが次々と御殿へ集まってくるが、肝心の上野のヌシはなかなかやってこない。


(ひょっとしてもう会合のお座敷にいらっしゃるのかしら)


 控えの間を出ようとして、十和はぎょっとした。わずかに開けている襖の間に、長い顔が差し込まれていた。黒光りする鼻がひくひく動いている。


「におう……におうぞ……人間のにおいだ」


 長い顔が襖を押し開ける。天遊の縄張りと親交のある犬神だった。腰を抜かしている十和を見下ろし、なんだ、という顔をする。


「天遊殿のところの半妖姫か。表に出てきているなど珍しい」


 犬神は一旦は顔をひっこめたが、黒い鼻先を十和に寄せてきた。


「妖狐たちも惜しいことをする。喰らえば楽に尾が増えように」


 だらしなく開いた犬神の口から、よだれが一筋垂れた。ほんの一すすりで良いから、霊力にあふれた十和の血が欲しいというように。

 生臭く湿った息が肌にかかる。十和が助けを呼ぶのも忘れて息を詰めていると、犬神の首根っこをつかんだ者がいた。


「どいてくれ」


 犬神は無造作に脇へとどけられた。

 十和は詰めていた息を吐きだしたが、今度は犬神をどけた人物に「ひっ」と怯えた。

 白い髪に白い肌をした男は、血まみれだった。

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