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(な、何を言ってるの…!?)
陽の疑問は最もな事で、確かによしおの境遇というのは同情に値するものなのかもしれないが、少なくともこの場で嘆くような事ではない。
よしおとて平時ではこのように心乱れることはないが、“隠し鬼”のように強力な存在にアテられたせいでこうなってしまったのだ。
これはなにもよしおだけがこうなってしまう訳ではない。
ろくに下調べをせずに心霊スポットに突っ込む者が居り、悪くて死ぬか、良くても発狂して帰ってくる…というような事は聞いたことがないだろうか?
死ぬというのは分かる。
悪意のある霊異が知能が低い愚者を殺害するのだ。
しかし発狂というのは?
霊異現象に遭遇すると、人は強い恐怖や不安を感じる。
強い心理的ストレスが精神的なバランスを崩し、発狂につながるというのは霊異現象関係なく往々にしてあるのだが、霊異現象と言うのはこの影響が顕著だ。
勿論死なないし発狂しない者もいる。
それは本人がどれだけ精神的タフかにもよるが…少なくともよしおは精神的にはタフではない。というよりボロボロだ。外的要因がよしおの精神をズタズタにしてしまったのだ。しかしよしおは生半可な霊異現象では殺されたりはしない。
霊的存在が彼を殺害するというのは、それなり以上に骨である。よしおは十把一絡げのド平民の血を引くド庶民なのだが、彼の生来の資質が深く斬り過ぎたリストカット痕から沸いてくる血のようにドクドクと霊力を生み出すからだ。
霊力というのは現代科学では解明されていない未知のエネルギーだ。これは気力だとか気合いだとか、そういうモノとよく似ている。
やる気がないとか気力がないだとか、そういう時はなんだか体が重く、動きが鈍重となる。
逆にやる気が漲っているという様な時は動きはキビキビと素早く機敏だ。
よって霊力が満ちている状態というのは神経システムが活性化され、端的に言えば身体能力全般が向上する。
少なくとも9ミリ弾程度なら表皮で受け止めることは訳もない。
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よしおはなおも“隠し鬼”の襟首を掴み離さない。
そして“隠し鬼”もまた枯れ木のような肌をした手がよしおの手首を掴む。
両者は一歩も動かなかった。
“隠し鬼”は力を込め、ギリギリとよしおの手首を握り潰そうとする。
今のよしおの身体能力、及び靱性は全身に漲る悲憤の霊力により飛躍的に向上しており、その皮膚は地球上でもっとも硬いとされるサイのそれを遥かに凌駕する。具体的に言えば、完全に水分を飛ばした餅よりもずっと硬い。
まるでよしおの融通の利かなさ…頑なさを体現するかのような硬さだ。もちろん無傷ではなく、“隠し鬼”の爪が食い込み血が流れている。
だが即座に握りつぶせないならばと”隠し鬼”は大きな口をあんぐりと開けて、襟首をつかむよしおの手首に嚙みつく。
さらにその一本一本に意思があるかのように、無秩序に蠢く毛髪がよしおに絡みつき、皮膚を破り肉を食い荒らす。
ただの髪の毛ではない。
よしおが目を細め髪の毛を見ると、その一本一本がよしおの肉を溶かしているのがわかる。
「鈴木さん!その髪!焼くわ!」
服代は弁償するからと、陽はよしおの返事を待たずに炎の蝶をよしおにけしかける。
もちろん爆撃でよしおもろとも焼き尽くすというのも戦術としては有効だが、それは後が怖い。
ゆえに爆炎蝶を至近で炸裂させ、熱波と爆風で髪の毛を焼き払おうという短絡的で暴力的な作戦はしかし、案外に有効に働いた。
単純強度ではアラミド繊維にも勝る髪の毛が、熱に炙られうねり狂いながら焼け溶けていく。もちろんよしおも無傷ではなく、ワイシャツが焼け焦げて実戦で鍛え抜かれた上半身が露わになってしまった。
陽の炎はただの炎ではない。
西の巫女たる彼女の炎は重すぎる業が込められている。
いまでこそ廃れてはいるが、西の巫女とは本来その身を生きたまま焼き、自身の炎を火之迦具土神に捧げてきた一族なのだ。
伊邪那岐により斬り殺され、恨みに荒ぶる火之迦具土神を一命を以て鎮めてきた。
そんな業、強烈な神聖性が彼女の炎には込められている。
そこらの木っ端悪霊でも、いや、木っ端ではない悪霊でも彼女の炎を浴びればただではすまない。
だが…
ひゅうっ、と何か吸い込む音。
“隠し鬼”が大きく息を吸い込んでいる音だ。
それをみて陽は愕然とした。
「わ、私の炎がっ…!」
そう、彼女の炎はその霊的要素の強さゆえに一部の霊異には良い餌となってしまう。
特にその存在根拠に悪性のものを持たないモノには…。
“隠し鬼”は確かに恐ろしい存在だが、しかし邪悪ではない。
結局、どれだけ恐ろしくとも、“隠し鬼”には悪意があるわけではないのだ。
彼女はただただ絶望的なまでに悲しんでいるだけである。
