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全ては偶然の産物だった。
本来、『隠し鬼』などという胡乱な怪異は存在しなかったのだ。
だが昔。
ある時、ある地域の、ある村が。
村1つを枯れ果てさせるには十分すぎるほどの深刻な飢饉に見舞われた。
人々は苦しんだ。
作物は実らず、ただでさえ実りの少ない枯れ山の恵みも食い尽くした。
たくましかった男衆はやせ衰え、女衆は出ない乳を赤子にしゃぶらせ、赤子たちは干乾びるように死んでいった。
こういう時、人が何をするのか。
答えは1つ、神頼みである。
人々は居もしない神が怒っていると考え、居もしない神を宥める為に生贄の儀式をとりおこなった。
この生贄の儀式自体には何の意味も無かった。
痩せこけている半死半生の村人を山に放り込んだからといって、飢饉は解消されないし山だってこれまでと同じように枯れ山のままだ。
しかし、何事も“偶然そうなってしまった”という事もある。たまたま翌年から少しずつ実りが戻ってきたのだ。
これは超常的な現象でもなんでもなく、純然たる偶然であった。
しかしこの偶然が故に、爾来その地域では生贄の儀式が行われてきたのである。
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信仰とは人々が何らかの超自然的な存在や力を信じ、敬い、信頼する心のあり方だ。そして信仰が生まれる事で神も生まれる。
特定の現象や事象を説明するために、神や超自然的な存在が創造され、それが人々の信仰によって広まり、継承されることで、神は生まれる。
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逆月家の鬼才、逆月 星周の敗死は『巫祓千手』に大きな衝撃を与え、彼を屠ったと見られる憎き霊異に対し復讐の念抱かせた。
星周はその実力、人格によって巫祓千手の精神的支柱としての立場を確固たるものとしており、故に反動も大きかったのだ。
だが、そういった個人的な感情以外にも、国の意向、メンツといった問題もあった。
『巫祓千手』は日本国政府…具体的に言えば総務省消防庁霊的災害対策課に属する組織だ。ちなみに同じような大小の組織…というか、チームが他にもいくつか存在する。
巫祓千手の最高指導者は『座主』ではあるが、そのさらに上位に総務大臣が存在する。総務大臣は霊的災害組織の運営や資源の配分を決定し、他の省庁との連携を取る役割を担う。
こういった背景がある以上、組織の有力人物が殺されたとあっては、“はい、残念でしたね”では済まないのだ。
だから『隠し鬼』についても、総務省はそれなりに大きなリソースを注ぎ込んで調査をした。
その調査には当然巫祓千手も関わったのだが…
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「結局、詳しいことは良く分からなかったのよ。地方の僻地を見舞った不幸から生まれた霊異…以上の何もわからなかった。普通は何らかの逸話が残っていて、そこに調伏……」
陽が硬い声色で話を続けようとするのを、よしおは身振りで制した。四方にたてられた柱がぐらぐらと揺れ、乾いた音を立てて罅が入る。
よしお達の正面、四辺の一辺に張り巡らされた注連縄の中央部が一本一本ぷつん、ぷつんと音をたて引き千切られていく。
“隠し鬼”がやって来たのだ。
食事を邪魔したよしおを殺しに。
ただ、さすがに巫祓千手もそれなりの質のモノを持ち込んできたようで、柱も注連縄も子供が紙を引き千切るように、とはいかない。
かつて“隠し鬼”は逆月 星周と晃の母親である依子が籠った部屋を護っていた護符を一息に破ってしまったが、注連縄はそうもいかないようだ。
時間の問題のようだが、それでも抵抗は出来ている。
「熱田神宮の大楠の注連縄なんて、その辺の妖物(ようぶつ)は近寄る事も出来ないはずなんだけどね…」
陽は冷汗を流しながらごちた。
そんな陽だが、横目でちらりとよしおを見て…そして驚愕する。
よしおの様子は緊迫した様子で構える陽とは対照的だった。屈みこみ、そこそこ高級な運動靴、DAIKI Air Zapper(ダイキ・エアザッパー)に付着している砂粒を払うなどしている。
最先端の技術と高品質な素材を使用した高級運動靴で、プロアスリートからアマチュア運動愛好家まで幅広い層に支持されている。値段としてはおおよそ30,000円~40,000円。
ラフでダイナミックな祓いスタイルのよしおは、時に曲芸師染みた動きをする事もある。
DAIKI Air Zapperはそんなよしおの高速機動戦術の用に十全に応えるパワフルな運動靴だ。
