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第10話 隠し鬼④

 ◆


「僕もその手の組織はいくつか知っているんですが」


 余り良い関係ではなくてね、とよしおはピザトーストを齧りながら言った。

 晃はぼうっとよしおを見つめる。

 見た目は冴えない三十路なんだけどな、と失礼な事を考えつつ、しかしそれが正しくない事を知っている。

 先程痣に触れられた時にも感じたが、鈴木よしおという人間の皮の下は……


 晃はぶるっと頭を振り、悪寒を払おうと話しかけた。


「こう、なんていうか競合してるからバチバチ…みたいな感じっスか?」


 晃が言うと、よしおは首を振って言った。


「競ってはいません。僕は先程5千万という額を出しましたが、億でもおかしくないモノだと思います。1億か、2億か。あるいはもっと高額か。でも僕はそこまでの額を一気に稼ごうとは思えなくてね。業界の相場を壊すというのだから、それはまあ嫌われたりはするでしょう」


 晃が不思議そうにしていると、よしおは続けて言った。


「金を稼ごう、稼ごうと奔走していて失敗をした事があるんです。もう取り返しのつかない失敗…大切なモノを見失ってしまった。だから必要以上に稼ぐ事に抵抗があるんです。それでも五千万という額は大金に思えますが、準備なり治療費なりで吹き飛んでしまうでしょう。この業界、腕が千切れかけるなんていう事も珍しくはないんです。まあ100、200は手元に残ります。僕にはそれで充分なのです。趣味に使う金もほしいので」


