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第11話 隠し鬼⑤

 ◆


 呪いの端末1つを魂魄悉く粉砕撃滅し、浄化せしめるには充分すぎるほどの膨大な霊力が込められた怒りの鉄拳は、“隠し鬼”の分体にとっては小恒星さながらの熱と光に感じられたであろう。


 呪いの中核、霊的中枢に叩き込まれたよしおの霊力は0.013秒…刹那の秒数を費やし、収束、拡散、爆裂した。


 もはや怨嗟の声をあげる暇(いとま)もない。


 依子と晃に刻み込まれた呪いの印は消えてなくなった。

 だがこれで一件落着…とはいかない事はその場の者達全てがわかっている事だ。

 しかし、一先ず依子と晃の生命がただちに脅かされる事はなくなった。


 ◆


 突如して狂を、凶を発したよしおに晃と雨子は圧倒された。

 その背に2人は大きな安心感を覚える。


 命を以てして時間稼ぎも出来ないだろうと思われた凶悪な呪いに、よしおは己の拳1つで対峙し、祓ってしまった。晃も雨子も、よしおが男ではなく漢であると分からせられてしまった。


 よしおの背は汗で濡れ、ワイシャツには染みが滲んでいる。

 そして荒い息遣いに上下する背に隆起する凶悪な…背筋(ヒッティングマッスル)。

 雨子は、それが魅せるためだけのハリボテのそれではなく、敵を殴り滅ぼす為の極めて実戦的なそれだと理解する。


「あ、あの…汗を…お拭きしましょう、か…」


 雨子は自分でも何を言っているのか分からないまま、その場に全くそぐわぬ妄言を口に出した。

 命懸けの危機に直面し、体を張って護ってくれた者の背というものは年齢性別関係なく魅了する。


 ただ雨子の場合は、よしおを労う気持ちが9割。

 残り1割は色欲だ。生命を脅かされた事で性欲が沸きあがった為だ。


 この時のよしおの精神状態は平時のそれへと立ち返り、瞳に灯っていた煌々と燃え盛る怒気は鎮火し、いつものどこかボウっとした焦点が合ってるのか合ってないのだかわからないそれへと戻っていた。


 雨子の妄言に軽く小首をかしげたよしおが口を開く。


「いえ、結構です…。すみません、騒がしくしてしまって。しかしどうやら職員の人が異常に気付いたようで…」


 よしおが言うと雨子の耳にも晃の耳にも、多くの足音が聞こえてきた。

 足音からは多分に狼狽と焦燥の気配が混じりこんでいるようにも思える。


 ◆


 雨子と同じく東陰病院の医師である滑川 啓(ナメリカワ ヒラク)は、その41年の生涯でも三本指に入るほどの危地に在ると感得していた。


 それは独善的で怒りと悲痛に満ち、極めて強力な自責な想念…つまりよくわからない霊力だか妖気だかわからないモノがいきなり発生したからだ。言うまでもなく、よしおの霊的激昂が病院中を伝播しただけである。


 ――呪いの暴走!?


 啓は眼を見開き、脂汗を全身から噴出し、そしてデスクにしまっていた遺書を取り出して懐に忍ばせた。


 啓の脳裏を1人の患者が過ぎる。


 なにが理由でそんなことになったのかは皆目見当がつかないものの、“アレは外界に出してはならない”という使命感が啓の悴けた(かじけた)心に喝を入れる。


「結局彼女の呪いを解く事はできなかった、でも僕は僕の責務を果たさねばならない」


 啓はきりりと覚悟を決め、自室を後にした。


 ◆


 彼は高難度の解呪を専門とする特殊な呪術医である。敢えて中途半端な解呪の儀式を行い、自身に呪いを受け、己の心身を蝕ませ、適応させ、その肉体を患者に食させる。


 彼は祝詞を唱えたりだとかする通常の解呪の儀式ではどうしようもない強度の呪いを解く時に駆り出される。


 何十何百という呪いを受けてきた故に、彼の容貌は酷く醜い。

 全身は吹き出物に覆われ、髪も所々抜け落ちている。アバラには骨が浮き出ており、病的な痩せ方をしている。瞼も腫れており、指の爪は全て罅割れていた。


 しかし、この病院に彼を侮蔑する者は1人も居ない。彼が偉大なドクターである事は周知の事実であったからだ。


 しかし、その彼をして依子の治療は上手く行っていなかった。

 と言うのも依子に刻み込まれた呪いは、啓がこれまで対峙してきたそれとは些か毛色が違ったからだ。

 “隠し鬼”は鬼撫の血に惹かれ、鬼撫の血脈のみを付け狙う…ゆえに、啓ではどうあがいても呪いを受ける事が出来ないのだ。


 かといって力尽くで…というのはこれはこれで中々難しい。

 よしおは依子の呪いを極めて乱暴に、直接捕らえたがこれは普通ならやらないし、やってはいけない。


 なぜ解呪の儀式のようなモノがこれまで伝えられているのか、それは力業で解呪をするというのは極めて危険な行為だからだ。


 気が狂った闘犬を捕らえるときに、最初から敵意を露にして踊りかかる間抜けがどこにいるだろうか?

