これから私が書くことはだいぶ可笑しな話だが、読んでも笑わないでほしい。
朝、眠い目を擦りながら焼き魚の匂いがするリビングに行くと、いつものように父の真面目くさった「お早う」という声がした。小さい頃からきちんと挨拶をするよう言われているので、私は反射的に「お早うございます」と返す。父は内科の開業医、自宅に診療所を兼ねている、いわゆる町の小さな医院だ。
その父が、見ると向日葵だった。正確に言うと、巨大な向日葵の着ぐるみを着、テーブルで朝食を取っていた。向日葵の中心、タネの位置から顔が出ていて、周りを黄色い花びらが囲んでいる。体は緑色のぴったりとしたタイツで、腕を動かす度にペラペラと動く肩の緑の布は、葉っぱのつもりのようだ。
私は状況が理解できず、最近ショート動画で見た「もしも並行世界に飛ばされたら」というネタでも、だいぶ遠い世界線だな、などと思った。
父は、首の花びらが汚れないよう顎を突き出して味噌汁を啜ると、固まっている私を見て眉間の皺を深くした。
「やっぱり無理だ。見てみろショウの顔、笑うどころか眉間に皺寄せてるぞ」
母がキッチンで吹き出した。いつものエプロンのいつもの母だ。並行世界が否定され、ちょっと安堵した。
「やだショウ、お父さんと同じ顔してる。見た瞬間に笑ってくれると思ったんだけど、残念ね。患者さん達も同じ反応かしら。でも慣れたら……ジワジワくるけど」
湧き上がる可笑しさをこらえながら、母は食卓に座った私に御飯をよそった。
「しかしできれば、診察室に入った瞬間に笑ってほしい」
二人の会話でようやく事態が飲み込めた。最近流行しだした病気への対応だ。
通称「激笑ウィルス」の患者は、今うちの医院でも急増している。原因は不明だが、当初ウイルス性の感染症と似た広がり方をしたのでそう呼ばれた。罹患すると「ケケケ」という特徴的な笑い声を出し、激しい笑いが止められなくなる。更にそれを見た者にも笑いが伝染するという病だ。有効な薬は未だ開発されていないが、一方で対処は比較的簡単だった。患者の内部から湧き上がる”発作的笑い”は、外部からの”健常な笑い”で簡単に抑制出来ると分かったのだ。
つまり、ケケッと笑い出した者がいたら、すかさず面白いことを言うなどして周りが笑わせればいい。それで激笑はおさまり、感染も防げるのだ。ただ、一度ツボに入った激笑状態になると、周りも目に入らず笑い転げる患者も多いので、その前に笑わせるに越したことはない。
それで父のこの格好か。診察の際、患者が医師を見た瞬間に”健常な笑い”ができれば、確かにべストだ。が、そう上手くいくのか。
「やっぱり、こんな格好より駄洒落連発作戦の方が良くないか?」
「えっ父さん駄洒落なんて言えたの?」驚く私に、父は食卓に目を落とした。
「……この
私と母の微妙な顔を見て、父は畳みかけた。
「
母の「向日葵、似合うと思うの」という言葉と、私の「向日葵の方がまし」という言葉が重なった。
「でも緑のタイツはやりすぎかな」
「確かにね」
超ショック!な顔で父は駄洒落作戦を撤回、顔周りの花びらはつけたままシャツと白衣に着替え、診察室のある一階へ降りて行った。心なしか背が丸まっていた。
夕方、私が学校から帰ると、診察室で父の声がしていた。相手は激笑の患者のようだ。
「まず数十分から数時間、ケケケという笑いが止まらなくなる『本笑い』期があります。その後極度の疲労とともに小康状態が来る、今のあなたの状態ですね。しかし、治ったと安心してはいけません。次に、ケケケ笑いをしていた自分を思い出し笑ってしまう『思い出し笑い』期がやってきます。これは突然来るのが厄介です。人によって回数や間隔は様々ですが、数日で症状は治まりますので安心して下さい。まあ、喘息など基礎疾患のある方や、高齢者の『思い出し笑い』期での誤嚥性肺炎は注意が必要ですが、あなたは疾患もないし、お若い。心配することはありませんよ。診断書を書きますので、会社は一週間ほど休んで下さいね」
説明の滑らかさが連日の激笑患者の多さを物語っていた。衝立からチラチラ黄色い花びらが見える、一日付けていたのか。
「あの先生、ネットではこの病気で『腹筋崩壊する』と」
