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(誰かに見られてる朝の視線は、もしかしたら間違いなかったのかもしれない――)
そんなことを考えながら、真っ青になったまま固まる笑美さんと、見知らぬ男を交互に眺めた。
「弘明…なんで、なんでここに?」
男の名を呼ぶ間柄――笑美さんの元彼がわざわざ僕らの前に現れてくれたことを知り、思わず笑いそうになった。
「やっと見つけた。置手紙を残して、出て行くなんて驚いたんだぞ。もう怖いことしないから、やり直そう?」
「や……」
肩を竦めて体を小さくさせる笑美さんの前に、堂々と立ちはだかる。
「笑美さんの元彼さんですか? 残念ですけど、今は僕と付き合っているので、復縁は無理です。諦めてください」
「なんだと!?」
頭の中で素早く電卓を叩き、支払い可能な数字を口にする。
「ただで諦めてとは言いません。一千万円でどうでしょうか?」
「は? 一千万?」
「そうです。僕が所有する株やそこにある車など財産をすべて売れば、それくらいの額を貴方にお支払いできるという話です」
「笑美がおまえみたいな金ヅル捕まえるとはな。喜んでその話――」
(この話、君が受けても受けなくても僕の勝ちなんだよ。残念だったね、元彼さん)
「受けるワケねぇだろ、バーカ! 黙って笑美を寄越せ!」
男に罵られることには慣れっこなので、大きなため息をついて元彼さんを見下ろした。
「もう嫌だ……」
背後にいる笑美さんが、震える声で呟く。振り返ろうとしたそのとき、元彼さんがポケットからなにかを取り出した。手元で慎重にそれを扱い、尖った刃先を見せつける。
拳銃じゃなくてよかったと、心底ほっとした。どんなに身体能力がよくても、弾丸を見極めて避けるなんて離れ技はできないし、笑美さんを守るために盾になるしか方法がない。
「そこを退いて、とっとと笑美から離れろよ」
光り物で脅しとは、チンピラと変わらないじゃないか。
「笑美さん、遠くに逃げてください」
「ひゃ110番……警察に連絡」
「そんなのいいから、早く逃げて!」
笑美さんの体を押して、遠くに逃がそうとしたのに、僕を仰ぎ見た彼女は苦しそうな表情のまま、その場に倒れ込む。横目でそれを見ながら、元彼さんが振り下ろしたナイフを持つ腕を易々と掴んで、動きを止めてやった。
「オーバーな動きは、隙を作ることに繋がるんですよ」
わざと隙を作ってやったというのに、大きな動きで僕を襲うなんて、間の抜けた奴だと鼻で笑い飛ばした。力が勝っている僕が掴んだ腕が抜けないというのに、それでも抗う元彼さんの馬鹿さ加減に呆れつつ、背後で倒れた笑美さんに視線を向けた。
「笑美さん気を失っちゃったのか。僕の勇姿を見せられなくて残念だなぁ」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇぞ!」
元彼さんはドスの効いた声で怒鳴りつけるなり、空いた手で僕の腹にパンチを食らわした。素人のパンチなんて、まったく芯を捕らえていなくて、痛みにもつながらない。
「笑美さんになら、喜んで痛めつけられてもいいんですけど、君のようなろくでなしでは、僕の相手にもなりません」
元彼さんの腕をパッと放したら、それまで力を入れていたせいで、ぐらりと不安定に揺れ動く。その動きが読めなかった僕は、ナイフの切っ先を頬に当てられてしまった。
「ありがとう。名誉のキズをつけてくれて♡」
「な、なんで礼なんか言うんだ?」
(そんなの決まってるじゃないか。このキズを見た笑美さんが、僕に責任を感じる。運が良ければこの傷跡が消えないものになったりしたら、もっと責任を感じて、結婚するネタになる可能性だったある。なんて喜ばしいことだろう)
笑いだしたくなる気持ちを抑えていると、元彼さんは両手でナイフを持ち直し、視線を僕の背後に投げかける。強い僕には手が出せないことを悟って、笑美さんに照準を合わせたのを知り、元彼さんの視線の先に体をズラした。
「弱いものいじめしかできない君に、笑美さんを傷つけることなんてさせません。僕の最愛の人に手を出すな!」
元彼さんが動く前にナイフを持つ手を捕らえようとしたが、笑美さんの同情をもっと買うべく、わざと腕にケガを負った。それでも簡単に、元彼さんを取り押さえることに成功する。
「放しやがれ!」
「君がこの場で、笑美さんを殺しちゃったりしたら、僕を罵る貴重な人間がいなくなるでしょう。それはとても困るんです」
楽しげに言い放ちつつ、柔道の絞め技で失神させる。その後自ら警察を呼び、彼女と一緒に病院に運ばれたのだった。