「ちょっと!鈴木…さん!」
陽が叫ぶ。
「はい」
よしおが短く答えると、陽は視線は前方にやりながらも、ちらちらとよしおを見ながら怒った様に言った。
「何してるのよ、ほら!見て!今にも結界が破られそうなのよ!?」
陽がそんな事を言うが、よしおは無感情に答えた。
「破られてから考えましょう。お祓いには平常心が肝要です。心が乱れていては簡単な事もミスしてしまう。この現場は命がかかった危険な現場です。だからこそ普段より冷静でなければなりません」
よしおがそういうと、陽は目を見開き、かつて手合わせで自身が敗北を喫した(殺されかけた)のも当然だと感得した。
「さすがね、確かにそうね。ごめんなさい。私も修行が足りないわね…」
陽が謝罪をすると、よしおは首を振った。
「いえ、良いんです。僕も差し出がましいこといいました。申し訳ない。…さて、そろそろのようですよ」
よしおの言葉に、陽は表情を引き締め前方を睨みつける。
ばつん、と厭な音が鳴り、注連縄が完全に引き千切れる音がした。
――わたしぃぃぃの、あか、ちゃぁぁぁあ、ん、しぃぃりませ、んか、ぁぁあ
暗がりに呻声(うめきごえ)が響く。
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今は昔、とある地域で人々は居もしない神が怒っていると考え、居もしない神を宥める為に生贄の儀式をとりおこなった。
生贄に捧げるのならば、貴き血を引くものがいいだろうと、その地域を治める豪族は自身の血族から生贄を出した。
しかしこの生贄の儀式自体には何の意味も無かった。
捧げるべき神自体がいないのだから。
飢饉は解消されないし山だってこれまでと同じように枯れ山のままだ。
しかし、何事も“偶然そうなってしまった”という事もある。たまたま翌年から少しずつ実りが戻ってきた。
爾来、鬼撫の家は権力を持ちながらも、血族を生贄に差し出し続けた。なぜなら、一度生贄を出してうまくいってしまったから。出さなくなって再び飢饉が訪れたなら、領民は鬼撫の家に不穏な目を向け、不穏な事を考え、不穏な事を実行するだろう。
鬼撫の家には常に無言の圧力が掛けられていた。
生贄には純粋無垢な子供、できれば赤子…が選ばれ、鬼撫の家の女は血涙を流し、しかし領地の為、一族の為だと我慢を続けてきた。
その恨みの念が、神を狂わせたのだ。
生贄を喰らい、まるで最初からいなかったかのように隠してしまうその鬼は、飢えに苦しむ人々の望みから生み出され、そして子を奪われた母達の恨みの念により狂い、堕ちた神。
それが“隠し鬼”の由来であった。
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・茜崎 陽・
な、なんて妖気!
不安と恐怖が胸の奥で渦巻く。
私は手を握り締めるが、掌は既に汗でビショビショだった。
“お役目”を継いで以来、此れ程の霊異と対峙した事はない。
もしかしたら、パパとママに逢う日が早まっちゃうのかな、なんていう弱きな考えが浮かぶ。
私は横目で鈴木よしおを見た。
彼は異端だ。
才はあるのかもしれないが、その血に特別なものは何もない…らしい。組織の調べでは。
“力”が血に宿るというのはまさにその通りで、“この世界”の実力者は大多数が名家の出だといってもいい。
でも彼は…。
いや、そんな彼に期待している私がいる。
こんな強力で凶悪な妖気を放つ存在と対峙して平然と居られるというのは、まさに英雄の気質といっても過言じゃないだろう。
貴種流離譚というものがあるが、組織が見落としただけで、彼もあるいは特別な血を引いているのかもしれない。
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よしおの目が見開かれ、まるで疾風のような速さで陽を横抱きに抱え、弾ける様に地を蹴った。
地面に着地したよしおは陽を下ろし、左腕の上腕部を見る。赤黒いモノが流れている…血だ。
(切り傷…じゃない、これは…)
「噛み傷…」
よしおの視線の先に、“口”が浮かんでいた。
数m先の中空、大小様々な“口”がよしお達を取り囲んでいた。
その数は10や20では利かない。
さて、1匹ずつ潰すのは骨だぞ、とよしおが考えていると、不意に周辺の気温が数度上昇したような気がした。
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――八百万の神に仕ふる巫女どもの、火を侍らす巫女に願ひたてまつる。我にふりかかる危難をきみの怒りに焼き払ひたまへ。我は礼の証に舞を一差し踊らむ
陽の手にはいつの間にか一本の扇子が握られていた。
そして芸術的感性を恒久的に失調しているよしおでさえ、僅かに見惚れるほどの舞を魅せる。
