忘れ物を届けに来てくれた笑美が応接室で待っていることを知り、会議の途中だったが席を外した。俺がいなくなることで困る内容でもないし、重要案件についてはすでに話が済んでいたので、大手を振って会議室を出た。
(昨日寝落ちする前に見ていた書類を笑美が届けてくれるとは、なんてできた奥さんなんだろ。今夜はお礼を兼ねて、念入りにサービスしてあげなければ)
エレベーターを使うのがもどかしかったので、階段で4階ほどさくさく駆け下りて、息を切らしたまま会議室の扉をノック。中から返事が聞こえる前に、扉を大きく開けたら。
「俊哉さん……」
困った顔した笑美の前には、お菓子やジュースやお茶など、テーブルに所狭しと置かれているだけじゃなく、それに比例して男性職員が大勢いた。まるで砂糖菓子に群がる、蟻のように見えなくもない。
「佐々木代理の奥様をおもてなししてました!」
「すっごく綺麗な奥様ですね。めちゃくちゃ羨ましいです」
「残業を切り上げて、早く帰る意味がわかりますぅ」
ほかにもたくさん笑美を褒める言葉が出てきたが、心底呆れ果ててしまい、すべて耳に入ってこなかった。かけているメガネのフレームをあげてから、大きく息を吸い、目の前を見据えながら告げる。
「俺の妻は、忘れ物を届けに来ただけだ。こんなにもてなす必要ない。とっとと部署に戻ってください!」
怒ったことのない俺を見た男性社員たちは恐れおののいて、蜘蛛の子を散らすように応接室を出て行った。綾瀬川とのやり取りで得た、初撃の大切さ。自分の敵になりそうなものは、先手必勝して排除するに限る。
「俊哉さん、あのこれ……」
「ありがとう。午後に使う予定だったから、すごく助かる」
身にまとっていた緊張を解いて、微笑みながら座っている笑美を見下ろした。
「ただ忘れ物を届けに来ただけなのに、こんなことになるなんてびっくりしちゃった」
少しだけおどおどした笑美はソファから腰をあげて、俺に書類を手渡そうとした。ビクついた気持ちをなんとかしなければと、そのまま抱きしめる。優しく抱きしめれば、胸の中にある書類は折れたりしないだろう。
「俊哉さん、どうしたの?」
「あんなに大勢に囲まれていたから、なにかされる隙はなかったと思うが、大丈夫だった?」
甘やかに耳元で囁いてから、耳朶にキスを落とした。
「ちょっ、こんなところでなにしてるんですか!」
「激しく嫉妬してる最中……」
「そうじゃなくて――」
「あと会社で逢えるなんて、今日はついてるなって。なぜだか結婚前を思い出した」
仕方なく腕の力を緩めて解放すると、笑美は俺の手に書類が入った封筒を握らせてから、曲がっているらしいネクタイを直してくれた。
「俊哉さんダメですよ。ここではしっかりしなきゃ。だけど会社の皆さんにとても慕われていることがわかったので、来てみて良かった」
「慕われてるって?」
上司の俺を持ちあげる賛辞を、口々に語ったに違いない。
「俊哉さんを待ってる間に、彼らの口からいろいろ俊哉さんのことが勝手に語られていくので、聞いていて面白かったなぁと」
(俺の賛辞を面白いと言うなんて、やっぱり笑美にはかなわないな)
ネクタイを直していた手が俺の首にかかり、ぐっと笑美の顔に引き寄せられてそして、頬に唇が押しつけられた。
「早く帰ることのできるおまじない。頑張ってくださいね俊哉さん」
しっかり者の奥さんにおまじない付きで応援されたんじゃ、残業なんてしていられない。しかしながら頬にキスだけじゃ、やっぱり物足りないな。
「ありがとう笑美。気をつけて帰れるおまじない、してあげようか?」
名残惜しかった俺は、笑美が断らないであろう提案を試みた。
「俊哉さんってば、昨日いちゃいちゃしないで寝たからって、ここでそれをしようなんて思うとか、んっ!」
文句が続きそうなかわいい唇に優しく口づけ。もちろんここは会社なので、すぐに離れた。
「笑美のおかげで今日も早く帰れそうだし、つづきを楽しみに待っていてくれ」
照れながら微笑む笑美を会社の前で見送って、気合いを入れ直した。1秒でも早く帰ることができるように、全力で仕事に励む。