 腕が千切れかける、ときいて晃は怯んだ。

 それが普通の反応だ。

 というより、祓い手界隈の人間だって腕がちぎれるかもしれない案件というのは厭なものである。

 しかしよしおは違った。


 かつての彼は肉体的な損傷を恐れる感情もあったのだが、そのような健全な感情は精神的な損傷と共に消えてなくなってしまった。

 今の彼は後天的なスピリチュアル・バーサーカーである。


「う、腕っスか…」


 晃の言葉によしおは頷いた。

 よしおは腕、といったがこれはやや表現が柔らかい。

 死亡率という面で見れば、祓い手の死亡率は異常だ。


 一般の仕事でもっとも年間の死亡率が高いのは林業…木こりだが、直接危害を加えてくるようなモノ達に対峙する一部の祓い手達の死亡率は木こりの300倍を超える。

 これはどの位かというと、1年の間に10万の木こりが例年の平均である130人死亡するとすれば、祓い手は約4万人が死亡するという計算になる。


 夜の闇より更に暗い住民達に人の身で対峙するのならば、それだけの犠牲が出てしまうものなのだ。


「しゅ、趣味って!趣味ってどんな…?俺はえっと、知ってると思うんスけど、音楽が趣味で…ロゼッタっていうバンドを組んでるンすよ…」


 血腥い会話を転換しようと晃がやや慌てながら聞いた。

 よしおはピザトーストの耳を千切りとって皿の端へ寄せながら答えた。

 彼はパンの耳が嫌いなのだ。


「グランピングや映画鑑賞です…映画はハッピーエンドの物しか観ません」


 グランピングとは豪華なキャンプのようなものだ。


 例えばやたらでかいテントを高層ビルの屋上に張り、高い食事、旨い酒を嗜みつつ星空を見る…など。

 都内では例えば奥多摩の豪華コテージだとか、あとは都心の高層ビルの屋上などで体験が出来、料金は1泊3万円~といった所だ。

 当然電気水道は完備されており、なんだったら現地にいながらにして高級フレンチを楽しむ事も出来る。


 それは果たしてキャンプと言えるのか?と思われるかもしれないが、案外とハマる者は多い。


 一人と独りは似て非なるものだ。

 前者は何らかの母集団の中で自身の立ち位置を確立している事を意味し、後者は何にも所属せずただ孤立している事を意味する。


 例えるならば一人とは親兄弟が健在で、しかし自身は一人暮らしをして自立している事を意味する。

 しかし独りとは親兄弟が全て死に絶え、あるいは連絡先すらも知らない天涯孤独の状態を意味する。


 人間は独りになってしまうと加速度的に精神に歪みが広がっていくが、一人の時間が少なければそれはそれで心のどこかに澱のようなものが蓄積していくものだ。


 グランピングなんて嗜む者達は本能的にそれを察している。


『普段縛られている人間関係のしがらみから解放されて、ちょっとした寂しさをお手軽に、しかし不快感なく味わいたい』


 彼等はそんな都合の良い孤独感を味わう為にグランピングに参加するのだ。


 健全な孤独感というのもなんだか馬鹿らしいが、一見すれば独りだけど、一皮剥けば一人である…というようなものは健全な孤独感と評して構わないだろう。


 そんなグランピングはよしおがまだ証券マン時代からの趣味で、彼がまだ過去を吹っ切れていない証左でもあった。

 いや吹っ切るどころか、鈴木よしおは過去を燃やして今を生きるための燃料にしているのだ。


 そんなものは下を向きながら前方に猛進するようなもので、どうにも健全さとはかけ離れた生き方ではあるが、それもまたよしおの人生なのだろう。


 ◆


 さ、行きましょう、とよしおは伝票を持って立ち上がった。


「あ、ここは俺が払いますよ!俺が呼び出しちゃったんスから!」


 晃の言葉によしおは珍しくニタリと笑って答えた。


「5千万の借金を背負うことになるかもしれないんですから…ここは任せてください。なに、僕には友達が余りいませんが、ツテがないわけじゃありません。無理なく、そして絶対に支払えるように手配します」


 それは半ば本気だが半ばはジョークだった。

 よしおの目論見としては晃に背負わせるにしても100、200が精々だろうと考えている。

 “特別な現場”の手当てもあるだろうから晃の収入と言うのは同年代のそれを大きく凌駕しているだろうが…


 よしおはちらと晃の上着の襟や裾やらを見た。

 ほつれだ。


(金回りは余り良さそうではない)


 よしおが見る限りは女に金を遣う様なタイプではない。

 逆に女の方から金を遣いかねない顔の造形は、女のみならず同性からも秋波を送られかねないだろう。

 かといって賭け事なりをするという話も、よしおは聞いた事がなかった。


 恐らくは正しく母の治療費とやらに金を遣っているのだろう。


 そんなよしおの値踏みも知らず、晃はよしおの脅迫のようなジョークに顔色を青くし、静かに頷いた。


 ◆


『染田』でのお茶会の翌日、よしおと晃は都心から4、50キロは離れ、はるばると多摩地域まで来ていた。

 ちなみに移動は電車だ。

 よしおは免許こそ持っているが、自家用車は所持していない。どうしても車が必要な時はレンタカーを利用する。


 ・

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 植物状態の患者も受け入れてくれる病院というのはそこまで多くはない。

 東京都はA市の某所にその病院はあった。


 医療法人社団 月心会 東陰病院。

 ただしこれは表向きの姿に過ぎない。

 実際の所は『巫祓千手』の総合霊障医療施設である。

 こういった霊障を中心とする病院というのは都下を中心にいくつか存在する。


 当然よしおも馴染みの病院と言うのが1つ、2つあった。

 彼は確かに祓い手としてのポテンシャルは高いが、腕を飛ばされたり脚を飛ばされたりというような事がないわけではない。


 よしおは見た目こそ貧相…とまではいわないが、勇壮魁偉を誇るというような体躯ではない事は確かだ。


 しかしその青い作業着を脱ぎ、ワイシャツを脱ぎ、肌着を脱いだその下には、古傷で全身を覆われているといっても過言ではない歴戦の勇士といった鍛え抜かれた肉体を見る事が出来るであろう。

