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番外編16

 デスクに置きっぱなしにしているスマホが、瞬時にLINEを知らせた。それを手に取りながら、フロアを出て行く松尾の背中を見送ったのだが。


(――名残惜しい。少しだけでいいから、ふたりきりになりたい)


 俺よりも後方にいる千田課長に視線を飛ばして、なにをしているのかを確認。加藤と熱心に打ち合わせをしていたのでチャンスだと思い、松尾のあとを追いかける。


 この時間は、帰宅する社員たちが一斉にエレベーターを使用するため、いつも以上に時間がかかる。先回りするには、階段でおりるほうが早い。


 必死に数段飛ばしで駆け下りながら、先ほどのLINEを読んでみた。


『お疲れ様です。これから帰ります。残業あまり無理しないでくださいね』


 俺の体を心配してくれる松尾のメッセージに、階段をおりる足が奮起した。疲れているはずなのに、最初よりも足が軽やかに動く。おかげでエレベーターから松尾が出てくる前に、一階に到着することができた。


 人混みの最後尾を歩いた松尾をタイミングよく見つけ、細い腕を力まかせに引っ張り、階段下の狭いスペースに誘い込む。


「間に合った……」


 目の前にある細い体に抱きつき、呼吸をなんとか整える。ズリさがったメガネをあげる余裕も、汗臭くなっているであろう体臭すら、気にかける余裕なんてない。


 だけどふたりきりになれる今の現状を、思う存分に噛みしめながら、両腕に力を込めて松尾をぎゅっと抱きしめた。


「佐々木先輩?」


「悪い、日頃の運動不足がたたってる……。いっ、急いで階段を降りまくったせいで、息が切れてて、ぅ、うまく言葉にならない」


 情けないくらいに息が切れているせいで、ちゃんと喋ることすらままならなかった。


「佐々木先輩、あの……」


「松尾の酸素、少しわけてくれ」


「んっ!」


 このあと綾瀬川と一緒に帰る松尾をひとりじめしたくて、無理やりな理由をつけてキスをする。勢いまかせに押しつけた唇に驚いた松尾が逃げるので、右手で後頭部を支えつつ、ふっと唇を外す。今度は角度を変えて、優しく触れ合った。


 しっとりとした松尾の唇を感じたら、もっと欲しくなってしまい、強引に舌を割り入れる。


「うっ…ンンっ」


 上顎を前後になぞっただけで、甘い吐息と一緒に吐き出される鼻にかかった声が、俺の鼓膜に貼りついた。それをもっと聞いていたくて、松尾の舌にやんわりと絡ませる。


 静まり返るスペースに、互いの息遣いと卑猥な水音がくちゅくちゅと鳴り響いた。


「ぁあっ……」


 小さな声をあげた松尾が縋るように俺に抱きつくと、肩にかけていた鞄が落ちて、俺たちの存在を誰かに知らせる役割をしてしまった。


「松尾、持ってる花が潰れてる」


 俺に抱きついたせいで、松尾が持っているピンクの花が半分だけ潰れてしまった。


「おい、大丈夫か?」


 しかも指摘したというのに抱きついたまま、トロンとした顔で俺の胸に頬を寄せて、目を閉じる。こんなことされたら、またキスしたくなってしまうじゃないか。


「大丈夫じゃないですよ。こんなところで、あんなキスをするなんて」


「人目のつかない社内は、俺にとって社外になるからな。別にかまわない」


 抱きつく松尾に触れないように視線を逸らして、ズリさがっているメガネを直した。ついでに変形した花びらに触って、もとに戻してみる。


「そんなの屁理屈……」


「わかってる。そんな屁理屈を作ってしまうくらいに、松尾に触れたい気持ちが勝ってしまったんだ。アイツにこの花を贈られたときに見た松尾が、その……」


 なんて言ったら松尾が喜ぶかを考えたら、花びらに触れている指先に力が入り、変な折れ線ができてしまった。


「すごい似合ってるなと思ったら、悔しくなった」


 自分の手で変形してしまったのを知られないように、松尾の手から花を抜き取ると、一瞬耳元にかけてみる。思ったとおりに似合っていることがわかったので、肩にかかっている髪の毛を梳いて耳を出し、飾るようにセットした。


「ほら、やっぱり似合ってる」


 抱きつきながら俺を見上げる松尾の頬は、耳にセットした花とリンクしていて、とても艶やかに見える。


「そんなこと……」


「松尾は見えないから、わからないだろ。本当に似合ってる」


 艶やかで可愛い松尾に手を出してしまいそうになり、慌てて花を外した。


「アイツが一輪だけなら、俺は花束にして松尾にプレゼントしてあげる」


 そう言って手にした花を松尾に差し出すと、ふわっとした柔らかな笑みを浮かべながら受け取る。


「花束でのプレゼント、すごく嬉しいです」


 ずっと見ていたくなるような微笑みだった。限られた時間でそれを見ることができたから、良しとしないといけないかもしれない。


「さてそろそろ松尾を解放しないと、待ちくたびれたアイツが、千田課長に告げ口するかもしれないからな。寂しいけど、ここで見送らないといけないか」


 素早く触れるだけのキスをして松尾の肩を掴むと、抱きついていた腕が外される。すぐさま落ちている鞄を拾い上げ、松尾の肩にかけてやった。


「佐々木先輩、ごめんなさい」


「どうして謝るんだ?」


「だってプロジェクト、私のせいで外されて……」


 肩にかけた鞄の取っ手を握りしめながら告げられたセリフに、うちわで決めたことを説明する。


「ああ、そのことか。表向き外されただけなんだ。加藤ひとりで担うには負担が大きいことくらい、皆わかってる。裏でちゃっかり、ダブルワークすることになってるから安心してくれ」


「そうだったんですね、よかった……」


 胸に手を当ててほっとした松尾を見下ろしながら、注意をしなければならない大切なお約束を口にする。


「だから俺のことは気にせずに、松尾は接待に励んでください。あ、性接待は絶対に駄目だからな!」


「しませんよ、そんなこと」


「俺は松尾からの濃厚な接待、いつでも待ってるから」


 名残惜しさとか寂しさを隠すために、わざと明るく告げて、松尾を送り出した。しゅんとした顔でエレベーターを出たときの松尾の顔はそこにはなく、いつもの元気いっぱいな様子に、安心して見送ることができたのだった。

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