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「笑美さん、おかえりなさい!」
スポットライトのように夕陽を受けた澄司さんは私を見るなり、大きな声で告げた。恋人同士の待ち合わせのシチュエーションに見えてしまうそれに、これが佐々木先輩ならよかったのにと、思わずにはいられない。
「澄司さん、ありがとうございます」
「車と徒歩、どっちにしますか?」
「昨日と同じ駅に、車でお願いします……」
「わかりました。どうぞ」
澄司さん自ら助手席のドアを丁寧に開けて、柔和な笑顔のままに私の顔を見つめる。紳士的な対応を目の当たりにして、同じように微笑むことのできない私は、微妙な面持ちで車に乗り込んだ。
「佐々木さん、今朝はちゃっかり駅で待っていたんですね。笑美さんが呼び出したんですか?」
運転席に座った澄司さんが、シートベルトを締めながら軽快な口調で告げた。責める感じがないことが、逆に怖いくらいだった。
「そんな約束してませんでした」
「そっか。じゃあ僕と同じように、出待ちしていたってわけなんですね。バックミラーで見た笑美さんたち、すごく楽しそうでした」
「はあ、まあ……」
エンジンをかけてスムーズに発進する、ふたりきりの車内。会話のまったく弾まない空間の居づらさは、身の置き場がない。
「僕もメガネをかけようかなぁ」
「え?」
「少しは、笑美さんの気が惹けるかなぁと思ったんですけど。ふふっ、なにを言ってるんだコイツはってその顔、結構かわいいです」
運転中だというのに小さく笑った澄司さんの左手が、私の頬にそっと触れる。その手をやんわり払うと、素早く右手を握られてしまった。
「澄司さん……いい加減にしてください」
「いい加減にしてほしいのは、笑美さんですよ。小さくて華奢な手をこうして握ってるだけなのに、勃っちゃいました」
「ぶっ!!」
瞬間的に上がった危険度に、ゾクッとしたものが背筋を走った。慌てて手を振り解き、澄司さんから距離をとろうと鞄を胸に抱きしめて、シートの隅っこに体を寄せる。
「あーあ、このタイミングで信号が赤か。まいったなぁ……」
まいったと言ったのに、その感じが全然感じられない澄司さんの口調に違和感を覚えたけれど、危険を敏感に察知しているゆえに、気持ちよりも手が先に動く。
急いでシートベルトを外して、ドアハンドルを動かした。いつもならすんなり外に出られるのに、虚しく前後するだけで開く気配すらない。
「笑美さん、慌てて逃げようとしても無駄ですよ。チャイルドロックをかけているので、絶対に開きません。僕が外から開けない限りはね」
「なっ、なんでそんなことするんですか」
「とりあえず諦めてください。笑美さんがシートベルトをしないと、僕が警察に掴まっちゃいますので」
怯えまくる私を尻目に、澄司さんは平然としたまま助手席のシートベルトを引っ張り、私を無理やり固定した。
「笑美さんを閉じ込めたい僕の気持ち、わかってほしいんですけどね」
車が走り出したと同時に理由を言われても、危機感で体の震えが止まらなかった。
「外界から閉ざされた、ふたりきりのこの特別な空間。笑美さんの香りや体温を傍で感じながら、吐き出す呼吸のすべてを、僕のものにしたいんです」
(無理無理無理! できることなら息を止めたいっ! そして早くここから脱出したいっ!)
「僕を拒絶する笑美さんのその目、すごくいい。猫なで声をあげて、媚びを売る女のコなんかよりも、笑美さんが一番です」
「きききっ、気持ち悪い!」
思わず、今の現状が口を突いて出てしまった。言った瞬間しまったと悟ったものの、あまりの気持ち悪さに告げずにはいられなかった。
「気持ち悪い……。傍から見たら、そう思うのは普通でしょうね」
顎に手を当てて前を見据える澄司さんの姿は、いつもどおりなのに、口にする言葉がいちいち恐怖を煽るものになる。
「笑美さんに罵られたときだけ、心がキュッと締めつけられるんです。不思議ですよね」
「え、駅前ですよ。ここで降ろしてください!」
「もう少しだけ罵ってほしいので、ご自宅までお送りします」
(ここで拒否すれば、澄司さんを無駄に悦ばせるだけになる。とにかく無言を貫こう!)
