「佐々木さん、無駄なことはやめてください」
「今すぐ松尾から降りてくれ、頼むから!」
私の上から澄司さんを降ろそうとしている佐々木先輩。澄司さんは絶対に降りようとせずに、佐々木先輩の両手を掴んだまま放さない。互いの両手で押し合いしている様子は、力が拮抗しているように見えた。
「綾瀬川、好きな女を泣かせて、なにが楽しいんだおまえは!」
押しから一転、ぐいっと腕を引っ張った佐々木先輩が、澄司さんの体勢を崩したところを狙い澄まして頭突きする。
「痛いぃっ!」
澄司さんは額を押さえながら、ベッドから転がり落ちた。
ふたりのやり取りを心配しながら見ていた私に、佐々木先輩は来ていたスーツのジャケットをかけて、みんなの目から隠してくれた。しっかり涙を拭ってから起き上がり、佐々木先輩のジャケットで体を隠しつつ、目の前の様子を眺める。
「悪いが、松尾の服を探してくれないか?」
頬を朱に染めて、私を見ないように首をしっかり横に向けて、扉の前に立っている女のコに話しかけた佐々木先輩の顔を、しっかり見つめた。
安心感のため、ふたたび溢れてきた涙のせいで歪んでいたけれど、佐々木先輩を見つめずにはいられない。元彼の登場で怖い思いをしたときも、ここに連れられて目が覚めた瞬間から、逢いたくて逢いたくてたまらなかった。
「わかりました。お兄ちゃん、手錠の鍵はどこなの?」
澄司さんをお兄ちゃんと言った妹さんが、備え付けのクローゼットに近づきながら問いかけた。痛む額を押さえて床にしゃがみ込む澄司さんは、なにも答えようとしない。
佐々木先輩が小さな舌打ちをしながら、澄司さんに近づく。しゃがんでいるのを立たせようとしたのか手を伸ばしたら、バシッと大きな音が出るくらいに佐々木先輩の手を叩いた。
「鍵、見つけました。そこの机の引き出しから――」
クローゼットから私の服を出してくれた妹さんが、傍にあった机の引き出しを開けて見つけてくれたらしい。
「笑美さんを解放されてたまるか!」
聞いたことのない怒気を含んだ声を発した澄司さんが、ふらつきながら立ち上がった。そのまま妹さんに突進しかけたところを、佐々木先輩が羽交い締めにして、行かせないようにする。
「早く松尾の手錠を外してやってくれ!」
「はなせ! 僕にこんなことをしていいと思ってるのか?」
「綾瀬川、誰かに無理やり拘束される気持ちを思い知れ。すごく嫌なことだろう?」
ふたりが言い争いしている間に、妹さんが手際よく手錠を外してくれた。
「ありがとうございます……」
「これ、クローゼットに入ってた服と鞄。貴女のですよね?」
「はい、助かります」
妹さんは私に衣服を手渡したあと、佐々木先輩と澄司さんを悲しげな目で見つめる。
「兄は貴女に酷いことをしました。このまま警察を呼びますか?」
いそいそ着替えていると、やけに落ち着いた口調で問いかけられてしまった。
「警察?」
「呼ぶに値する犯罪行為を、兄はしましたよね?」
言いながら視線を移動して、私をじっと見つめる。肉親を警察に渡さなきゃいけない家族のつらさが、瞳に表れていた。そのつらさを見た上で、自分のことをしっかり考えてから答えを出す。
「妹さん、ごめんなさい。本当は呼んだほうがいいとは思うんだけど、その……。事情聴取でされたことを口にしなきゃいけないのがつらすぎて、耐えられないと思う」
元彼の事件のときになされた事情聴取でさえも、かなり厳しかった。それ以上のことをされてしまった今回の件は、すぐにでも忘れてしまいたいくらいのことなので、事情聴取自体無理な話だと判断する。
「わかりました。では私が直接お兄ちゃんに、制裁を加えます」
妹さんは外した手錠を手にして、澄司さんに近づく。
「すみません。お兄ちゃんに手錠をしたいので、腕を背中に回してもらえますか?」
「えっ? あ、はい……」
妹さんが言ったことが信じられなかったんだろう。佐々木先輩は一瞬呆けてから、羽交い締めしている腕を手錠がしやすいように背中に回し、体で押さえつけた。
「やめろ! はなせって!」
その間も澄司さんは罵詈雑言を吐き捨てていたけれど、両手に手錠を嵌められた途端に体の力を抜き、ショックを受けた面持ちのまま、その場に膝をつく。
「松尾、歩けるか?」
着替えを終えて立ち上がったら、佐々木先輩が心配そうな表情で駆け寄って、私を見下ろした。額から汗が吹き出し、メガネもズリ下がっている様子に胸が痛くなる。
「大丈夫です。佐々木先輩、助けてくれてありがとうございました」
「笑美さん、行っちゃ嫌だ!」
私のお礼の言葉を遮るように、澄司さんが叫んで立ち上がろうとした。寸前のところで妹さんが足を引っかけて、床に押し倒す。妹さんの大胆な行動力に、佐々木先輩とふたりで驚き、その場に立ちつくしてしまった。
「お兄ちゃん、いい加減にしなよ。どんなに頑張っても手に入らないものが、この世にはたくさんあるの。たとえさっきの続きをしたとしても、あの人の心は手に入らないんだよ」
「手に入らないのなら、入る方法を考えればいいだけのことなんだって!」
澄司さんはミノムシのように床を這いつくばりながら顔をあげようとした瞬間に、妹さんの足が容赦なく澄司さんの頭を踏みつけて、動きを止めた。
「兄のことは任せてください。本当に申し訳ございませんでした」
澄司さんを踏んだまま深く頭を下げる妹さんに見送られながら、私たちは綾瀬川邸をあとにした。