「まっつー、佐々木先輩から異動の話を聞いてた?」
斎藤ちゃんの言葉が耳に入っているのに、頭が真っ白になってしまって、反応することができない。それなのに俊哉さんの話題を、耳でキャッチしてしまう。
『今月いっぱいでって、佐々木はあと半月しかいないのに、どうやって調整するんだよ』
『マジでヤバくね? 千田課長がめんどくさそうな仕事ばかりを選んで、佐々木に押しつけていただろ。それらを、俺らに分配するのが目に見える』
『加藤とのダブルワークをこなしていたのだって、誰が代わりにするんだ?』
『フロアの癒やしが、またひとつ消えてしまう!』
「まっつー、しっかりして。大丈夫?」
いつもより背中を強く叩かれたおかげで、我に返ることができた。
「斎藤ちゃん……。私、佐々木先輩から、なにも聞かされていない」
「まさかヤり逃げなんてことを、ポンコツ先輩がするわけないだろうけど、なにも伝えていないことについて、私からひとこと言ってやろうか?」
しゅんとして落ち込む私を元気づけるように、斎藤ちゃんがわざとおどけてくれる。その優しさに甘えたかったけれど、なにも言わずに首を横に振った。
「斎藤ちゃん大丈夫だよ。私から直接、佐々木先輩に聞かなきゃ。大事なことだしね」
「そっか、わかった。あ、加藤ちょっといい?」
フロアに単体で戻って来た加藤先輩を、斎藤ちゃんが手招きしてこちらに呼ぶ。ざわめくフロアの様子を目にして、驚きながら急いで駆け寄ってきた加藤先輩に、私から訊ねてしまった。
「さっきフロアから、佐々木先輩と出て行きましたよね?」
「ああ。ちょっと個人的な話があって。でも途中で社長秘書が佐々木先輩を呼び出しちゃって、話がとん挫した。なんかフロア全体がざわめいているけど、なにかあったのか?」
チラッと一瞬だけ斎藤ちゃんを見てから、背後のフロアに目をやる加藤先輩。斎藤ちゃん自身もなんとなくギクシャクしている様子で、ふたりの間になにかあったことを悟ってしまった。
(まさかとは思うけど、澄司さんを虐めぬく3Pが、本当に展開されたわけじゃあないよね? 酔った勢いでそんなことをしそうじゃないふたりだけど、お酒の力ってなにがおこるか、わからないところもあるし)
「加藤先輩、あのですね――」
気を利かせて私から俊哉さんの栄転と、それまでにここでの仕事の調整などをしなければならないことを教えた。
「ヤバいだろ。佐々木先輩がいなくなったら、その代役を誰がやってくれるんだ。俺ひとりじゃ無理……」
顔を強張らせて呟いた加藤先輩を同情しながら見つめていたら、斎藤ちゃんがいきなり私の前に出て、加藤先輩の額を叩いた。
「いった!」
「なに弱音吐いてんのよ。本来なら、ひとりでしなければいけない業務でしょ。いい加減に腹をくくって、やってやろうって気にならないわけ?」
私の前に佇む斎藤ちゃんの表情はさっぱりわからないものなれど、激しい口調が怒っていることを示していた。明らかに叱られたはずなのに、弱気になっていた加藤先輩の顔が、一気に赤くなっていく。
(斎藤ちゃんに叱られて、恥ずかしさのあまりに赤くなったのかなぁ。涙目になってるし、自信なさげにおどおどしてるところを見ると、なんとなく違う気がする)
「俺が頑張ったら、その……」
「頑張るのは当然のことでしょ。加藤だけじゃなく、みんなが大変なんだからね!」
吐き捨てるように言い放ち、目の前を去って行く斎藤ちゃんの横顔は、やっぱりらしくないように思えた。
「俊哉さん……」
振り返りながら、フロアの様子を眺める。
仕事の調整に混乱している同僚たちの姿は、私の心の中を具現化しているように見えた。
名古屋に俊哉さんが転勤したら、遠距離恋愛することになる。格好いい俊哉さんを見て、転勤先の女子社員がときめかないわけがない。メガネのフレームを光らせながらパソコンに向き合い、仕事に集中する俊哉さんは、本当に素敵だから。
「離れて不安にならない、彼女なんていないよ」
私の呟きは、フロアの喧騒にかき消されてなくなってしまった。言葉にできない不安も、同じように消すことができたらいいのにね。