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そんなに長風呂をしたわけではない。むしろ、シャワーを浴びていた時間のほうが長かったと思う。澄司さんが触ったところを念入りに洗ったことが、私をそうさせたのだけれど、お風呂からあがって最初に目に留まった現状に、ひどく戸惑ってしまった。どれくらいの時間がかかったのかを、改めて考えさせられるくらいに。
「あの、佐々木先輩なにを?」
いつ帰宅したのかわからない佐々木先輩に、恐るおそる声をかけた。キッチンでせわしなく動いている大きな背中――耳に聞こえる揚げ物の音やいい匂いで、なにかを作っていることが明白なれど、いきなりな展開に訊ねる言葉が詰まった。
「肩までお湯に浸かって、しっかりあたたまったのか?」
振り返らずに問いかけた佐々木先輩は、まるでお母さんみたいなことを口にする。のぼせるのも嫌だったこともあり、しっかりあたたまったことを確かめられたら困るなぁと、考えながら返事をする。
「ちゃんとあたたまりました……」
「そうか。勝手にキッチン借りた。もうすぐ夕飯できるから、そこに座って待ってろ」
「佐々木先輩に夕ご飯を作っていただくなんて、とても畏れ多いです!」
両手に拳を作って豪語すると、佐々木先輩は首だけで振り返り、冷凍庫を開けたときに出てくる、冷気を含んだまなざしで私を見下ろす。
「あのさ、松尾を助けるのに体力を使ってしまって、かなり腹が減ってるんだけど」
「あ……、はぃ。そうですね、あれは確かに体力を使います」
佐々木先輩が抱えているであろう仕事を終わらせて、澄司さんの実家まで足を運び、私から奪取するのに汗だくになりながら、力技を駆使していた。お腹がすかないわけがない。
「松尾もいろいろあって疲れてるだろ。こういうときくらい、恋人の俺に甘えてほしい」
持っていた菜箸をキッチンに置き、私の肩を掴んでローテーブルの前に強引に座らせる。すかさず目の前に差し出される冷たいお茶に、ふたたび恐れおののいた。
「佐々木先輩、いろんなことでお世話になりっぱなしで、本当にすみません」
「すみませんじゃなく、ありがとうって言ってほしい」
「でも……」
「俺は松尾の彼氏で、大事な彼女に尽くしたいと思ってるから、料理を作っているだけ。まぁ俺の腹の具合も、かなり関係しているけどさ」
お腹を擦りながらカラカラ笑う佐々木先輩を前にしたら、笑わずにはいられなかった。言葉どおりに、彼氏に甘えることにする。
「じゃあ、思いきって甘えちゃいますね。佐々木先輩ありがとうございまーす」
「あとさ、俺は松尾の彼氏なんだから、いい加減に名前で呼んでほしいなぁ」
メガネのフレームをあげながら、このタイミングでちゃっかりおねだりをする彼氏に、ぶわっと頬が赤くなったのがわかった。
「それなら佐々木先輩だって、私の名前を言ってみてくださいよ」
「うわっ、そうやって切り返してくるなんて、松尾ってば意地悪な彼女!」
佐々木先輩の頬も私と同じように赤くなり、笑顔が思いっきり引きつったものになった。
「ほらほら早く、言ってみてくださいってば!」
おねだりした私の視線を避けるように、真っ赤な顔を横に向けて、わざとらしく手を叩きながら呟く。
「あ、ヤバい~。揚げ物から目を離しちゃいけないんだった!」
なんて言ってうまく誤魔化し、私の前から逃げる大きな背中に向かって、思いきって告げてあげる。
「しゅん……しゅんやさ、んっ!」
たどたどしさがセリフになって表れてしまったけれど、私の声に反応した佐々木先輩が耳の先まで赤くして、メガネをズリ下げながら振り返る。
「な、なんだ、松っ…え、ぇ笑美ぃ?」
私以上にたどたどしく答える佐々木先輩に、現実を教えてあげなければならないだろう。
「揚げ物が焦げてるかもです」
その言葉に佐々木先輩は慌ててコンロに近づき、フライパンの中を覗き込んだ。
「ゲッ! あー、いい感じにきつね色になってる……」
菜箸でひょいと摘みあげて、中身を見せてくれた。本人はきつね色と称したそれは、実際はかなり濃いめの茶色になってるから揚げで――。
「カリカリに揚がって、美味しそうですね……」
黒糖のかりんとう色になってるから揚げを、自分なりに持ちあげた。
「この揚げ具合が、笑美に対する気持ちとリンクしているということで、きつね色のは俺が食べる」
さらっと自然に私の名前を告げた俊哉さんに負けないように、私も真似をしてみる。
「俊哉さん、きつね色のそれ、たくさんあるなら私も食べたいな」
「ンンンっ! だだだ駄目だ、これは俺専用。笑美は美味しそうなほうを食べてくれ」
さらに顔を赤らめた俊哉さんの戸惑いっぷりを目の当たりにして、お腹を抱えながら笑ってしまったのだった。