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優しさに溺れる夜3

***


『今夜は、寝かさないかもしれないぞ?』という俊哉さんのセリフが、お風呂に入ってからも、頭の中でずっとこだましていた。


(寝かさないって、一晩かけてトランプするわけないし、テレビを見続けるなんて、もっとないよね。俊哉さんのしている仕事の話なんて、さっきまでの会話でもなかったんだから、絶対にありえないわけで――)


 残された選択肢は一択しかない。まだ見ていない、扉の閉ざされた寝室――そこでおこなわれるであろう行為に胸が弾みすぎて、長湯できそうになかった。


 会社の階段下でされたキスだけで、すごく感じてしまって、どうにかなりそうだったのに、それよりも進んだことをされるのを考えるともう、なんていうか表現できないむず痒さというか、モヤモヤというか、ムラムラというか。


 とにかく落ち着けなかったこともあり、お風呂を早々に出る。のぼせるほどお湯に浸かっていないのに、あれこれ考えすぎてしまって、頭の中はすでにのぼせた状態だった。


「あれ、これはいったい?」


 あらかじめ下着と一緒に、部屋着を持参していたのだけれど、用意していた服の上に、謎の物が置かれていた。


 体の水滴を丁寧に拭い終えてから、手に取って謎の物を広げてみると。


「こっ、こここここ……これはっ!」


 思わず大声をあげそうになり、慌てて口を噤んだ。それを眺めるだけで、顔が赤くなるのがわかる。


 謎の物の付与を、俊哉さんに施されてしまった。『パジャマはいらないからな』の意味が、目に見えて理解できてしまう。俊哉さんがいるリビングとそれに、意味なく視線を送ってしまった。


(俊哉さんの彼シャツぅ~! これを私に着ろというの!? ちょっと待って、シャツの丈の長さはどれくらい……)


 恐るおそる体に合わせてみると、丈は私の太ももの真ん中くらいの長さがあった。ギリギリじゃなくて、本当になによりだけど。


「俊哉さんのシャツを羽織るだけで、なんか緊張しちゃうな。しかも着てるところを見られるのも、恥かしい感じがするし」


 ぶつぶつ独り言を言いながら、自分が着ているところを、洗面台の鏡でしっかり確認してみた。私の体形にはぶかぶかな俊哉さんのシャツ。当然萌え袖になっているし、あまり見せたくない両足も、いつも以上に露出した状態だった。


 濡れた髪をそのままに、諦めた気持ちを抱えて、俊哉さんのいるリビングに顔を出す。


「笑美、ちゃんとあたたまったのか?」


 ソファに座ってなにかを読んでいた俊哉さんが、にこやかに近づいて、しげしげと私を眺める。その視線が、体中にチクチク突き刺さった。


「あたたまりました……あの、置いてあったシャツをお借りしましたけど」


「俺よりも似合ってる。そのシャツ、身に覚えないか?」


 そう言って私の手を引き、ダイニングテーブルの椅子に座らせる。座ると着ているシャツの丈が短くなるので、すごく恥ずかしくて堪らない。裾を引っ張って、太ももをなるべく見えないようにした。


「うーん、すみません、覚えてないです」


 赤とオレンジの中間色だけど、派手すぎない彩色のシャツ。大きいのに着心地がとてもよく、俊哉さんの香りも漂っていて、まるで抱きしめられている感覚があった。このシャツについて、あれこれ考えても埒が明かないと判断した私は、すぐさま降参を申し出た。


「正解は、笑美に路上でアプローチされたときに着ていたシャツ」


「あのときの! カジュアルな服装の俊哉さんをはじめて見ることができて、かなり感動したんです」


「その割には、俺が着ていた服を覚えていなかったみたいだけど?」


 言いながら濡れた私の髪を指で梳き、あらかじめ用意していたのか、ドライヤーをあててくれる。


「俊哉さんに髪を乾かしてもらうなんて……」


 どこかプロの美容師のような手さばきで、私の髪に温風をあてる俊哉さんの指先が頭に触れるたびに、心臓が跳ねるようにドキドキした。


「そんな格好させて、笑美に風邪を引かせたら、俺のせいになるからさ。とっとと乾かすぞ」


「はい。お願ぃします」


 私のことを考えて、常に優しく行動してくれる俊哉さん。ときどきこうして強引にされるところも、惹かれずにはいられない。だから素直に従ってしまう。


「俺と同じシャンプーを使ってるはずなのに、どうしてだろうな。まったく違う香りになってるのは」


「俊哉さん?」


 ドライヤーの音でなにを言ってるのか、ところどころしか聞こえない。


「ほしくてたまらなくなる……」


 聞き逃したくなかったので、振り返って耳をそばだてた。すると、頬を染めた俊哉さんと目が合う。


「笑美っ、寒くないか?」


 メガネの奥の瞳を泳がせながら問いかけた俊哉さんに、「大丈夫です」と答えたら、ドライヤーがオフにされた。


「大まかに乾かしたが、仕上げは自分でやってくれ。その間に風呂に入ってくる」


 俊哉さんは、持っていたドライヤーを私に押しつけるように手渡すと、逃げる感じでバスルームに消えてしまった。その姿が見えなくなったというのに、なにかにぶつかる音まで聞こえてきて、らしくない俊哉さんのドジっぷりに笑ってしまったのだった。

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