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緊張しながらみずからの手で音楽室の扉を開けて、クラスメイトのふたりを先に入るように促してから俺も中に入り、扉を静かに閉めて、誰も入れないようにしっかりと鍵をかけた。
「なあ、幽霊はいるのか?」
見るからに顔色の悪い鈴木が、音楽室の隅々まで眺めつつ、オドオドしながら訊ねてくる。
「いるハズだよ。そこに座って、待っててくれないか?」
音楽室の中央の床にふたりを座らせて、かけていたメガネを外し、グランドピアノの隅に置いた。
「おい三神、その目……」
それぞれ目を見開き、驚いた顔して俺の顔に指を差す。鈴木はなぜか、口元を押さえていた。
(そりゃあ驚くよな、自分ではじめて見たときは、異質だと思ったし――)
「この目は、幽霊が見える印みたいなものなんだ。霊能力と一緒に、このことも内緒にしててくれよな」
肩を竦めながら言うと、岡田がなぜかワクワクした表情を浮かべた。
「すげー! 三神ってばすげー! やっぱカッコイイよお前」
「は……?」
「力を隠してることといい、その目といい、カッコイイとしか言えねぇわ。そう思わない? 鈴木」
興奮しながら鈴木を揺さぶると、呆れながらぽつりと言う。
「そうだな。だけど本人は隠したがってるんだから、お口チャックだぞ岡田」
「お前たち……」
変だと思われなかった。差別もされなかった――冷たくあしらわなかったふたりの態度に、胸の中がじわりと熱くなる。
「三神の能力、この目でしっかりと見てやるから、さっさと幽霊を呼び出せよ」
「……鈴木、ありがと」
「あっ、俺だって心のシャッターを押してやるぞ! カッコイイ三神を激写してやるからな」
負けじと騒ぐ岡田に対して、鈴木と一緒に苦笑いをした。俺のことを差別しなかったふたりのお蔭で、随分と緊張が解れるたのを感じた。
「あのさ、ふたりに感謝する。俺、頑張るから!」
深呼吸を何度かして心の中を空っぽにし、きちんと落ち着いたところで胸ポケットから数珠を取り出して、いつものように左手にかける。
(――香織さん、香織さんいますか?)
何度か、問いかけを続けていると――。
『ごめんなさい、これに夢中になっちゃって。優斗くん、来てくれたんだ』
小さいピアノを抱えて、微笑みながら香織さんが目の前に現れた。
(香織さん、大きいピアノを弾きたいでしょ?)
『うん。しばらく弾いてなかったから、優斗くんが出してくれたこのピアノで、ずっと練習していたよ。片手ずつだったけど、忘れていたメロディがやっと思い出せたの!』
弾んだ声を出した香織さん。ずっと弾きたかったピアノが弾けて、本当に嬉しそうだった。小さいピアノなのに、こんなに喜んでくれるとは思ってもいなかったな。
(ごめんね。今の俺の力じゃ、どんなに頑張っても、その小さいピアノしか出せないんだ)
『そう。でもいつかは、出せるときがくるんでしょ?』
小首を傾げて訊ねられ、思わず言葉が詰まる。視線を伏せて気落ちした俺を、香織さんは不思議そうな顔で覗き込んできた。
『どうしたの、優斗くん?』
(――俺が大きなピアノを出すのには、何年もかかってしまうらしい。だから香織さん)
『なぁに?』
(君が俺の中に入って、音楽室にあるピアノを弾いてみてくれないかな)
顔を上げて思いきって告げた言葉に、香織さんは大きな目を見開き固まった。
『私が、優斗くんの中に……? それって、本当に大丈夫なの?』
(俺も初めてのことだし、大丈夫なのかは分からない。だけど香織さんに、あのピアノを弾いてもらいたいっていう強い気持ちが俺にもあるから、きっと上手くいくと思ってる)
左手にかけている数珠をぎゅっと握りしめながら、香織さんの返事を待った。
『私は、どうすればいいのかな?』
揺れ動いていた瞳が、何かを決心したみたいに光り輝いた。
(いつも通りにしていて。俺が心を開くから……)
目の前にいる香織さんの額に、右手を当てて念じる。彼女の願いを叶えるために心を解放します、と。やがて目の前にいた香織さんが、どんどん透明になっていった。
「あ!?」
自分の意思とは違うなにかが、俺の隣にいるのをまざまざと感じる。しかも動かそうと思ってないのに、勝手にてのひらを見つめている自分がいた。
「あの、その……」
なぜだか、じわりと頬が熱くなる。視線の先には岡田と鈴木がいて、香織さんが困惑しているのが伝わってきた。。
(彼らは香織さんの演奏を聴きに来た人だよ、大丈夫だから)
心の中で告げてやると、ほっとした安堵感を胸で感じた。
「き、今日はわざわざ私のピアノを聴きに来てくれて、どうもありがとうございますっ。一生懸命に演奏しますので、ヨロシクお願いします!」
ちょっとオカマがかった俺の喋りに、ふたりは面食らったみたいだったけど、突っ込むことなく姿勢を正してお辞儀してくれる。
香織さんも丁寧にお辞儀をし、グランドピアノに近づいて、ゆっくり蓋を開けた。鍵盤の上にかかっていた赤い布を取り払い、右手人差し指でポーンと音を鳴らす。
「ずっと弾きたかった、本当のピアノの音だわ。すっごく嬉しい……」
愛おしそうに両手で、鍵盤をなぞるように触れていく。自分の指先から次々と音が奏でられ、不思議な感覚に陥った。
(香織さんなんか、ものすごく気持ちがいい。俺、ピアノを弾くことが楽しいかも)
「そうだよ、優斗くん。一緒に楽しもうよ」
微笑んだ彼女が、静かに鍵盤の上に指を滑らせて弾いていく。俺でも知ってる曲、ベートーベンのエリーゼのためにだった。切なげに弾いていたと思ったら情熱的になったりと、曲調が変わる度に香織さんの表情も変わる。
(岡田たちのように、俺から彼女を見ることはできないが、ピアノの端から端までを使って奏であげていく姿はきっと、とてもキレイなんだろうな)
弾いてる最中に思い出される、香織さんの記憶――課題曲の練習を頑張ってるところや入院中の治療の様子、辛い投薬治療などが脳裏に流れてきて、胸の中が痛くなった。
だけどそんな辛さも今、浄化されようとしている。喜びに溢れながら、ずっと触れたかったピアノで演奏することができているんだから。
そして香織さんは最後の一音を弾いて、ピアノからゆっくりと指を外した。
ピアノを元の状態に戻し、聴いていたふたりにぺこりとお辞儀をして、足取り軽く音楽室を出た。彼女が開け放ったままにした扉から、拍手がずっと耳に聞こえてくる。
「ありがとう。私、すっごく嬉しかったよ。さっさとあの世に連れて行って」
瞳に自然と涙が滲んでしまった。目の前の景色がどんどんぼやけていく上に、胸が切なくて苦しい。香織さんの喜びを体で感じているだけなのに、どうしてこんなにも苦しんだろう?
(俺の家で送ってあげる。このまま帰ってくれないか?)
彼女をきちんとした場所で見送りたかった。こんなふうに関わったからこそなおさら。
「分かった。優斗くんのお家、教えてね」
俺は滲んだ涙をしっかりと拭って前を見据え、決意を新たに歩き出したのだった。