陽が扇子を一閃すれば炎の蝶が舞い踊り、二閃すれば炎の蝶からりん粉が吹き乱れ、三閃目でそれは爆裂し、宙に浮かぶ不気味な“口”を木っ端微塵に吹き飛ばしていく。
彼女のいわば誘導機能つき霊的ハンドグレネードは、当然だが霊的存在以外にも危害を及ぼすことが出来る。
TNT換算にして約300グラム程度の爆発エネルギーは、アメリカ軍や陸上自衛隊が現行採用しているMK3手榴弾とほぼ同等だ。
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宙空に爆発と閃光の花が咲き乱れ、間断なく響く轟音は巻き込まれた者達に確かな破壊と殲滅を齎す事を確信させるものだった。
西の巫女とは、つまるところこう言うものだ。
特別な血に宿る特別な霊力を以て様々な破壊的奇跡を成す。いまだ未熟な彼女でさえこれだ。
ゆえに使い所が非常に難しいのである。
なにしろ、常に巻き添えの危険があるのだから。
よしおが現場を廃校のグラウンドとしたのも、彼女の力を鑑みての事だった。
よしおは“それ”を一度見た事がある為そこまで驚くことはなかったが、自身ではとても真似出来ないその業に内心で賞賛を送った。
(まるで超能力者…何と言ったか…パイロマンサーというのか。そういえばホラー映画で『マリー』というものがあったな。発火能力者だ。彼女は力を制御できず、最期は不幸な末路を遂げていたのだったか。茜崎 陽はその点問題はないようだ。だが…)
よしおの視線が鋭く前方に注がれる。
薄汚い服を着た白服の女。
その瞳は白い。
まるで白内障にかかっているかのような。
口元には笑みが浮かんでいる。
そして、女の周囲には何か白い靄(モヤ)のような、糸のようなものが浮遊していた。
これは妖気の可視化現象だ。
あんぐり、と。
女が口をあける。
大きく、大きくあける。
顎は間違いなく外れているだろう。
だが不気味な女…“隠し鬼”は構わず口を開いていった。
そして次の瞬間。
よしおが後ろに軽くずれると同時に、ガチンという音と共によしおの目の前で口が閉じた。
陽は頬を怒りで赤く染め、扇子を閉じて距離のある“隠し鬼”に振り下ろす。
扇子の先から炎の鞭が伸びるがしかし、燃え盛る炎の鞭は隠し鬼の手前で吹き消えてしまった。
いや、喰われた。
飢えて死んだ赤子達…鬼撫の者らの死後もなお残る飢餓の前では霊力が多分に込められた炎など餌に過ぎない。
愕然とする陽に、“隠し鬼”の目が向く。
にたりと笑うその表情はいかにも不気味で、だがそれ以上に至近での妖気が陽の精神回路に腐敗の毒を混ぜ込んだかのような錯覚を起こさせ、陽は嗚咽を堪えざるを得なかった。だが悪心(おしん)で済んでいるのは陽の巫女としての才故だろう。
もし一般人がこの妖気の放射をマトモに浴びれば、発狂で済めば御の字だ。
――わ、た、しィィィィィのおおおおおおお、あがぢゃん…か、え、し、てええええええええ
“隠し鬼”が唸り声にも似た絶叫をあげ、陽の顔面を齧りとろうと大きく口を開けた。
数十mの距離を一瞬でつめるほどの速さで迫られれば文字通り、瞬きの瞬間に陽の頭部は半分になってしまうだろう。
しかし、そうはならなかった。
よしおが“隠し鬼”の襟首を掴んで離さなかったからである。
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よしおは陽に対して攻撃態勢にはいった“隠し鬼”に対して懇々と言った。
「あなたが悪いわけじゃない事は分かっているんですが、僕は子供の話はしたくない。僕は子供が出来ない体なんです。…思えば、検査でそれが判明してから、僕と礼子の間に溝が刻まれたような気がする」
よしおは至極冷静であった。
しかし震えている。
“隠し鬼”に対しての恐怖ではない。
だがある種の恐怖ではあった。
それは自身の欠陥を直視する際に発露する恐怖だ。
多分に自己嫌悪が混じった恐怖は、百戦錬磨のよしおですら震えさせる恐るべきモノであった。
誰でも自分の欠陥は直視したくないのだ。
「私の赤ちゃん知りませんか、ですか。ぼ、僕がそれを知りたいです。僕の赤ちゃんは…ぼ、ぼ、ぼくは永遠に赤ちゃんをこの手に抱く事はできないでしょう…」
よしおの腕の出血はいつのまにか止まっていた。
自己に対しての恐怖が、それを引き起こした対象…“隠し鬼”への怒りに転換され、ナイアガラの滝のように勢い良く、激しく分泌されたアドレナリンが出血を止めたのである。
「…僕は、俺だって努力をした!!!病院にだっていった!不妊治療をッ!!!!うげだァァ!!!出来る事を!!!したんだッ!!!俺が悪いのか!!!答えてください!答えてくださいよォォ!!!」
よしおの絶叫が大気を震わせる。