松尾と正式に付き合うと、彼女に宣言した日。一緒に帰ろうと思っていたのに、なぜだか逃げるように帰ってしまったので、仕方なくひとりきりで帰り支度をする。
デスクに置きっぱなしになっているマグカップに気がつき、給湯室に持って行ったら、先客が数人いて中で話し込んでいる様子だった。
「……千田課長に聞かれたの。『松尾の付き合ってるヤツ、誰かわかるかって』誰か知ってる人いないかしら?」
タイムリーな話題を提供している人物は、聞き覚えのある声だった。たぶん梅本だろう。
「あのコ、いつもヘラヘラ笑って、誰にでも愛想よくしているし、どこの誰と付き合っているのやら」
「ほんと、それ!」
「その愛想笑いを、四菱商事の専務の前でしたみたいよ。なんでもこの次に、息子と逢うことになったんだって」
「マジで? それって玉の輿に乗る気まんまんじゃん」
「社内にいる男を何人手玉にとっているのか知らないけど、あからさますぎるわよねぇ」
梅本とその仲間たちで構成された会話に、ムカつきを覚える。傍で聞いていて、激昂に駆られるくらいに――。
「君たち、そこを退いてくれないか。邪魔だ……」
怒りをなんとか飲み込んで、目の前にいるヤツらに声をかけた。俺がいることに驚いたのか、揃って驚いた顔をする。
「佐々木先輩、お疲れ様です。手に持ってるマグカップ、洗っておきますよ……」
用事がないのに、必要以上に俺に接触してくる女子社員が笑顔を作り、擦り寄ってきた。梅本たちは慌てて給湯室から出て、邪魔をしないように施す。
「自分で洗うから、遠慮してくれないか」
「でも……」
食い下がらない女子社員に、冷たく背を向けたまま、ハッキリ言ってやる。当然、梅本たちにも聞こえるように。
「彼女以外に、自分のものに触れられたくないんだ。邪魔だからそこ退いてくれ」
「佐々木先輩、彼女……いたんですか?」
女子社員は小さな目を大きく見開き、体を震わせながら俺の傍から退く。背後にいる梅本たちがひそひそ話をすることで、妙な雰囲気を感じとることができた。
「いつもヘラヘラ笑って、誰にでも愛想よくしてるって、君たちが噂していた人物さ。その笑顔に惹かれたってわけ」
「ううっ!」
しれっと言い放った途端に、女子社員は嗚咽をもらして去って行く。これでまとわりつかずに済むことに、せいせいしたと思ったときだった。
「佐々木くんの彼女が松尾さんって、本当なの?」
梅本が声をかけてきたので、顔だけで振り返り、鋭いまなざしを送ってやる。
「そうだけど。これ以上彼女の悪口を言いふらさないでくれ。松尾はフロアの雰囲気を考えて、笑顔でいるんだ。自分がどんなに体調が悪くても、つとめて明るく振る舞ってる。誰かさんたちと違って、そのときの気分で、当たり散らすようなことなんて、ひとつもしていない。彼女を見習って、少しは態度を改めたらどうだ?」
俺が言い終える前に、踵を返した梅本の態度にイラついたが、松尾の悪口の原因がこの場からなくなったことに、ほっとしたのだった。