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「…何か、誤解がありましたか?」
よしおは殺意を収めて一応たずねた。
うら若き少女が泣いているから、ではない。
よしおは状況と条件が整っていれば老若男女関係なく挽き肉にしてしまう男だ。
だが、状況と条件が整わなければ基本的に無害な男でもある。
例えば夜道、泥酔した中年男性がいきなりゲロをぶちまけてきたとしても、平時のよしおは怒らずに水くらいは持ってきてやるだろう。
しかし与太者が唾を吐きかけてきたなら、謝罪を要求するだろう。
その時よしおは必ず与太者に謝罪をさせる筈だ。
たとえ何をしてでも謝罪をさせる。
そう、何をしてでも。
陽はうんうんと頷いて、乱れた髪の毛を手櫛で直す。
「そ、そう!誤解があるの!私は…前に鈴木さんに酷いことを言ったわ。で、でも!それは…それは…私もキチンと謝罪したし…仲直り…出来た…わよね…?」
敵意でも殺意でもない、隔意を感じただけの相手をいきなり殺害しようとする事が仲直りと言うのならば、陽の知能は非常に低いといわざるを得ない。
だが、決して仲直りしたわけではない、ただあの場での殺し合いを取りやめただけだ、というのは当の陽自身がよくよく理解していた。確認をするような問いかけには、多分に彼女の願望が含まれている。
「…………」
よしおは黙り、改めてそれまでの経緯を思い返す。
「分からないことがあるんですが。巫祓千手の座主…様は、なぜあなたを派遣したのですか。私達の関係が余り良くない事は分かっているとおもうのですが」
よしおは陽の言には答えず、逆に問い返した。
それは啓や雨子も同じ思いだった。
「そ、それは……」
それは?とよしおが促すと、やがて陽はつらつらと語り始めた。
「か、禍根を残すな…と。座主様は時に…その、先の事を見通すような事を仰ったりするんだけど……だから、その…」
陽の口調はたどたどしい。
だが、何が言いたいかはよしおにも薄っすらと分かった。
「予知のような力ですか?話は聞いたことありますが。禍根、ね…。別にあの場は収まったのですし、そこまで気にする必要はないのでは」
よしおが言うと、陽は力なく首を振った。
「そういうわけには、いかないの…」
そう言った陽に、よしおは冷たい視線を向けていた。
その瞳に宿る光は好意の対極にある。
上に言われたから禍根が残っている相手に会わねばならないというのはお気の毒だが、とよしおは思う。
――あるいは、生かしておく事自体が禍根を生む、か?
1度ある事は2度あり、2度ある事は3度ある。
ならば……。
よしおがそんな不穏な考えを抱いていると知ったなら、陽はたちまち逃げ出してしまっただろう。
「……まあ、僕からあなた方の本部に連絡を入れてもいいです。“隠し鬼”でしたか。1人では少し大変そうですから、助力していただけるならそれに越したことはない」
よしおがそういうと、そうじゃないの、と陽は続けた。
「それはそれとして、やっぱりちゃんと私の意思で謝りたくて…。座主様は日を置いて機会を設けると仰ったのだけれど…私が無理に頼み込んだの。あの時私は、巫女神様に選ばれし者だっていう特別な意識に凝り固まってて…それで、そんな私に、私達に対等に接してくる鈴木さんの事が疎ましくて…だから、その、ごめんなさい…」
よしおはその言葉を聞いて、ぴったり2秒考えた。
考えるに値する言葉だったからだ。
誠意を感じる言葉。
そして答えた。
「いいですよ、改めて謝罪を受け取ります。許しました。それで話は変わりますが、地の利を得たいですね」
それまでの事はまるで大した話じゃないのように振舞うよしおに、陽は目をぱちぱちとしばたたかせた。
よしおが陽の謝罪を軽く考えているわけではない。
この態度はよしおのメンタル…というより、元証券マン特有のタフなメンタルと切り替えの速さから来るものだ。
よしおは2秒で陽の言葉から本音を嗅ぎ取り、そして本当の意味で許した。
よしおは決断の男である。
何事も瞬時に決定する。
決断力とはよしおの代名詞であった。
ちなみに、大手証券会社の離職率は非常に高い。
新卒入社組の70%は入社3年以内に退職する。
怒声、罵声は当たり前で、ノルマ達成出来ない者は人間扱いすらされない。
ノルマは週単位、月単位で上司に管理され…そういう環境で磨かれてきたタフなメンタル、そして決断力は瞠目すべきものだった。
なお、よしおはそのタフなメンタルを以てしても礼子…元妻の事を忘れられないでいるが。
◆
「ち、地の…利?」
困惑しながら陽がたずねる。
だが、ややあって“ああ”と頷いた。
「私の…力の事…かしら?」
よしおは頷いた。
互いに模擬戦で、一度は殺意をもって対峙した事のある関係だ。よしおは陽の巫女としての力をよくよく知っていた。