家族を失った女達の悲哀と、飢えと孤独の中死んでいった子供達、さらには飢餓に苦しむ人々の的外れな祈り、願いのやりきれない集合体…それが“隠し鬼”なのだ。
陽の炎が“隠し鬼”に吸い込まれていく。
ただ、“隠し鬼”が吸い込んでいるのは炎だけではない。
ビュボゥッという音と共に、、よしおの正拳が炎を裂きながら“隠し鬼”の口元に突き刺さった。
腕を束縛していた“隠し鬼”の毛髪が焼け溶けたおかげでよしおは攻勢に移ることができた。
その腕には痛々しい咬み痕が残っているが、膨れ上がる筋肉により止血は完了しているので問題はない。
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がりがり、と耳をふさぎたくなる音が響きわたる。
その音はよしおの拳が“隠し鬼”の歯を粉砕していく音であり、同時に“隠し鬼”がよしおの拳を、腕を咬み砕こうとしている音でもあった。
非常に硬いものを無理やりかみ砕こうとしている音は、よしおの腕がそれだけ硬質化している証左であった。
まるで自身の強固な心の壁を腕に纏ったかのように、よしおの腕の強度は飛躍的に高まっている。
よしおは腕を引き抜くどころか、さらに奥に奥に押し込んでいく。
この時、よしおの心には慈悲に似た何かが芽生えていた。
──そこまで飢えているなら腕の一本、持っていけ。輪廻に還る前にせめて腹を満たしてから逝くといい
“隠し鬼”の歯牙をその腕に受け、さらには血肉まで食わせてやるほどに接触することで、肉と肉ではなく心と心の、彼我の距離がわずかに縮まった。
ゆえの慈悲!
よしおは知った。
“隠し鬼”の悲しみ、怒りの奥の根源を。
その悲劇の衝撃は霊的ハンマーの衝撃力となって、よしおの狂気を打ち砕いたのだ。
(彼女は、いや、彼女達は飢えているのだ)
よしおは僅かに戻った正気でそう考える。
飢えているのだ、だから食いたいのだ、と。
しかし三者三様の想いに雁字搦めにされ、千々に乱れた心ではそれも叶うまい。と。
よしおをして、あまりに哀しい生い立ちだと思わざるを得ない非業の極致。
しかしよしおとて修羅場や死線の十や二十は超えてきている。
だからわかるのだ。
事ここに至っては、糾える縄のような“隠し鬼”の業を解き祓い、救ってやることなどはできないと。
狂って当然なほどに重い業をよしおは感得し、僅かに憐れんだ。
だがそれが良くなかった。
祓いの対象へ情を向けることは祓い手にとって禁忌とされている。
なぜなら感化されてしまうからだ。
感化されれば、心の平衡はたちまちに乱れ、最悪の場合取り込まれてしまう。
発狂したよしおの精神は慈悲が為に正気に戻り、そして正気に立ち戻ったよしおは“隠し鬼”の非業を前に感化され、再び狂気の淵へを追いやられた。
正気と狂気のシーソーゲームは完全に狂気へ触れ、よしおの瞋恚が慈悲の供物として差し出した腕を凶器へ変容させる。
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瞋恚(しんい)とは何か。
それは怒り、恨み、憎しみである。
嫌うこと、いかることだ。
心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒り憎むことだ。
よしおはこの時、“隠し鬼”に触発された狂気と、そしてその場で自裁してしまいたいほどの自己嫌悪に囚われていた。
なぜなら悲劇の度合を相対的に比較すれば、いくら愛していた女とはいえ、不倫だのなんだのという悲劇は“隠し鬼”が生まれてしまった経緯と比較すればなんてことはないからだ。
100人に聞いて100人ともが“隠し鬼”のほうが哀れだというだろう。よしおもそれは理屈としては理解はしていた。
しかしよしおの主観はあくまでも自身の悲劇のほうが実感としては重く、悲しいことなのだ。
どこまでいっても、どんな悲劇を前にしても自分の自身のことしか考えられぬ己の醜さに、卑しさによしおはやり場の無い悲しさと怒りを覚える。
「お、お、俺はァァァァアアァァアアッ!!」
俺は、なんと続けようとしたのか。
よしおは叫ぶと同時に“隠し鬼”に突っ込んだ手を手刀の形に変え、そのまま刃物を切り上げるかのように、“隠し鬼”の頭部を縦に切り裂いた。
触れるもののすべてを傷つけるような自己嫌悪の刃は、振るえば振るうほどよしお自身の精神を傷つける。
“隠し鬼”の頭部を口中から縦へ真っ二つにしたよしおは、刹那の内に三閃、四閃と手刀を振り回し、“隠し鬼”の口から上をグチャグチャに引き裂いてしまった。
(う、うわぁ……)
陽はそんな惨劇を見て呻きを抑えるのに苦労をした。
彼女の中で祓いの業とは過酷だが神聖なものだ。
市井の民を護る為の崇高な行いだ。
であるのに…
(ああ、あの人はたまたま生きているだけで、地縛霊とあまり変わらないんだな…)
そんな失礼なことを考える。
だが、よしおに対しての認識としては至極正しいものだった。