 バキバキに割れたシックスパックからは、銃撃すらも弾き返してしまいそうな迫力を感じる。


 例外もあるのだが、自身の肉体を使って祓う者達の肉体は男女例外なく鍛え上げられている。

 トレーニングでつけた筋肉ではなく、実践で自然についた筋肉だ。


 霊的特異地点での除霊活動はしばしば時空間に乱れが発生し、内部のモノ達は異空間で数ヶ月にわたって長く活動することもままあり、そういう生活を続けているのならば自然と肉体は鍛え上げられるだろう。


 ここで問題となるのは現実空間での時間の流れと、異常空間での時間の流れの差異だ。


 時間の流れが極端に歪んだ空間で例えば半年過ごしたとする。この間、現実世界では1、2週間たったとする。


 では除霊を追え、現実空間へ戻ってきた時、祓い手にはどれだけの時間の重みが圧し掛かるのであろうか。

 どちらの時間の流れが優先して適用されるのであろうか。


 答えは異常空間のそれが適用される。

 だからこそ異常空間内で蓄積された経験が、現実空間に戻って来ても肉体に刻み込まれているのである。


 こういった現象は時に深刻な時差ボケのような症状の原因ともなっており、かといってこれは時差ボケほどに呑気なものではなく、場合によっては精神疾患にも繋がりかねない。


 また、異常空間には肉体的に、そして精神的に有害な悪意溢れる妖気が満ちている場合が多く、これもまた祓い手の健全な社会活動を阻害する一因となりうる。


 そういった祓い手の数々の肉体的、精神的な問題を解決する為に各地には霊障専門の病院というものが存在し、この病院もその1つだった。


 晃はこのあたりの事情を知らない。

 ただ、よしおはこの病院の裏の顔を知っていた。


 ◆


 よしおと晃を一人の女医…工藤 雨子(クドウ アマコ)が依子の病室に案内した。


 彼女は霊障を専門とする医者だが、当然医師免許も取得している。依子は霊的な意味での植物状態であるため、通常のそれとは違った対応が必要なのだ。


 一般的な意味での植物状態とは大脳が機能不全に陥り、思考と行動が停止し、しかしその他の生命維持活動に必要な機能は活きているという状態を意味する。

 霊的な意味での植物状態とは大脳機能を含め、肉体的に停止する程の損傷を受けているわけではないのにも関わらず、目覚める事がない状態を意味する。


 これの原因は様々ある。

 それこそケースバイケースだ。

 よくある理由としては、魂が奪われているというパターンだ。


 魂には古今東西色々な解釈があるが、総じて霊的中枢を意味し、では霊的中枢は…というとこれは色々な説明を端折れば幽体を維持する為の心臓…2つ目の心臓といった所だ。


 肉体の生命維持活動に心臓が必要ならば、幽体の維持にも対応する心臓が必要であるというのは界隈の通説であった。


 乱暴な除霊の最たるは、敵対怨霊の霊的中枢を自身の霊力を持って破砕し、強制的に成仏…消滅させてしまうというものなのだが、これはよしおが最も得意とする所であった。


 除霊というか殺霊というようなこの手法は、基本的には推奨されていない。当たり前だ、例えばそれなりに酌量すべき事情がある殺人犯が居たとして、治安の為にこの犯人を殺害したといって褒め称える者がどれ程いるだろうか?


 悪性の霊体が悪性に至るには相応の理由があるもので、真の意味で悪である、悪でしかない…そんなモノは早々存在しないのだ。


 だからできるだけ対話を持って自主的にお帰りいただく…というような事が推奨されている。


 よしおも対話の必要性は理解しており、一応は対話をしようとはするのだが、霊的異常空間で自身の心の闇が露出することでちょっとしたことで発狂してしまうので、結局は除霊ならぬ殺霊という手段に至ってしまうことが多い。


