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結局その日、よしおは2人を帰した。
その日は特殊な現場をやる予定もなかったし、やる事ができたからだ。
それからよしおは暫く仁の様子を見守っていた。
仁は先ほどの、帰ってくださいという言葉をきいていたのかわからないが、ややあって荷物をまとめ退勤していく。
よしおはそれを見送るなり、仁の後を追っていった。
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帰宅した仁は魂が抜けたような面持ちでずっとサイトをみていた。
カチカチというクリック音が暗い部屋に響く。
それと同時にコツコツコツコツコツコツという音も響く。
これはクリック音ではなく、苛々したよしおが指の先で床を叩いている音だ。
その辺に落ちていた座布団の上によしおは座り込み、仁の様子をじっと眺めていた。
この時よしおは迷っていたのだ。
事に干渉する事は容易い。
しかしよしおは出来るだけ仁の想い、底力を信じたかった。
なにせ仁は結婚をしているのだ。
更に子供まで出来る予定だ。
それはよしおが願っても得られなかった宝。
よしおは仁が持つ父として、夫としての力を見せてもらいたかった。
だのに、仁の醜態はなんたるザマだろうか。
どこぞの馬の骨ともわからない女に目どころか心、魂まで奪われかけている。
そのザマによしおは苛立ちを隠しきれない。
勝手に仁に期待して、勝手に失望して。
まあ、誠に勝手な話ではある。
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やがて、画面の中からぬうっと女性の顔がはりだすように現れ……よしおの掌底によって強制的に画面の中でたたき返された。
これ以上は仁の生気ももつまいと判断したよしおは、ため息をつきながら、パソコンを奪い取り、仁から離れた場所で再びそのサイトを開いた。
仁は壁際に打ち捨ててある。
だらんと舌を垂れ、虚ろな瞳のまま座り込んでいる石黒の姿は控えめにみても無様だった。
よしおは憮然とした表情でサイトのあちこちをクリックして動画を検分していった。
勿論画面内では恐ろしい異常が発生していたが、よしおは意に返さない。
しかし、この手の霊異にありがちな精神への干渉を感じ取ったよしおは盛大に手をバキバキならし、不快感をあらわにした。
好意のない相手から擬似的な好意を植え付けられるというのは、公衆便所にこびりついた大便を舌でこそぎ取るが如き気持ちの悪さである……とよしおは考えている。
呆れと苛立ちを滲ませながらよしおが言う。
「石黒さん。奥さんが出産で実家に帰っているんですよね。自慰で使うならまだしも、心を奪われるというのは……それは浮気じゃないんですか。男ですから気持ちは分かりますよ、でもね……」
よしおが説教臭い口調になった時、画面から細く、青白い手が伸びてきた。
細く青白い手というと不気味な印象はあるが、どこか色気を感じさせる表現だが
ガリガリに痩せこけた骨ばった手だ。
それだけではない、皮膚が破れ、赤黒い何かが見え隠れしている。
そんな不気味な手を、よしおは……
「邪魔を、するなァァァァ──!!!!」
怒声と共にバシンと弾き飛ばした。
限界だったのだ。
気色の悪い干渉に加え、汚い手で触ってこようというのなら寛容なよしおとて黙ってはいられない。
多分に霊力がこめられたその一撃はこの世のものならぬ腕を千切り飛ばし、腕は赤黒い液体を撒き散らしながら壁に叩きつけられた。
フゥー! フゥー! と息も荒く、よしおは膝に手をついて呼吸を整える。
疲労ではなく、精神を安定させようとしているのだ。
不埒な悪霊に激昂し、他人の──ましてや同僚の部屋を破壊する様な事があってはならない。
やがて呼吸が落ち着いたよしおは弾き飛ばした腕を拾って、腕を握る手に万力を込める。
すると腕の表面の傷痕から青白い焔が噴出し、やがて腕はその先端から灰を化していった。