 普通は罠をはったり、網をつかったり、麻酔銃なりを打ち込んだりする。


 よしおがやったのは人間の胴体を軽く食いちぎる事が出来るほど巨大なピットブルを相手に、真正面から奇声をあげながら襲いかかることに等しい。


 ◆


 啓が死を覚悟して依子の病室を訪れた時、既に凶気とも言うべき妖気の波動は消え去り、そこには3人の男女が居た。1人は見知った者だ。

 同じように異変を感じ取った職員達が駆け込んでくる。

 皆いずれも大なり小なり命を懸けてこの異変に臨む猛者達である。


「工藤先生…これは一体…?」


「はァッ…!あ、私は奴を知っている!よしおだ!…鈴木…よしお…」


「何、あれが!?なぜここに!?彼が普段使いしている病院は狛江にあるという話じゃなかったのか」


「まさか襲撃か!?2年前の遺恨を忘れていなかったということか!それもこれも上がいたずらに挑発するから…」


 啓が代表して雨子に事情を聞いた。

 啓はいざという時は己の肉体を霊的呪術爆弾と化す覚悟を決めてきたのだ。

 これは自身の肉体を餌として、その身を蝕む様々な呪いをまとめて敵対者に叩き付けるという業である。


 ちなみに彼がそれを実行していた場合、病院から半径150mは高濃度の放射能に汚染されたような状態になってしまっていただろう。

 それは局所的な霊的原発事故といっても過言ではなく、巫祓千手はその責任を問われて組織解体の憂き目に遭っていた事はほぼ間違いはない。


 滑川 啓は誠実な性格で勇気も持ち合わせた好漢ではあるが、厭な意味で覚悟が決まっている点がやや欠点と言える。


 ◆


 必死の形相で駆けつけてきた職員達に、かくかくしかじかと雨子が事情を説明する。


 彼等は一定の納得は見せたものの、それでもなお、職員達はよしおへの警戒を解かなかった。


 それも当然である。


 巫祓千手には特記戦力とも言うべき3人の“姫巫女”と呼ばれる少女達がいたのだが、よしおは2年前に非公式の会談中、このうちの1人を半殺しにしたからだ。


 勿論いきなり暴行に及んだわけではなく、最初は腕比べというか腕試しのような形でよしおの力を組織に披露するという話だった。

 そこである程度の結果を出せれば、よしおは晴れて裏とはいえ国家公務員になれたのだ。


 だが試験官を買って出た姫巫女の少女の1人が、必要以上の力の行使、そしてよしおを本気にさせる為に必要以上の挑発をしてしまった。


 よしおは少女を殺害する方針に心を切り替え、花のかんばせを鉄拳で叩き潰そうとしたその時、残りの2人の姫巫女、そして彼女らのボディガードに阻まれたのだ。


 凶行に至るまでの経緯には情状酌量が大いにあるため、よしおが懸賞金をかけられるような事はなかったものの、巫祓千手の最上層部を殺しかけたという事実は彼が危険人物として認定されてもやむを得ないものであった。


 とはいえその事実を組織に属する全ての構成員が知るという事はなく、大部分は“鈴木よしおという男と組織の上層部で結構大きいトラブルがあった”くらいの認識だが。


 しかし、それが伝聞されていくうちに妙な厄気を帯びるようになり、よしおが巫祓千手に恨みを抱いているとかそういうモノに捻じ曲がって伝わってしまってる。


 よしおほどの祓い手であるにも関わらずスカウトが来ない理由はこういう事情による。


 別によしおが悪いわけではないが、相手は一応国の組織であり、そういった者達はメンツをことさら大事にする。


 かつてのよしおのクールさがもう少し残っていたならば、よしおはその辺の暗黙の事情…了解も容易くくみ取り、少女を激昂させずに顔を立てて力を示すことくらいは簡単だっただろう。


 しかし当時のよしおには無理な相談であった。

 今のよしおにも無理な相談だ。

 未来のよしおにも無理な相談…かもしれない。


 ◆


「事情はわかりました。信じがたい事ですが…」


 啓は依子を視て、その身を蝕む呪いが跡形もなく消え去っている事を理解した。

 そして、深々とよしおに頭を下げる。

 他の職員達も同様だ。


「ですが、呪いはあくまでも印に過ぎません。そして、それを解いたとなれば…あるいは次に狙われるのは鈴木さんかもしれません…」


 ここまで言った所で啓は詮無き事かと考え直した。


 なぜならよしおのどこか覇気のない瞳の奥には、何か名状し難いモノが渦巻いていたからだ。


 ぽつりとよしおが呟く。


「“隠し鬼”…といいましたか。工藤さんにお伺いしました。貴方方は少なくない犠牲を出しているそうですね。どうですか、僕に仕事を任せませんか。こちらの彼…灰田君の事はご存知ですね、そちらの女性の息子さんです。僕は彼の…そうですね、上司なので。僕にとって関係ない話でもないのです。お安くしておきますよ…その代わりに“場所”を手配して頂いたり、そういうサポートをして頂きたいのです」


 どこか虚ろな瞳で微笑みかけるよしおは大層不気味で、だがこれは別に含むところがあるわけではない。


 よしおなりの愛想笑いだ。


 瞳が虚ろなのは仕方ない。

 彼は四六時中軽度の鬱状態にあるためだ。

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