 この辺の粗暴さがよしおが界隈からの危険視される所以でもある。


 ◆


 晃は病床で眠る母、依子を見て、うんともすんとも言わなかった。

 怒りもしなかったし、泣きもしなかった。

 そういった感情は既に抱き尽くしたのだ。


 依子はもう二度と目覚めないかもしれないという絶望的な状況に文字通り絶望して、周囲に当り散らして荒れた時期も晃にはある。

 だが荒れようとなにしようと、依子の快方には些かも寄与しない…という事に気付くまではそう時間が掛からなかった。


「現代医学では異常はないんです。ただ眠っているだけです」


 頬につたう黒髪ごと前髪をかき上げながら、雨子が静かに言った。腰まで伸ばした長髪の一本一本に彼女の霊力が充ちている。


 雨子の気だるげな視線がよしおに向けられた。

 その視線にはいくつかの言葉にはし辛い疑問が含有されている。


「…ところで…鈴木様。依子さんの事情について、晃君には説明をしましたか?」


 雨子の言葉によしおは首を振った。

 否定だ。


「晃君も普通の状況ではない事は分かってはいるみたいですが、詳しくは説明していません。僕もついこの間知らされたばかりです。説明するにせよ、視てからでなければ」


 よしおの言葉に雨子は頷いた。


「ある程度察しがついているのなら、そして鈴木様が事に当たるというのならば私からこの場で伝えましょう。晃君、この世界には科学的には説明が出来ない事が山ほどあります。いえ、今の科学では、といった方がいいのかもしれませんけど。これは冗談でもなんでもなく、世間では作り話、都市伝説のような類として扱われている…霊。そう、悪霊だとか怨霊だとか…そういうモノがいて、呪いもあり、妖怪だとか悪魔だとかも居るの。そしてそういうモノ、異常な状況へ対峙するべく日々研鑽を積んでいる人々もいます」


 晃は雨子のその言葉を鼻で笑い飛ばし…はしなかった。

 これはもう彼が“そういう経験”を幼少時からしてきたという事もある。


 また、バイトで“特殊な現場”で起こる奇妙奇天烈な事態にも直面して来た事があり、既に受け入れるための下地は出来ていた。


 雨子は話を続ける。


「貴方のお母さん…依子さんは非常に強力で、そして悪性の存在に襲われました。恐らく、魂か、それに近しい大切なものを奪われてしまっているのです。だから眼が覚めない。肉体的には問題はないはずだから、その何かを取り戻す必要があります。ただ…」


 ただ?と晃は先を促した。


「依子さんの魂を攫ったモノの正体が掴めません…。モノの発生には理由があります。往々にして、その理由を知る事が調伏…退治の有効な一手となる事も多い。ただ、今回の“それ”については少なくとも私の所属する組織については後手に回っています」


 忸怩たる風情で雨子は言った。


「少なくとも我々はこれまで“それ”に対しては効果的なアクションをとる事が出来ていません。むしろ、多くの被害を出す始末です…組織の上層部では“それ”…組織では“隠し鬼”と名付けられたバケモノに対しては、被害の拡大を懸念して手を退こうという意見すら散見される始末なんです…」


 更に、と雨子は続ける。

 晃はまだあるのか、とギシギシと軋みをあげはじめた自身の心の芯棒の音をきいた。


「隠し鬼は、依子さんに毒を与えています。それはいわば呪いの毒。獲物に対しての目印でもあり、同時に獲物を徐々に弱らせる為の…毒。…依子さんは、もう長くはありません。毒を取り除けないかと様々な霊的措置を施していますが、毒は意思を持ち、巧妙に姿を隠しています。目に見えない透明の毒の液体が、血液といった体液に混じって全身を巡り、探ろうとすればそれを察知し依子さんの体中を逃げ回ったり隠れたりしようとしている、と考えてください」