勿論灰が落ちて床を汚すことは無い。
腕に触れてみれば酷く生々しい触感が伝わってくるが、それはあくまでも幽世のモノだ。
灰は床に触れる前に空間に溶けるようにして消えてしまった。
よしおは酷く沈痛な面持ちで俯き、つぶやく。
そこには多分な悲しみがこめられていた。
「……浮気は、浮気はダメだ。ダメなんです。しかし、しかし……人である以上、別の相手に目が移る事は……あるっ! ありますよ……。納得は出来ない!! でも……人が人である限り……ありえる事なんです……。ただそれなら筋は通さなければ……。ましてやこんな、こんな……」
よしおの目が凶猛にギラつき、画面をにらみつけた。
霊的な威圧が画面に叩きつけられ、画面に映っていた女性の顔面が幾つかはじけ飛ぶ。
成人男性一人に対して多数を以って臨まなければならないような惰弱な雑霊では、よしおの敵意に晒されるだけで霊的中枢を木っ端微塵に粉砕されてしまうだろう。
赤黒い血、そして肉。
だがよしおにより強制成仏させられた女性達は、捕らわれた魂を解放され、永劫に続くかと思われていた苦痛から解放された。
はじけ飛ぶ寸前に浮かべていた柔らかな微笑がその証だ。
よしおは特に自覚もなく捕らわれた魂を解放し、そして仁の前で膝立ちとなった。
表情は怒りに歪んではいるが、その怒りは憎悪由来の怒りではない。同僚が間違った道へ進んだことへの怒りだ。
いわば、義憤。
「妻帯者だと知りながら、粉かけてくるような非道な連中に心を奪われるなんて……な、なさ、情けないと思わないのか!! どうしてもと言うのなら! 筋を!!! 筋を通せ!! 離婚してから他の女に手を出せといっているんだ! 筋を通すという強い心がないからこんなものにまんまと引っ掛かるんだ! 俺の言っている事が間違っているか! 答えろ石黒ォ!」
よしおがばこんと仁の頬を殴打し、よしおの怒気が満ちた霊力が仁の脳を掻き毟った。
仁は五体を口内炎に塩を刷り込んだような激痛に襲われ、たまらずに忘我の内から眼を醒ます。
これは実際危ない所であった。
あと少し人が意識を取り戻すのが遅ければ、仁の魂は画面の中に捕らわれて、その体は生きた屍と化していただろう。
「……ッぎゃあ!」
仁は叫び、そして目の前に仁王立ちしているよしおを見上げた。よしおの両眼は
「す、鈴木……お、俺は一体……そ、そうだ、俺はあのサイトを見ているうちに……ぐぇ!」
よしおの足が鈴木の股間を踏みつぶしていた。
加減はしている様だが、それでも仁は下腹部を刺されるような痛みを感じる。
「い、いたい! 頼む! やめてくれ……なんでこんな事を……」
仁が言うと、よしおは後ろを振り向き、薄ら寒い妖気を放っているパソコンをわしづかみにして各種ケーブルをぶちぶちを引き抜きながら仁の目の前に持って行った。
「は……ァッ……!! や、やめてくれ……女が……女の目が……」
仁は恐怖に震えながら言うが……
「女、が……? ん?」
画面が全体的に赤い。
勿論それはそれで不気味なのだが、あれだけ仁を恐怖させた“死んだ女達”が悶え苦しんでいるではないか。
そう、よしおの烈火の如く燃え盛る激情がパソコンに伝導し、同僚に不倫・浮気といった魔の手を伸ばす者達を懲罰しているのだ。
現代怨霊は電子機器を通してその呪いや怨念を拡散する事が出来る。であるならば、現代霊能者も同じ事が出来るのは当然の理屈であった。
よしおは仁の股間を踏みつけながら静かに言った。
「僕も男です。気持ちは分かる。それに、この手のサイトで欲望を満たす事を浮気や不倫と糾弾されては石黒さんも思う所はあるでしょう。しかし、自慰に耽る余りに仕事を疎かにし、勤務中でもサイトを延々閲覧するというのはね、これはサイトの女性に心を奪われているのと同じです」
よしおが仁を諭した。
画面の中は燃え盛る焔が渦巻き、女性達が次々と焼き尽くされていく。
よしおの情熱をカタチにしたような悍ましい炎の蛇が女性の全身を這い回り、
偶然の産物とはいえ、忌まわしい呪術により魂を捕らわれ、捕囚となっていた女性達の悲鳴、悲痛、絶叫!
