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うまくいかない日々の果てに――8

***


 佐々木先輩と無事にLINEで繋がることに成功したので、早速メッセージを送ってみる。


『お疲れ様です。これから帰ります。残業あまり無理しないでくださいね』


 打ち終えたのちに送信し、すぐにスマホをしまって、フロアをあとにした。


(今日は電車で帰らないで、下車する駅に車で送ってもらおう。澄司さんと顔を逢わせる時間と、手を繋いだりという直接的な接触を少しでも減らしたい)


 乗っているエレベーターが一階に到着したので、開閉ボタンを押して乗っていた人が出てから降りる。人混みの最後尾を歩いた瞬間に、すごい力で横に引っ張られた。


「!?」


 声を上げる間もなく引きずり込まれたのは、エレベーター横にある階段下の小さなスペースだった。


「間に合った……」


 頭上から聞こえた声に胸を熱くすると、私を抱きしめる大きな体から汗ばんだ熱気が、じわりと伝わってきた。


「佐々木先輩?」


 仰ぎ見る彼の姿は、だらしなくメガネがズリ落ち、額から汗が滲み出ていて、荒い呼吸を何度も繰り返す。普段との違いに、なんて声をかけていいのかわからず、息を飲んで見上げ続けた。


「悪い、日頃の運動不足がたたってる……。いっ、急いで階段を降りまくったせいで、息が切れてて、ぅ、うまく言葉にならない」


(さっき送ったLINEを見て、急いで追いかけて来てくれたんだ――)


「佐々木先輩、あの……」


「松尾の酸素、少しわけてくれ」


「んっ!」


 私の返事も聞かずに押しつけられた唇は、ちょっとだけカサついていた。その感触はすぐになくなり、角度を変えてふたたび押しつける。私を逃がさないようにするためなのか、佐々木先輩の大きな手が後頭部を支えた。やがて厚みのある舌が差しこまれ、感じさせるように口内を蠢く。


「うっ…ンンっ」


 甘やかで情熱的なキスだった。静まり返るスペースに、佐々木先輩のせいで卑猥な水音が鳴る。ゾクッとするその快感に立っていられなくて、大きな体にしがみついたら、肩にかけている鞄がズリ落ちてしまう。


「松尾、持ってる花が潰れてる」


 佐々木先輩は私が持っているガーベラの花びらを、愛おしそうに指先で撫でた。


「おい、大丈夫か?」


「大丈夫じゃないですよ。こんなところで、あんなキスをするなんて」


 千田課長に社内で接触しないように注意されているハズだというのに、佐々木先輩がこんなに大胆なことをするとは思ってもいなかった。


「人目のつかない社内は、俺にとって社外になるからな。別にかまわない」


 しれっとすごいこと言いながら、メガネをかけ直した佐々木先輩の顔はどこか得意げで、その感じがいたずらっ子みたいに見えるのは気のせいじゃない。いろんな表情を見せてくれる彼を、もっと眺めたいと思ってしまった。


「そんなの屁理屈……」


 上目遣いで私が文句を言っても、いたずらっ子の佐々木先輩は簡単に覆すだろうな。


「わかってる。そんな屁理屈を作ってしまうくらいに、松尾に触れたい気持ちが勝ってしまったんだ。アイツにこの花を贈られたときに見た松尾が、その……」


 佐々木先輩が触れている指先に力が入ったのか、花びらが少しだけ変形する。


「すごい似合ってるなと思ったら、悔しくなった」


 私の手からガーベラを抜き取ると、一瞬耳元にかけてから離し、肩にかかっている髪の毛を梳きながら、飾るように耳にかけてセットする。


「ほら、やっぱり似合ってる」


「そんなこと……」


「松尾は見えないから、わからないだろ。本当に似合ってる」


 ガーベラの茎が長いのですぐに外されたけれど、佐々木先輩が梳いてくれた髪にはそのときの感触がまざまざと残っているため、妙な気分を引きずったままだった。


「アイツが一輪だけなら、俺は花束にして松尾にプレゼントしてあげる」


 言いながら差し出されたガーベラを、やんわりと受け取る。


「花束でのプレゼント、すごく嬉しいです」


「さてそろそろ松尾を解放しないと、待ちくたびれたアイツが、千田課長に告げ口するかもしれないからな。寂しいけど、ここで見送らないといけないか」


 素早く触れるだけのキスをしてから、私が落とした鞄を拾い上げ、きちんと肩にかけてくれる。


「佐々木先輩、ごめんなさい」


「どうして謝るんだ?」


「だってプロジェクト、私のせいで外されて……」


「ああ、そのことか。表向き外されただけなんだ。加藤ひとりで担うには負担が大きいことくらい、皆わかってる。裏でちゃっかり、ダブルワークすることになってるから安心してくれ」


「そうだったんですね、よかった……」


 佐々木先輩の言葉に、ほっと胸をなでおろす。


「だから俺のことは気にせずに、松尾は接待に励んでください。あ、性接待は絶対に駄目だからな!」


「しませんよ、そんなこと」


「俺は松尾からの濃厚な接待、いつでも待ってるから」


 明るく告げて私の背中を押した佐々木先輩に、笑顔で行ってきますを言うことができたのだった。

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