「一番多くみられる後遺症ですね。しかし、起こっても強めの筋肉痛といったところですから、二、三日で回復します。大丈夫ですよ」
夕飯時、父に向日葵の被り物に対する患者さんの反応を聞いた。意外にも驚きや拒否反応は少なく「先生も大変ね」と同情的に微笑む患者が多かったという。どうやら医院へ来るまでにも、お店や交通機関のデジタルサイネージなど至る所に、政府感染&重症化予防対策による、芸人のギャグや面白ショート動画的なものが溢れていて、笑いの感覚が麻痺した人が多かったらしい。それでも何人かは、父を見た瞬間苦笑いしたという。
「同情や苦笑いって、激笑に対抗出来てないじゃない」私が呆れると、
「俺も最初そう思ったんだが、実は案外いけるかもしれないんだ」
いつも冷静な父が、少し興奮気味に続けた。
「今日ある男性患者が、ちょうど激笑発作を起こしかけて診察室に来たんだが、俺を見た瞬間、口の端と眉を歪めて、もう苦笑いとしか表現しようのない笑い方をしたんだ。絶対”健常な笑い”じゃない。ところが、それで激笑がおさまったんだよ。”苦笑い”でだ。これ何例か集めたら、学会に報告出来るよな」
父は明日も苦笑いされるぞと意気込んだ。自分が患者から苦笑いされるという事実は、学術上の発見に繋がるかもしれない事実の前では、どうでも良いものらしい。
その夜のテレビニュースでは、海外の強権的な大統領が、演説中突然転げ回って笑うという映像が、一部モザイクをかけて流された。権威のかけらもない姿が反政府勢力を刺激し政情不安が加速したというが、モザイクをかける理由はそれとは別で「遠隔つられ笑い」による感染予防の為だ。
そもそも激笑ウィルスは、箸が転んでもおかしい年頃と言われる女子高生から広がった。当初は接触や飛沫感染と思われた為、手洗い、マスク、三密回避などが推奨された。が、ウィルスは驚異的なスピードで変異を繰り返し、先月海外で、罹患者とテレビ電話をしただけの家族が感染するという衝撃的な「遠隔つられ笑い」感染が確認されると、前後してネット動画やテレビのニュース映像を通じ、世界中で感染が爆発した。緊急対策として、直ちに主要な動画サイトに強制的にモザイク処理がされたのだが、時すでに遅しだった。
ニュースでは、権威失墜大統領の話題に続き、キャスターが激笑専門家に話を聞いていた。
「この激笑ウィルスは、普段あまり笑わない人ほど強い症状を引き起こす傾向にあるそうですが」
「はい、激笑の強制的に笑う苦しさと、その後の疲労感は、普段から笑うことが多くある人と、そうでない人では、感じ方が大きく違うという統計が出ています。つまり笑い慣れる方が良いのです。そこで政府では『一日三回大笑い』を掲げ、普段から意識的に笑うことを推奨しています」
私は溜息をついた。正直そんなに面白いことが、毎日都合良く転がっているとは思えない。もっと言えば、酷いことも起きないが面白いことも起きないという、安定したつまらない日々の繰り返しを無事にこなすのが、良い日常だとさえ私は思っている。
「ショウったら、またお父さんみたいに額に皺寄せてる。ほら笑っときなさい、それが健康の秘訣!」
母はテレビを見つめていた私の顔を覗き、ふふっと笑った。
「はいはい、激笑ウイルス対策ね」
「それだけじゃないわ。日常のなんでもないことに面白さを見つけて笑えるってことが、健康で幸せにいられるコツなの」
「……それって、難しくない?」
「日々の鍛錬の積み重ねよ」母親はチョキにした二本の指で、私の口角を無理やり上げた。
そういえば昔、母方の親戚から、母は両親、つまり私の祖父母にあたる人と早く死別し、苦労して看護学校に入ったと聞いた。しかし本人は何も言わないし、始終笑顔で、ずっと人生を楽しんでいるようにも見える。
両頬に食い込む母のチョキは手で退けたが、日々の積み重ねは案外大事なのかも、と思った。
私は部屋の鏡の前でそっと口角を上げてみた。
以上が私の話だが、最後にもう一つ。
最近激笑ウイルスはまた変異し、接触や動画だけでなく症例を書いた記事、つまり文章を読み場面を想像して笑っただけでも「遠隔つられ笑い」感染する可能性があることが分かってきたという。
私が冒頭、これを読んでも笑わないで欲しいと書いた意味を、これで理解いただけたと思う。