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よしおの火傷は、彼を襲った火勢の規模を鑑みれば大した事がなかった。一応これには理由がある。
ともあれ、あれからよしおは力尽き、倒れ伏したのだ。
しかし事前の手配で周辺には巫祓千手の医療班が待機していたため、一命を取り留めた。
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「おっさん、俺全然医学のこととかわからないんすけど」
病床に横たわるよしおを見下ろしていた晃が言う。
「最初運び込まれた時はすごい大怪我だってきいて、めっちゃ心配したんすけど、なんだか物凄い勢いで治っていっているらしいじゃないすか。あ、これ会社の人たちからのお見舞い品っす。SAKANOのフルーツゼリーっす」
晃の疑問は最もで、当初体表の16パーセントに及ぶ範囲の火傷を負ったよしおはどこからどう見ても大重傷人だった。
しかしそのよしおの怪我は入院生活を1日、1日と過ごしていく内に凄まじい勢いで治癒していった。
これはよしおが常人をはるかに超える再生力を持っているというわけではなく、陽の炎が霊力から成るモノあった事が理由だ。
霊力により与えられる危害は、霊力により防ぐ事ができる。
そこに悪意があるかないかで妖気だの邪気だのと区分がされてはいるが、本質的には同じようなものだ。
この辺の特性が祓い手が霊異に対峙できる理由でもある。
仮にこれがガソリン爆発などによる炎だった場合、よしおは死んでいただろう。
よしおは早速ゼリーを開封し、喉に流し込んだ。
「おいしいですね、これ。ありがとうございます。今週末までには退院できそうです」
よしおがそういうと、晃が次のゼリーの蓋を開封し、よしおに手渡した。よしおはそれもまるで飲み物を飲み下すかのように喉に流し込んでしまう。
「鈴木さん、いくら美味いからってもうちょっと味わって食べません?」
晃のあきれたような言葉に、ややバツが悪そうな表情を浮かべるよしおはどこからどう見ても普通の中年男性だった。
(…でも、普通じゃないんだよなあ)
晃はあの時、よしおが発した殺意の呪縛の、その冷たい感覚を忘れていない。蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、たとえ自分が蛙でもあの時の鈴木は蛇より怖かった…と晃は思う。
「ああ、そうだ。親御さんの具合はどうなんです?」
よしおが言うと、晃はやや表情をほころばせて答えた。
「なんでしたっけ、残滓…?がないか検査しなきゃいけないらしくって、まだ退院はできないみたいで、あとはリハビリっていうのかな、ずっと横になりっぱなしだから足腰も弱ってるみたいで…あ、でもちゃんと目が覚めて、いろいろ記憶のすり合わせとかしてます」
「そうですか、まあ良かった」
晃の言葉へのよしおの返答は、やや散文的に過ぎる気がするがもとより彼は他人に対してはこんなものだ。
「そういえば鈴木さん、母さんに何か話がある…みたいな事を聞いてましたけど…」
晃がそういうと、よしおは首を振った。
「いえ、それはもう良いです。僕には知りたい事があったのですが。しかしそれは僕にとっての答えではない…気がするんです。なぜなら僕はその答えを知りたいから灰田君のお母さんを助けようと考えました。それは打算です。打算では…打算では…」
晃はよしおが何の話をしているのだかわからず、しかしなんとなくよしおが何を言いたいのか気になった。
打算では?と促すと、よしおは首を振って言った。
「打算では…たどり着けない気がします。愛の秘密には…」
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愛!?愛!?