 晃はピキキ、という音をきいた。

 それは心の芯棒に明確に罅が入る音だ。


 だが雨子の宣告は非情を極めていた。


「……晃君も、です。肩の痣を以前見せてもらいましたが…それもまた毒。依子さんが亡くなれば、次は晃君の番です…」


 しんどいな、という諦念が晃の心身に浸透していく。

 心が完全に折れれば、その絶望は隠し鬼に力を与えてしまうだろう。


 ◆


 よしおはといえば、どこか眠そうな目で依子を見つめていた。勿論決して睡魔に襲われているわけではない。


 考えているのだ。


(様々な話を勘案すれば、依子は息子である晃君の為に身を投げ出し、犠牲となったのだろう)


(それはまさしく母の愛だ)


(自身の命より優先させる…それが愛でなければ一体なにが愛なのだろうか?そして、親の愛は無償のものなのだろうか?)


(いや、そうじゃないだろう。愛を受けるためには、受けるなりの振る舞いをする必要があるだろう)


(じゃあ、僕が親の愛を感じる事無く、物心がついた時に施設にぶち込まれたのは…)


 ――僕が彼等の子供として愛情を受けるに相応しい行動を取れなかったからか?


 懊悩がよしおの腹でぐるぐると渦巻き、回転し、粘り気を帯び、回転により摩擦が熱を産む。


 上手くいかない、上手く出来ない、上手く生きる事が出来ない


 なるほど、とよしおは思った。

 良き夫になれなかったのも当然だ、と。

 なぜなら良き子にもなれなかったのだから。

 子供は成長し大人となる。

 夫となるには大人でなければならない。

 だが、子供の段階で成長に失敗していたらどうなのだ。

 夫として上手くいかないのも当然ではないのか?


 自己承認のデフレ・スパイラルである。


 妬ましい、とよしおは思った。

 黒く燃え盛る嫉妬の焔が、大規模な山火事のようによしおの精神世界を延焼させている。


 ここで眠る女性は、依子はよしおが知る限り良き親であった。良き親であるなら良き大人であろう…よしおは単純にそう思う。


 教えを受ける必要がある、とよしおは考えた。

 “良い人間”になる為には一人の力では無理だ、だから先人から、先輩から教えを受ける事でヒントを得よう、とよしおは考えたのだ。


 ――僕は自身の至らなさゆえに失敗した。しかしそれを奇貨として成長し、同じ失敗を繰り返さないことが肝要だ


 ――成長だ。僕は成長をする必要がある。幸せになる為に。過去失敗したのは僕が未熟だったからだ。この女を救い、愛を教えて貰い、それを糧とする。一歩進む…いや、二歩も三歩も進むのだ。邪魔するモノはなんだ?僕が彼女から愛を教えて貰う為の…障害、は……


 よしおの眼がこれ以上ないほど見開かれ、自身の明るく幸せな未来構築を邪魔しようとするナニカを探り…


「お、前ぇぇぇ、かああ」


 ぎょろり、とよしおの瞳が依子の体内で蠢くナニカを捉えた。



 ◆


 雨子は、そして晃は異変に気付いた

 自身の腕、首回り、余さず鳥肌が立っている。

 窓の外でギャアギャアと鳥が騒いでいた。


 晃も同様だった。

 彼の場合は更に顕著で、膝がガクガクと震え、もはや立っている事すら叶わない様子だ。


(何!?何が来たの?まさか、依子さんをこんな状態にした……ッ!?)


