朝イチの飛行機に飛び乗り、名古屋に向かった。忙しい人だったが、昨夜のうちにアポを取っておいたおかげで、逢う約束をすんなり取りつけることができたのは、かなりラッキーだと思う。
本社に到着後、受付をしてから会長室に通された。
「久しぶりだなぁ、俊哉。元気そうでよかった!」
「ご無沙汰していまっ…くっ、苦しいです!」
入った途端に抱きつかれたのはいいが、容赦ない抱擁に苦笑するしかない。
「悪い悪い。以前逢ったときよりも男前になっていたものだから、その養分を吸収しなくてはと思ってな」
「養分って、そんなもの吸収しなくても、十二分にお元気に見えますよ」
自分よりも小さな背中をぽんぽんしてあげたら、二の腕から力が抜け落ちたのを感じた。
「それで俊哉がここに来たのは、結婚の報告なのかい?」
目の前でニヤニヤしながら言われても、笑美とそんな約束すらしていない現状なので、落胆させることが悲しくなった。
「すみません。まったく違う用件でお伺いしました」
言いながら頭を深く下げると、「とりあえず座りなさい」と声をかけられた。それに素直に従って、ソファに腰をおろす。
「俊哉が平日に、名古屋までわざわざ足を運ばせる案件は、いったいなんだろうねぇ」
「実は――」
なごやかに話しかけられても、頼むことが笑美がらみなので、緊張しながらこれまであった経緯を、丁寧に説明した。
「なるほど。四菱財閥の綾瀬川とは仕事柄、古くからの付き合いをしているが、ハーフの息子なんていたんだな。綾瀬川は確か男兄弟が多い上に、結婚と離婚を繰り返しているヤツが結構いるから、いちいち把握していなくて」
「そうなんですか」
「私に頼みたいこと自体、引き受けるのは可能だが、タダより高いものはないのは知っているだろう?」
「はい」
ソファの上で、背筋を伸ばしながら返事をした。
「お金では動かない私を動かす術はなにか、俊哉はわかっているはず。とっととその松尾さんと結婚して、早いとこ曾孫を抱かせておくれ!」
とんでもないことを口にしたお爺様を、白い目で見つめる。
「すみません。彼女とは付き合いはじめたばかりで、プロポーズを口にするのは、まだまだ早いというか」
「そういうところが駄目。俊哉はトロくさい。そんなんだから、綾瀬川の倅に手を出されるんだぞ」
いきなりのダメ出しに、話の雲行きが怪しくなり、立て直さなければと必死になる。これが仕事ならスムーズにこなせるというのに、相手が厄介な身内だからこそ、こちらの手の内を読まれているせいで、安易な言葉を告げることすらできない。
「やっ、あー……でも彼女の気持ちを考えると、安易に手が出せない感じなんですが」
気が動転して言葉に詰まらせる俺を見るなり、お爺様の額に青筋が浮き出た。叱られると思ったら、余計に口を開くことができない。
俺は諦めて唇を引き結び、黙ってお爺様の顔を見つめる。
「恋愛もビジネスと同じで、ちょっとしたタイミングを逃すと、気づいたときには駄目になる。そういうものだ」
人生の先輩として経験を踏まえた言葉ゆえに、俺の中でずしりと重みを感じるものになった。
「俊哉がそんなふうに不安げな顔をしていたら、松尾さんはきっと心配することになるだろうねぇ」
「わかってます。彼女が頼れる男になれるように、これからもっと精進していきます」
「安心しなさい、頼まれたことはすぐに着手しよう。それと俊哉の異動については、これから手配する」
それまでの口調とは一変して、最初のような優しいものになった。
「ありがとうございます」
「私としては、本社におまえを呼び寄せたいのだが、周りが黙っていないだろう。身内びいきする気かって、煩いヤツが結構いる。だから別の場所で今までの経験を思う存分に発揮して、それなりの結果を出しなさい。以上だ」
それなりの結果――セリフで聞くと、たいしたことのないように思えるそれは、ちゃんとした結果を出さなければ俺だけじゃなく、お爺様の顔に泥を塗ることになる可能性がある。しかも煩いヤツを黙らせるとなると、想像以上のなにかを成し遂げなければならないだろう。
今まで培ってきた営業スキルが、経営にどれだけ使えるものになるのかさっぱりわからないし、経営する者の立場として会社を見たときと今じゃ、間違いなく見え方が違うことがわかる。
不安だらけだが、それでも――。
「与えられた職務を全力でやっていきますので、これからもよろしくお願いいたします!」
ソファから立ち上がり、お爺様に深く頭を下げた。
笑美のために、俺は頑張ることを約束する。頑張る俺を見て微笑んでくれる、彼女のとびきりの笑顔が見たいから。