こうして変態に目覚めてしまった澄司さんに、自宅まで送られることになった。その時間の長かったこと! 私からの罵倒を待つ澄司さんの誘導尋問に困難を極めたけれど、とにかく無表情で無言を貫き、すべてスルーした。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。勃ってるとはいえ、人目のつくところで、笑美さんを襲ったりしません」
(これって、人目のつかないところで襲う宣言じゃないの! ガチでヤバいヤツ!)
「怯えて顔を強ばらせてる表情、なんとも言えないですね。笑美さんが感じてるときの顔と、どっちがセクシーなのかなぁ」
(そんなもの比べないで! 嬉しそうな顔して妄想するな。マジで気持ち悪い!)
「……佐々木さんと一緒にいるときの笑顔、どうしたら僕は見ることができるんでしょうね」
それは自宅前に到着した途端に、とても小さな声で告げられた。
「マンションに到着したんですから、降ろしてください」
さっさとシートベルトを外し、鞄を胸に抱いてすぐに降りられるようにスタンバイする。横目でそれを確認した澄司さんは、ごねることなく運転席から腰をあげて外に出ると、助手席のドアを開けてくれた。
「ありがとうございました」
車から降りて一応礼を言い、踵を返して逃げるようにマンションに向かいかけた瞬間、
「笑美!」
声のした方を向くと、忘れたくても忘れられない声の持ち主が、夕日を背負って現れた。その存在を目の当たりにしたと同時に、震える唇で彼の名を呼ぶ。
「弘明…なんで、なんでここに?」
胸に抱きしめていた鞄が、手からするりと落ちて、無機質な音を立てながら地面に転がる。
「やっと見つけた。置手紙を残して、ウチを出て行くなんて驚いたんだぞ。もう怖いことはしないから、やり直そう?」
夕日をバックにしているせいか、表情が暗くて見えないせいで、余計に恐怖心が増していく。
「や……」
固まって動けない私の前に、大柄な澄司さんが立ちはだかった。
「笑美さんの元彼さんですか? 残念ですけど、今は僕と付き合っているので、復縁は無理です。諦めてください」
「なんだと!?」
「ただで諦めてとは言いません。一千万円でどうでしょうか?」
「は? 一千万?」
「そうです。僕が所有する株やそこにある車など、財産をすべて売れば、それくらいの額を貴方にお支払いできるという話です」
「笑美がおまえみたいな、金ヅルを捕まえるとはな。喜んでその話――」
(どうしよう。ありえない金額を提示して、澄司さんは私を縛りつけようとしてる……)
「受けるワケねぇだろ、バーカ! 黙って笑美を寄越せ!」
低レベルと言える最低な者同士の争いに、思わず頭を抱えた。自分ではどう考えても対処できない現実から、目を背けたくなる。
「もう嫌だ……」
絶望で嗚咽を漏らしかけたそのとき、パチンという金属音が辺りに響く。嫌な予感がして澄司さんの背後から窺い見ると、弘明がサバイバルナイフを手にしていた。
「そこを退いて、とっとと笑美から離れろよ」
「笑美さん、遠くに逃げてください」
「ひゃ110番……警察に連絡」
ポケットからスマホを取り出し、急いで電話をかけようとした。
「そんなのいいから、早く逃げて!」
私の体を押して逃がそうとした澄司さん目がけて、弘明がナイフを振り上げる。もしかしたら、私を狙ったのかもしれない。刃先が夕陽に当たり、怖いくらいに光り輝いたのを目にしたら、足が竦んで動けず、呼吸すらままならなくなった。
まるで幕が降りたように、目の前が真っ暗になる。次に意識を取り戻したときは、見知らぬ天井が目に入った。