「アレを狭い場所で使うのは自殺行為でしょう。ましてやこちらは2人です。場所は広いほうがいい。なるべく見通しの良い場所が良いでしょうね」
巫祓千手の三人の巫女達は、これは言ってしまえば霊的戦術兵器のような力を持っている。
中でも陽は、三人の巫女でも最も攻撃的だと言っても過言ではない。かつてよしおが陽を殺害しようとした時、言葉で言うほど圧倒的な差があったわけではなかった。
言い換えれば、少女に過ぎない陽を殺さざるを得ないような、そうでもしなければ自身の身が危うくなるような、そんな状況へよしおが追い詰められたから、とも言える。
◆
「屋外、見通しが良く広い場所…うん、廃校かどこかのグラウンドが良さそうです。それでは茜崎さん、廃校のグラウンドを使えるように手配していただけますか。援軍はいらないでしょう、下手な援軍は餌になるだけです。しかし“隠し鬼”を始末できたとしても、無傷でいられるかどうかは疑問です。医療班を出せる準備は整えておいてほしいですね」
テキパキと話を進める様子は、まるで仕事の段取りを組んでいるようだった。
そこに気負いや怯みは見当たらない。
しかしそんなよしおは、勝利を確信していると言う事でもなかった。
よしおは自身の掌を見る。
呪いから受けた傷だ。
その辺の木っ端悪霊がよしおの肉体、精神に傷をつける事は難しい。よしおが傷つけられたと言う事は、相手は木っ端ではないという事だ。
「すみません、治療をしていただけませんか。それと先ほどは失礼しました。色々と誤解だとわかりました」
よしおは啓達の目の前まで歩いていき、頭を下げて頼んだ。
既に殺気による束縛は解いている。
雨子と啓、ついでに晃は目を合わせ、苦笑を浮かべた。
「なあ、おっさん…その傷…相当深くない?平然としてるけど…」
順応性が高い晃が覗き込み、表情を顰める。
よしおの手に刻み込まれた傷は、どう見積もってもただの切り傷で片付けられるようなものではなかった。
「凄く痛いです。平然としているのは我慢しているからです」
よしおが苦笑を浮かべながらすなおに答えると、その様子を陽は少し意外そうに眺めていた。
§§§
茜崎 陽
もしかしたら、もしかしたら私はこの人のことを少し誤解していたかもしれない。
最初、彼は暴力的で気難しい人間のように見えた。彼の目は冷たく、顔の筋肉ときたらぴくりとも動かない鉄面皮に見えた。
でも、接し方さえ間違わなければ、案外接しやすい人なのかもしれない。彼についての調べはもう読み込んである。配慮はしなければいけないだろうけれど、それは他の人達についても同じだ。
あの時私は彼に本気を出させる為に酷い挑発をした。
そればかりではなく、人一人を殺すのに十分な“力”を使った。彼ならそれくらいはへいちゃらだろうと思って。
模擬戦では明らかにやりすぎだった。
彼との事前の話でも、あくまで手合わせという話だった。
約束を先に破ったのは私だ。
それから彼はそれを許してくれるどころか、私の鼻を潰してお腹を蹴り飛ばし……
・
・
・
――そうか。僕…ぼく、俺を殺したいんだなァ
ゴッ、という音。
――殺される前に殺そう!そうしよう!
ガッ、という音。
鈍い音が何度も響き、血が飛び散る。
助けて、といおうにも声が出ない。
喉が潰されているからだ。
――痛いかい?俺も痛かった。腕を見てくれ、火傷してしまった
バキッという音。
腕の骨を折られた音だった。
周囲が騒がしい。
ああ、早く止めて、この人を止めて。
私が、殺されてしまう前に。
・
・
・
うううう!
厭なことを思い出してしまった…。
§§§
「あら?巫女様も少し顔色悪いですね…少し休んでおきますか?」
雨子が陽に訊ねた。
「いえ、あ、でもお水だけ…」
雨子は頷き、部屋を出て行く。
啓はよしおの手当てをしていた。
晃はそれを“うへぇ”という表情を見ながら眺めている。
「あの、大丈夫、かしら」
陽はおずおずとよしおに聞く。
啓は表情を緊張させ、悲劇の種が発芽しない事を祈った。
だが啓の懸念は杞憂に終わる。
「変なモノ…毒や呪いは入り込んでいません。ですが気をつけて。“隠し鬼”本体はきっとこんなものではないでしょう。巫祓千手の人達も何人も犠牲になっていると聞きます。僕は出来るだけ茜崎さんを護るために動きますので、一秒でも早く焼き払って下さい。単純火力では僕は茜崎さんに及ぶ所ではありません」
よしおの言葉はそれまでの確執をまるで感じさせなかった。
事実、よしおの中では茜崎との確執は既に終わった事だ。
それを聞いた陽は…
「…私の力が頼りってこと?」
そんな事をよしおに聞き、よしおは大きく頷く。
これも媚びているわけではなく、純然たる事実だ。
平時のよしおより、陽のほうが火力が高い。
それを聞いた陽は、どこかよしおに認められたような気がして…
「…そっ!じゃあ私の事をしっかり護ってね」
ドヤッと笑みを浮かべた。