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俊哉さんが社長室からフロアに戻ってくるなり、同僚のみんなはそれまでの混乱を隠すようにお祝いの言葉を口にして、あたたかくお出迎えする。私はその様子を、輪の外から笑顔で見つめた。それまで抱え込んでいた不安な気持ちを、必死になって隠すために。
俊哉さんの栄転――ここではまったく役職に就くことなく、裏方からみんなを支えて頑張っていた彼をお祝いしなければと、頬の筋肉を駆使して笑いかける。
「ちょっとすみません」
口々にかけられる同僚からのお祝いの言葉を遮り、わざわざ人混みをかき分けて、俊哉さんが私の前に現れた。
「佐々木先輩?」
みんなの手前、名前呼びせずに話しかけたら、いきなり頭を深く下げられてしまった。
「転勤の話をしなくて悪かった!」
「えっ? あ、そんなこと全然……。私は気にしてませんから」
私たちを見つめる同僚たちの視線がぐさぐさ突き刺さる中で、自分の考えを告げることに、ひどく戸惑いながら返事をする。
(職場のみんなに、俊哉さんと付き合っていることを知られているとはいえ、こうして謝られることに、いたたまれない気持ちになってしまう)
私をしっかり見つめて謝罪した俊哉さんに申し訳なさすぎて、どうしても顔をあげることができなかった。
「松尾笑美さん……」
いきなりのフルネーム呼びに驚いて、上目遣いで前を見る。俊哉さんの口元がなにかを言いかけたのに、石のような固い表情で唇を引き結ぶところが、はっきり確認できた。
「俊哉さん?」
見たことのない面持ちに、思わず名前を呼んでしまった。
「松尾笑美さん俺は……君と遠距離恋愛をするつもりはない」
「それって、どういう――」
「言葉のとおりだ。名古屋とここで離ればなれの状態で、君と恋愛しようとは考えていない」
底の見えない奈落の落とし穴に、一気に突き落とされた気分に陥った。死刑判決を告げられた罪人の気持ちって、きっとこんなふうなのかもしれない。
淡々とした俊哉さんの口調がいつもと違いすぎて、どうしても受け入れることができなかった。嫌だと言いたいのに、それすらも口にすることがかなわない。
私をまっすぐ見つめる顔は、優しさの欠片もなく、まるでマネキン人形みたいで、あからさまな拒絶を見せつけられている感じだった。
「ちょっと佐々木先輩、なに考えてんのよ。自分の栄転を機に、まっつーを捨てるつもりなの?」
同僚たちをかき分けてきた斎藤ちゃんが、俊哉さんに手を伸ばそうとしたら、奥からその手を止める加藤先輩が現れた。
「斎藤、先走るな。落ち着けって」
「こんなの落ち着いて見られないって。離してよ」
「駄目、これはふたりの問題だ。口を挟むべきじゃない」
加藤先輩らしくない強い口調で言い放ち、斎藤ちゃんを羽交い締めにする。
「加藤、やめ」
「君をここに残して、俺だけ名古屋に行くことをしたくない!」
斎藤ちゃんが加藤先輩に反論しかけた言葉をかき消した俊哉さんのセリフで、虚を衝かれたようにフロアが静まり返った。
「ある人に言われたんだ。恋愛もビジネスと同じで、ちょっとしたタイミングを逃すと、気づいたときには駄目になるって。今は、そのタイミングじゃないかと思う。だから――」
言いかけて、ふたたび口を噤んだ俊哉さんは両手に拳を作り、一旦俯いた。表情は相変わらず能面みたいな感じで、逆に心配になる。
「笑美、俺と結婚してください!」
俯かせていた顔をあげた直後に、意を決して告げた俊哉さん。あちこちで「きゃっ!」や「すごい」などの声が発せられる。
いきなりのプロポーズで、頭の中が真っ白になった。さっきまでのショックがどこかに飛んでいった衝撃も相まって、膝がガクガク震えそうだった。
「笑美、返事をしてくれ。俺の嫌なところがあるなら、どこが駄目なのか言ってほしい。直せるところは、進んで直してみせる!」
「俊哉さんの駄目なところなんて、どこにもないですよ。むしろ私のほうがダメダメ過ぎて、俊哉さんに相応しくないと思うんです」
「笑美に駄目なところなんてない。どんなときでも笑顔で仕事をして、フロアにいい雰囲気を作ることができるじゃないか。それは俺にはできないし、ほかのヤツだってできない、すごいことなんだぞ」
「でも……」
俊哉さんと結婚、人生を共にする――ついこの間から付き合ったばかりだけど、俊哉さんを深く知れば知るほど、本当に素敵な人だということがわかった。そのせいで、ごくごく普通の自分が交際相手に相応しいのか、ときどき迷いが生じていたのも事実……。
「でも私は、自分に自信がありません。俊哉さんの隣に並ぶには、もっともっと頑張らないといけないと思うんです」
「まっつー! このまま佐々木先輩と離れて、ここで頑張れるの?」
自信のなさを口にした途端に、斎藤ちゃんが核心に迫るような問いかけをした。両腕を加藤先輩に押さえられているというのに、そこから抜け出そうと抗う姿に、なぜだか目を奪われる。