晃はよしおの口から飛び出した言葉に唖然とした。
「ま、ま、まさか!鈴木のおっさん!あんた、母さんに……?」
晃が恐る恐る聞くが、よしおは呆れた様に晃を見るだけであった。
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病室の扉がノックされる音。
よしおが応じると、晃が扉を開く。
そこには茜崎 陽が立っていた。
上品なレースがあしらわれた白いブラウスに、ふんわりと広がるフレアスカート…まるでどこぞのお嬢様のような服装だった。
まあ事実として、彼女がお嬢様であることは間違いないのだが。
茜崎家は政治家も多く輩出している名門だった。
「あら、あなたは…」
陽は晃を、なにか実験動物でも見るような視線で一瞥した。
「こ、この度は、お世話になりました」
晃がたどたどしく言うと、陽は無言で頷き、すぐに視線を外す。
そしてよしおが寝ているベッドまで行くと、何やら目を細めて頭の天辺からつま先まで嘗め回すように視た。
陽は一見すれば小生意気そうな少女といった風貌だが、晃にはとてもそうは思えない。
晃はこれでいて母を超える霊媒体質だ。
ゆえに一度は隠し鬼に狙われたのだが、その彼の心眼ともいうべきか、言葉にできない勘のようなものは、陽を大型肉食獣より恐ろしい化け物だと警鐘を鳴らしている。
ちなみに、よしおに対してはさらに恐怖心を抱いてもよさそうなものだが、平時のよしおは人畜無害なおじさんなので晃はこれまで彼の危険性には気づかないでいた。
だが先の一件で晃はよしおという男の二面性に気づき、よしおが“ちょっと不思議な力を持った静かなオジサン”ではない事を知った。
しかし晃はよしおを避けよう、遠ざけようとは思っていなかった。
それは全身に火傷を負ってもなお自身の母親を救ってくれた恩人だという点が大きいし、さらに言えばこれまでの特殊な現場で誰が身を張って自分達を守ってくれていたかを晃は知っている。
「…もう、大分治癒しているわね。普通は死んじゃうはずなんだけどな。これが鈴木さんと私の今の差っていうことなのかしら?」
陽の口の端は少し口角があがっており、晃の目には何とはなしに機嫌がよさそうに見える。
「治療費は報酬から差し引いておいてください」
よしおが色の無い声でいうと、陽は苦笑しながら言った。
「…元はと言えば、私たちが不甲斐なかったせいよ。報酬とは別に、治療費は巫祓千手が全額持つわよ。それに、私たちでは“彼女”を祓う事しかできなかったと思うの。あの時、私の炎から彼女を守ったあなたに、きっと彼女は感謝していたはずよ」
陽の言葉に、よしおは何も返さなかった。
一々弁明するのが面倒だったからだ。
なるほど、確かに“隠し鬼”は哀れな境遇だったかもしれない。
だが他人である。他人に対しては気の毒以上の感情を持つ事はないし、余裕があれば手助けなりしたかもしれないが、少なくとも身を呈して救おうとなんてしない。
──すべては幸運な偶然
それがよしおの偽らざる本心なのだが、世の中には誤解させておく方が良い事柄とそうでない事柄がある。
これは前者だと判断したよしおは、感情を感じさせない目で陽を見続けているのであった。
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賢さと要領の良さは似ているが違う。
よしおは子供の頃から1を聞いて10を知るほどではないが、1を聞けば4なり5なりは察することが出来た。
よしおは賢かったから察しが良かったのだ。
人間関係を上辺だけ取り繕う事もうまかった。
よしおは分かっていたのだ、人間は“知ってほしい”とは強く思うものの、“知りたい”とはなかなか思わない生き物だという事を。その要点だけおさえてしまえば、良好な人間関係を構築するなんてことは訳もなかった。
よしおは賢かったから周囲を友好の煙に巻くなんて事は容易かった。
だが聞かされていないこと、上辺だけではどうにもならないことも世の中にはある。
愛であった。
よしおは施設育ちだ。
両親という愛の見本を知らない。
これが愛なのだ、ここがゴールなのだ、こういうものを目指すのだ、と誰もよしおに教示してくれなかった。
よしおは賢かったが、要領はあまり良くなかった。
知らないことを程ほどに察するという事が出来なかった。
愛を知らなかったよしおが礼子と出会ったとき、よしおはこれこそが愛だと感じた。愛の形を知ったつもりになっていたよしおは、その形をより大きくしようと考えた。合理的に。
目標に向かって着実に歩を進めることは、よしおの得意とする事だ。
よしおは礼子に対しても、“良好な人間関係を構築”していった。
二人の間にトラブルは起こらなかった。
当然である、よしおがそのように礼子との人間関係を管理した。
しかしそれで愛が深まるかといえば疑問だ。
また、当の礼子に限らず、本当に愛されているか愛されていないかなど当人だってある程度は察するものだ。
礼子はよしおとの結婚生活の間、ずっと薄ら寒く感じていただろう。それが心の隙になり、ゆくゆくの家庭崩壊に繋がった…とは安直には言えないかもしれないが、いずれにしてもよしおと礼子の夫婦関係には隙間風がぴゅうぴゅうと吹き込んでいた事は間違いない。
よしおはよしおなりに礼子を愛し、夫婦関係を維持しようとはしていたが、よしおが提示する愛は礼子にとっては愛の形を成していなかったのだ。
だからといって不貞行為が許されるかと言えばそれは否だが、夫婦関係は浮気しなければ後はどうでもよいというものではない。
よしおもそのあたりは理解しており、だから成長したいとおもっている。“正しい愛の形”を知りたいと思っている。
では愛を知るにはどうすればいいのか。
愛を知るには人を知る事だ。
人間関係を知る事だ。
人間の外ッ面だけではない、中身をたくさん知る必要があるとよしおは考えている。
そして人間の中身とはその精神だ。魂だ。
よしおがこの業界にいる理由は、より多くの精神、魂を知り、ひいては愛を知り、成長し、その姿を礼子に見てもらい、そしてただしい愛の形でやり直す為である。
ドス黒い愛の形だと、そんな道は地獄に繋がる道でしかないと人は言うかもしれないが、よしおにとっては純愛なのだった。