 雨子は自身の優れた霊眼で、目の前で灼熱の泥沼の大海が荒れ狂い、触れれば焼けて爛れる巨大な津波が自分を襲おうとしている光景を幻視した。


 雨子と晃の視線が同時に一点を見る。

 そこには正気を削るような気配を迸らせるよしおがいた。


「お、前ぇぇぇ、かああ」


 内臓を吐き出すような悍ましい低音でよしおが言う。


「ひっ……私じゃない!私じゃないです!」


 何が“私じゃない”のか、そもそも何を責められているのかも分からないままに雨子は否定した。

 晃も必死で首を振っている。


 よしおはそんな2人に構わず、ボッという大気をブッ貫く音を立てて腕を突き出し、依子の腕を握り締めた。


 晃は恐怖に支配されながらも、あわててよしおの体に縋りつく。まるで鉄で出来た人形のような感触に驚きながらも、晃は母への愛情を以てよしおへの恐怖を超越した。


「や、やめてくれ!!母さんになにをするんだッ!や、やるなら俺をやれ!」


 だがよしおは晃を一顧だにしない。

 よしおは依子の腕を掴むと同時に、自身の霊力を…極めて粘着質で陰湿で偏執的なトリモチのような霊力を依子の全身に流し込み、自分の目的…愛とは何たるかを教授してもらうという目的を妨げる不届きな呪詛を走査(スキャン)した。


 そして速やかに異物を察知し、“それ”を絡めとる。


 よしおが依子の腕を握っていた時間は数秒にも満たず、その間によしおは依子を蝕んでいた呪いの毒を自身の霊力で捕捉し、捕獲してしまったのだ。


 ◆


 よしおの掌中に収められた呪いは形を崩し、黒いモヤとなって病室に散った。晃の肩口からも黒いモヤが噴出し、周囲のモヤへと混ざりこむ。


 そうしてモヤは病室をクルクルと回り、巡る。

 三人はまるで回転する闇の壁に閉じ込められたかのような感覚を味わっていた。


 雨子と晃が周囲を見渡した。

 逃げ場所は、ない。


 よしおは自身の掌を見つめている。

 火傷のような痕があった。

 よしおの精神はこの霊的異常空間に於いて既に煮えたぎり、しかしそれを上回る理性が狂態を抑えていたため、正確に事態を把握する。

 その危険度の高さも。


「晃君、雨子さん。僕から離れないでください。掌に怪我を負いました。僕の防護を貫くというのは油断なりません」


 極めて冷静で、理性的なよしおの口調に2人は僅かな安堵を覚え、雨子も晃もよしおにその体を密着させるほどに体を寄せた。


 雨子はもとより、晃も周囲のモヤからは吐き気をもよおす悪意を知覚しており、触れようものならただでは済まないと感じている。そこへきてよしおの頼れる姿は、闇夜の嵐の中、方向を見失った船にとっての灯台に等しい心強さを与えた。


 だがよしおはこの時、1つ、2つの死線を越えなければ勝利はない事を感得していた。

 多くの祓いを成功させてきたよしおの戦歴…そこから齎される勘というのはそれなり以上に信用が出来る。


 ――相手は、手強い


 バンバンバンバン、と周囲の壁が叩かれる音。

 ラップ音である。

 霊異の現出時には奇音、怪音を伴う場合が多い。


 やがて黒いモヤは三人の眼前に収束し…人間の頭部…のようなものを形成していった。

 ようなもの、というのは、それを人間の頭部と表現するにはやや憚りがあるからだ。


 何せ顔の下半分を占める程に巨大な口はあるものの、目もなければ鼻もない。耳も髪の毛もない。

 かわりに、人の顔が口の部分以外に無数に表出していた。


 ゲタゲタゲタ、と気味の悪い嗤い声が響く。

 “それ”の頭部に表出している様々な年代の、様々な性別の人の顔が同時に笑い声を上げている。


 だがこの時、その場にはラップ音や不気味な哄笑以外にも音が鳴っていた。


 ギギギギ、という音。

 何かと何かを強く擦れ合わせたような音。

 歯軋りの音。


 よしおの、歯軋りの音が響いていた。


 ◆


 雨子は戦慄していた。

 形を成した呪いが放つ妖気の強大さに。


『巫祓千手』の歴史上、初めて隠し鬼に接触した時の記録は、組織にその影を未だに落とし続けている。

 なにせ名門逆月家の嫡男が敗死したのだ。


 逆月といえば、祓い手界隈では知らない者の無いほどの名門中の名門である。その歴史を遡れば遥か平安に遡り…


 とまあ、とにかく歴史のある名家なのだが…


(こ、こんな!これほどとは!恐らく…隠し鬼は、自身の力を隠蔽していたのね…必要以上に歴史に姿を見せず、その力の片鱗を実際に見せる時は…対象を殺す時…)


