白紙を使って、松尾をうまいことフロアの外に連れ出すことに成功した。途中のたどたどしい松尾の演技は、あとから思い出しても、かなり笑えるものだった。
「ふたりきりで話せるところは……。そこでいいか」
廊下の突き当りにある、消耗品を保管してある備品庫にしけこむ。
「松尾、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですよ。頭が大混乱状態です。いきなりなんで、あんなことになってしまったのか……」
「だよな、俺も驚いた。付き合ってまだ1日しか経ってないのに、松尾が御曹司と見合いなんて、俺に勝ち目はないだろ」
少しでも場の雰囲気をよくしようと、おどけながら言ったというのに、松尾の表情は相変わらず冴えない。どうしたら、笑ってくれるだろうか。
「相手はハーフだし、きっとイケメンなんだろうな。いやはや参った」
扉に背中を預けて肩を竦めた瞬間、
「それですよ!」
珍しく大きな声で、松尾が叫んだ。
「それとは?」
会話に食いついてくれたことを嬉しく思いながら、メガネのフレームをあげて問いかけたら、松尾はうんと嫌そうな顔をして、額に手を当てつつ、かわいくない声で告げた。
「どうして私が、佐々木先輩と付き合ってることになってるんですか?」
「だって昨日おまえに、路上でアプローチされただろ。あの場で俺は断ってない」
流暢に事実を告げたというのに、松尾はアホ面丸出しでぽかんとした。なにか言いたげに口元が動くが声にならず、ゼンマイ仕掛けの人形のように見える。
「松尾ってば、俺が彼氏になったことが、そんなに不服だったのか。変な顔してる」
自分から声をかけておいて、その顔はあんまりだと、思わずにはいられない。
「ち、違いますっ。えっとその……う~ん。佐々木先輩は私のことを全然知らないのに、彼女にしたのが謎すぎて」
「確かにな。会社じゃこれまで挨拶くらいしかしてなかったけど、居酒屋でいろんな話をおまえから聞き出すことができたのが、俺の中では好印象だったんだ」
わかりやすい説明をしながら胸の前で腕を組み、嬉しそうに答えたところ、松尾は何度も目を瞬かせて、俺の顔を見つめる。
「いろんなこと……? あの話の中で、佐々木先輩に好印象を与えるようなことを、私は言いましたっけ?」
「元彼とのことはつらい出来事なのに、あえて明るく振る舞って、俺に話をしてくれたろ。三か月前に終わったことだから、気持ち的に松尾はスッキリしているのかと思ったのに、深く掘り下げていったら、割り切れていないことがわかったしな。その真相を探るべく、誘導尋問みたいになったけど」
居酒屋での会話や松尾のリアクションを思い出していたら、いつの間にか俺の唇に笑みが浮かんだ。話の内容は暗いものなのに、松尾が終始明るく接するおかげで、俺自身が暗くならずに済んだのは、すごいことだと思う。
「そうですよ。佐々木先輩の元カノの話を聞けずじまいでした。ズルいです、フェアじゃない」
さらにかわいくない顔をした松尾がどうにも可笑しくて、笑いを堪えながら指を差した。
「しかもおまえの口から出る言葉が、どうにもツボに嵌って、笑ってばかりいた。俺の予想を超えることばかり、松尾が言うもんだからさ。それでコイツと付き合ったら、結構面白いんじゃないかというのが決め手だったわけ」
適当な言葉で伝えたが、実際は違う意味で松尾に惹かれた。それを今言うべきじゃないことくらいわかっているので、煙に巻いて誤魔化したのだが。
「佐々木先輩、面白いから付き合うことに決めたなんて、正直信じられません」
「松尾は俺を信じられないから、さっさと捨てて、玉の輿に乗るつもりなのか?」
確信に迫る言の葉を告げるために、あえて真剣な表情を作りこむ。俺の態度を見て、どんな答えを用意するだろうかと、ちょっとだけワクワクした。
「乗りませんよ、そんなもの」
実にあっけらかんとした返答に、思いっきり肩透かしを食らった感じと、表現すればいいかもしれない。だからこそ営業スマイルじゃなくて、実に自然に笑うことができた。
「松尾のそういうところに、俺は惹かれたんだって。普通は玉の輿に乗るために、喜んで平社員の俺を捨てるだろ」
「そんな理由で捨てたりしませんけど、イケメンな佐々木先輩とのお付き合いは、いろいろ恐れ多くて、できそうにないです!」
いきなり交際を断るセリフに、先ほどまで上がったテンションが、一気に急下降した。俺の心をこれほどまでに揺さぶるなんて、本当に面白い。
「自分から俺に迫っておいて、恐れ多いなんておかしくないか?」
「だって、どう見ても不釣り合いですよ私たち」
「不釣り合いなんて、俺は人の目なんか気にしない……」
「私はすっごく気にします!」
松尾は両手に拳を作りながら、キッパリと断言した。
どうやって説得しようかと悩み、背を預けていた扉から体を起こして、松尾を見下ろす。ありきたりの言葉をいうのが嫌だったので、わかりやすくてシンプルなものを選んだ。
「はじめてなんだ!」
言ったあとに、しまったとすぐさま後悔した。誤解されるセリフを吐いたことが妙に恥ずかしくなり、ジワジワと頬に熱がたまっていくのがわかる。
「やっぱり童貞……」
「違う違う、そうじゃない。おまえと喋ってると、どうにも調子が狂ってしょうがないな」
「鈴木雅之の歌でも歌いますか?」
またしても変なことを言い出す松尾に呆れたが、ここはノッてやるべく、左手にエアマイクを持つポーズをとってやった。言っておくが仕方なくやっただけで、普段の俺はこんなことを進んでしない人種だ。
「ここで歌って、気分を発散したいところだが、それだと話の論点がズレる」
まくし立てるように一気に喋りかけたのちに、エアマイクを作っていた左手を力なくおろし、大きなため息をついた。なんだろう、ドキドキとハラハラを足して二で割ったような心情は、どうにも落ち着かないものなのに、そこまで嫌じゃない。
「それは残念です。佐々木先輩の美声が聞けると思ったのに」
「……歌ったら、交際続けてくれるのか?」
蜘蛛の糸ほどの細さだろうが、望みをかけて問いかけてみた。松尾は俺の質問を聞いた瞬間、唇の端をヒクッと引きつらせる。
「佐々木先輩、なに寝ぼけたことを言ってるんですか。続けませんよ」
「俺、一応本気なんだぞ」
藁にもすがる思いで、たたみかける俺の声は、どこか弱々しいものになってしまった。
「本気と言われても――」
難しそうな面持ちで困惑する松尾に、どうしたら俺という人間を理解してもらえるだろうか。そう思いついたとき、今までのことを伝えてみようと考えつく。