死んだ時の苦しみが延々と繰り返される事で、女性達からは正気が失われてしまったわけだが……それをさらにうわまわる苦痛により正気が取り戻されたのだ。
しかし正気を取り戻した先にあるのは絶望だった。
苦しい生の後に訪れると信じていた死の安息がなぜこのような苦痛に満ちたものになるのか、絶望が女性達を蝕んでいく。
だが、苦痛はすみやかに解放感へと変じていく。
それは彼女達の魂も、それを縛り付ける呪術も、よしおの情熱と義憤の焔が焼き尽くしているからだ。
──ああ、ありがとう……
──助けてくれてありがとう……
──心が楽になりました……
画面からいくつもの声がしたかと思いきや、白く、そして仄かに光る煙が画面から立ち昇り、風に乗るように窓の外へと流れていった。
それをちらりと見たよしおは、反省したのならいいか、と彼女達を見送る。
よしおはこのあたり結構ドライだ。
赤の他人に対しての感情の薄さは、自身とその周辺人物への執着に比べると対照的に過ぎる。
そしてポカンとした様子の仁に再び説教を開始した。
「そんなものはね、不倫や浮気と判断して差し支えないでしょう。勿論、このサイトが普通ではない事は分かります。しかし、正道に立ち戻るチャンスは沢山あったはずですよ。石黒さんは結局、自身の欲望を優先してしまったんです。 あんなものはね、心に一本、強く硬い芯棒を通していれば早々に引っ掛からないのです」
仁は自身の身に何がおきたかをようやく理解しはじめ、そしてそんな状況から救い出してくれたよしおに深い感謝の意を表した。
そもそも論として、法的にもアウトなアングラサイトを閲覧する事自体が言語道断なのだ。
妻がいて、そして子供まで出来るというのに。
「済まない……深く反省する……。俺は、俺は……!」
仁が俯き涙ながらに謝罪すると、よしおはそれ以上糾弾することができなくなった。
彼としても仁を責め殺したいわけではない。
正道に立ち戻ってほしいだけなのだ。
よしおはややあって再び口を開いた。
「どうしても性欲が抑えきれないのなら、奥さんに相談……は良くないでしょうね……。出産で不安になっている奥さんにするべき相談ではない……いや、待てよ。あるいは異常性欲なのかもしれません。心療内科へ行きませんか?」
仁はそれを聞き、もっともな話だと思い承諾する。
よしおも仁が本気で更生したいと考えている事を知って安堵した。
(一軒落着、か。いや)
よしおの鼻が僅かな腐臭を捉えた。
それは悪意という名の腐臭だ。
“この件”が自身の預かり知らぬ場所で起こされていたならばよしおとて傍観しただろう。
よしおは決して正義漢などではない。
しかし、自身の生活圏内で自身に関わる人間が巻き込まれたとあっては話が別だ。
彼は自分では認めてはいないが、非常に利己的というか、自分至上主義者である。
基本的に自分の物差しでしかモノを測れない。
そういう人間は自分の領域を侵される事を極端に嫌う。
よしおの眼輪筋がビクビクと震えた。
◆◆◆
件のサイトは自殺などの不慮の死を遂げた女性達の流出画像を専門とした、非常に趣味の悪いアングラポルノサイトである。
ただ流出動画と銘打ってはいるが、実際は本物そっくりに似せたディープフェイクだが。
だからこそ異様なまでに鮮明な画質を維持できるというわけだ。
だが、当初は醜い性欲を満たすだけのいかがわしいサイトだったのが、性欲という三大欲求の1つが死者の似姿へと向けられる事により、死者の魂の成仏が阻害されたのだ。
AIにより生成された生前の本人そっくりの画像、動画に視聴者性欲という生に満ちた欲求をぶつける……これは一種の呪術といっても過言ではない。
極めて悪質で中途半端な反魂の秘術である。
死者に対して死を理解させる事は成仏への第一歩だが、その逆は?
成仏したくても出来ない。
それどころか、自殺などをした魂は延々とその時の苦痛を味わい続ける。
自身が何処に捕らわれているかも分からない。
であるならば女達の霊は正気を失うのも当然で、魂の孤独とも言うべき壮絶な寂しさを癒す為に女性達は本能的に生者……視聴者達との交流を求めるようになる。
一般的な生者が死者と交流するならばその身を死に近づけなければならないのだが、女性達の存在に身を近づけようとした生者から生気が失われ、やがて死に至るのは当然の話であった。
結句、当該サイトは厄極まる非常にタチの悪いモノへとなってしまったのだが……よしおがそれを阻止した。
だが問題はこのサイトが誰に、どんな意図をもって製作されたかである。
芸能人のディープフェイク・ポルノであるならば、アンダーグラウンドなサイトであるならありえるかもしれない。
しかし一般人のモノも用意しているようなサイトが他にあるだろうか? ましてやその“素材”になった女性達は全て例外なく死者であり、更に死因も惨いものばかりであるというのに。
◆
「それにしても、鈴木。いや、鈴木さん……あんた、その……もしかして……霊能者、みたいな感じなのか?」
仁の言葉によしおは肯定も否定もしなかった。
それは“聞くな”という意味である事に仁も気付く。
「わ、わかった。でも必ず恩は返す! 俺はこうみえても義理堅いんだ」
悪霊にそそのかされたとはいえ、浮気まがいの事をする奴が義理固いわけがないだろう間抜けが──と思いながらも、よしおは曖昧に頷いた。
霊的異常空間外において、鈴木よしおという男はどちらかというと控えめで静かな性格をしている。
これからも同じ職場で働く同僚に対して、たとえ本音であってもチクチク言葉をぶつけるのはどうなのかな、と思いただ黙っていた。
鳥の鳴き声。
夜が明けようとしていた。