 雨子は自身の髪の毛に霊力を通す。


 すると髪の毛はよしおと晃を護るように宙にぶわりと広がった。工藤 雨子の霊髪術による護りは主に物理的な強固さで有名だ。ほんの2、3秒ならば現行のサブマシンガンの射撃にも耐えうる。


(でも、アレからどれだけ身を護れるかは…。なんとか逃げる時間だけでも稼げないかしら…)


 雨子は全身からべたついた脂汗を流した。

 その汗の成分は水分ではなく、恐怖、焦燥といった負の感情だ。


 ヒヒヒヒ、ケケケケ、という嗤いが何重にもハウリングし、しかし嗤いには極めて強い悪意と妖気が込められており、迂闊に手を出せば命を失うか、あるいは更に質の悪い事になる…そんな予感を禁じえない。


 雨子は彼我の実力差を瞬時に理解し、しかし諦める事はなかった。確死の困難を前に勇を以て臨む、黄金の精神が雨子にはある。巫祓千手の構成員は全員が全員そうだとはいわないが、多くの者は市井の安寧の為に身を差し出す覚悟を持つ。


 だがその覚悟は全て無駄なものとなった。


『貴゛ィ゛様゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ!!!なにがッ!!!!!可笑しい!゛!゛!゛!゛』


 大音声(だいおんじょう)の怒声と共に、よしおが右ストレートを異形の頭部に叩き付けたからだ。

 霊的戦車砲とも呼ぶべきよしおの右拳は、侮辱への烈怒という火薬を爆発的推進力として炸裂し、異形の頭部を木っ端微塵に粉砕した。


 晃と雨子はぽかんと口を開けて、まるで時がとまったかのように停止していた。


 だが、経緯はどうであれ一先ず呪い…依子にこびりついた印は消滅させる事が出来た。

 奪われた魂が戻らない限り依子の意識もまた戻ることはないが、少なくともこれで“毒”により時間経過で依子が死ぬ事はなくなった。


 戦端が開かれた際、よしおは確かに死闘を覚悟はしていたが、それはあくまで標準の彼を基準とした戦力評価である。狂した彼を基準として考えるとしたら話は別だ。

 本体ならば兎も角、端末のような存在に不覚を取る事はまずありえない。


 ◆


 よしおは耐え切れなかったのだ。

 嘲るような哄笑に。


 ――真っ当な人間となり、幸せを手にし、明るい未来への階に足をかけるというのはそれほどに可笑しいのか


 ――真実の愛がどんなものかを知る、それは幸せになる為の前向きなチャレンジじゃないのか


 ――俺のような男はずっと下を向いて生きろと、それが相応しいと、そう馬鹿にするんだな?


 勿論、呪いを凝縮した異形の頭部はそんな事は考えていない。よしおの被害妄想である。


 これはどちらかというとセキュリティのような存在だ。隠し鬼のマーキングを外そうとした者へカウンターを加える。その際に恐怖を与える事で隠し鬼本体を更に強める…筈なのだが、この機能がよしおに対してはマイナスに働いた。


 対象の精神の均衡を崩す呪いの哄笑は、雨子はもちろんよしおの精神の均衡も崩したのだが、よしおは舐められる事に対して病的な拒絶反応を示す質があり、これは暴力という形で表出される。


 日常生活では理性がそれを抑えるのだが、霊的異常空間はよしおの心の闇が理性を上塗りしてしまう。


 そんな状況で相手の言動がよしおの被害妄想を刺激してしまった時、よしおは理性を失った狂犬と化すのだ。

 あえて欠点を挙げるとすれば、この状態を能動的に切り替える事が出来ないという事であろうか。


 あと、会話が通じなくなる事だ。

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