笑美の元彼の自宅に、手紙を送った人物を特定したとの連絡を受けた。予想通りの人物の名前を聞いてからお礼を告げて、静かに電話を切る。
「さて一応警戒するために、念押ししないと駄目か……」
ふたたび同じ手を使われる可能性がある限り、潰しておかなければならない。俺が仕事に行ってる間になにか悪さをされても、超絶忙しい現在はおろか、名古屋に転勤後は頼りになる斎藤はいないし、確実に助けることができないのだから。
「折り入ってお話があります。数分で終わらせますので、聞いていただけないでしょうか?」
彼が仕事に来る日に、下げたくない頭を深く下げて、しかたなく直接頼み込んでみる。
「嫌だなぁ、そんなふうに頭を下げるなんて。このたびは栄転おめでとうございます!」
どこか馬鹿にするように、拍手付きでお祝いされてしまった。
「ありがとうございます……」
「僕のことを根掘り葉掘り調べるために、佐々木さんのお母様筋の親戚に頼み込んだというところでしょうね。海より広い僕の交友関係を一般人が調べるなんて、普通は無理なことですから」
宝石を思わせる緑色の瞳を輝かせながら説明する綾瀬川に、黙ったまま睨んでやった。
「佐々木さんの栄転のカラクリは、僕のことを調べることと引き換えだったとは。ついでに笑美さんとの結婚まで決めてしまうなんて、本当にラッキーというしかないな」
「自分のやった事の重大さがわかってないのか? 一歩間違えたら、笑美が死んだかもしれないんだぞ」
空手を得意とする、斎藤のように殴ることができたらやりたかったが、素人のパンチを簡単に受け止める術を綾瀬川が持っている以上、やるだけ無駄なので、拳をぎゅっと握りしめて、負の感情をやり過ごす。
「まさか元彼さんが、刃物を持って待ち構えていたとは思いませんでしたが、刺し違えても笑美さんは絶対に守り抜きます」
「綾瀬川っ!」
俺の気持ちが伝わらないことに苛立ち、思わず綾瀬川のスーツの襟を掴んでしまった。俺よりも背の高い彼は引っ張られて、少しだけ前屈みになる。
「暴力反対です。笑美さんに嫌われますよ」
反省の色がまったく見えない綾瀬川に、このまま突っかかっても時間の無駄だと判断し、襟を掴んでいた手を退けた。
「綾瀬川、どうしてそこまでドライでいられるんだ。俺はそのことが理解できない」
「僕だって理解できませんよ。僕のことを調べるのに、佐々木さん自身の人生を180度変えたんですから。そうまでして、調べる必要ないでしょうに」
「…………」
俺の母親は自分の父の会社のために政略結婚をして、兄と俺を生んだ。兄は父の系列会社になる佐々木システムウェーブという会社を設立し、社長として頑張っている。
しかしこの間、笑美と結婚するにあたり顔合わせした際に、兄は値踏みするように笑美を見てから。
『できの悪い弟の世話をすることになるなんて、とてもかわいそうだな。社長夫人として佐々木家に入ったほうが、君は楽しく余生を送れると思うのに』
なぁんて嫌味ったらしく俺の前で言い放ったせいで、その場が凍りついたというのに、笑美は終始優しく微笑んでいた。
「私は俊哉さんに惹かれたので、結婚しようと思えたんです。彼以外私をしあわせにできる人はいません」
俺が文句を言う前に、きっぱりはっきり言いきってくれたので、兄は取り付く島もなかった。
兄には、子どもの頃から見下されていた関係もあり、俺としては一緒に仕事をする気になれなかったので、父の会社じゃなく祖父が経営する系列の会社に入社した。
俺の希望で35歳まで営業職を学ぶ約束が、今回の件で早まったことは、結果的によかったと思える。だって力強い味方の笑美を、手に入れることができたのだから。
「笑美さんのような人と今後めぐり逢えるように、一応おふたりの応援をしますよ。心の中でね」
「だったら俺は、最高の彼女と綾瀬川がめぐり逢えるように祈ってやる。心の中で」
「最後まで嫌味な人ですね。思ってもいないことを口にするなんて」
わざと俺の肩にぶつかって、エレベーターホールに向かう綾瀬川の背中に、そっと囁いてやる。
「きっと笑美も俺と同じ気持ちでいると思うから、言ってやったんだよ」
こうして嵐は無事に過ぎ去り、笑美とふたりで新天地でしあわせに暮らすことができたのだった。