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うまくいかない日々の果てに――7

***


「笑美さん!」


 幻聴かと思った。朝から突撃お宅訪問で疲れ果てた結果、幻を聞き取ってしまったのかと思ったら、デスクで仕事をしている私の傍に本人が現れた。


 帰る時間まで、あと3時間強もあるというのに――。


「澄司さん、今朝はありがとうございました」


 突然現れたことに困惑しているせいで、仕事の手を止めてお礼を告げる私の顔は、間違いなく引きつり笑いをしていると思われる。


「いいんですよ、送り迎えくらい。それと今朝、渡し忘れてしまったものがありまして」


 言いながら目の前に、ピンクのガーベラを一輪差し出す。それは私が好きだと言った花だった。


「ぁ、ありがとうございます」


 澄司さんから手渡されたガーベラ。外国の俳優のように、顔の整った彼が手にしているときは、まるでアクセサリーのようなかわいらしさがあったのに、私が持つとたちまち、ただの草花に成り下がった。


「これから第三会議室で、打ち合わせなんですよ。えっと、佐々木さんは?」


 ガーベラから澄司さんに視線を移したら、顔をあげてフロアを見渡し、目的の人を探している様子だったので、居場所を教えようとした瞬間、


「綾瀬川さん、なんですか?」


 佐々木先輩は不機嫌な様子を一切見せずに立ち上がって、デスクから私たちを見つめる。


「あ~、そこにいらっしゃったんですね。笑美さんの席と離れていてよかった」


 フロアの座席関係に喜ぶ澄司さんの先制攻撃に、私だけじゃなく他の従業員も固唾飲んで見守るしかない。


「……綾瀬川さん、そんなことを言いに、わざわざここまでお越しいただいたわけではないですよね?」


「佐々木さんには、お詫びがしたかったんです。僕のせいで、プロジェクトを外されたみたいでしたので」


 澄司さんのセリフがきっかけで、フロアがわっとざわめく。そして皆の視線が、私に向けられた気がした。当然だろう、佐々木先輩が外された原因は、きっと私絡みなのだから――。


「綾瀬川さん、謝らないでください。現在進行形で抱えている仕事がオーバーワーク気味になっていたので、俺としてはとても助かったんです」


 そう言って丁寧に頭を下げる佐々木先輩に、複雑な気持ちに陥った。


 誰よりも早く会社に出勤し、遅くまで残って仕事をしていた佐々木先輩。抱えてる仕事の中でも、四菱商事のプロジェクトに力を入れていたことを知ってる。企画の立ち上げから打ち合わせの数々をこなして、今まで頑張っていたのに。


「佐々木さんがそれでよかったのなら、僕としても一安心です。それじゃあね、笑美さん。今日も一緒に帰りましょう。下で待ってます」


 お邪魔しましたと最後につけ加えて、澄司さんは慌ただしく出て行った。


(このガーベラに罪はないけど、誰もいなかったら握り潰して、ぐちゃぐちゃにしているかも――)


 澄司さんが去ったあとの、フロアの雰囲気は最悪だった。それを感じないようにしていても、耳が勝手にひそひそ話を捉えるため、気持ちが自然と沈んでいく。


「まっつー、いただいた花をそのままにしてたら、萎れちゃうでしょ?」


 いつの間にか傍に斎藤ちゃんが来ていて、私の腕を引っ張った。


「あ、うん……」


「だからほら、行こう?」


 斎藤ちゃんは無理やり私をデスクから連れ出し、雰囲気の悪いフロアから脱出させる。間違いなく気を遣ってくれたからこそ、ここから抜け出させたんだろうな。


「まっつー、大丈夫?」


「大丈夫と言いたいところだけど、結構しんどいかも……」


 自分のことはさておき、佐々木先輩がプロジェクトから外されたことに、胸がしくしく痛んだ。


「そんな落ち込んでるまっつーに、私からプレゼントがあります!」


 言いながら斎藤ちゃんが差し出したものは、4つ折りしたA4の紙だった。首を傾げながら開くと、中央に小さな文字で手書きされた謎の数字が――。


「斎藤ちゃん、これなに?」


「佐々木先輩のLINEのID。お昼休みに聞き出した。というか、LINEの交換をしてなかったことに『ポンコツ先輩、トロくさすぎですよ!』って、思わず文句を言っちゃった」


「あ……、昨日佐々木先輩とスマホで話をした事実だけで、満足していて聞きそびれてた」


 これって、ふたり揃ってポンコツだと思われる。


「千田課長に、社内で接触しないように言われてるんだってね。だったらなおさら、LINEは必要じゃない?」


 給湯室に向かって歩き出した斎藤ちゃんに合わせるように、そっと隣に並ぶ。


「斎藤ちゃんあのね、今朝は私のデスクにメモ紙で、置き手紙があったんだよね……」


「なにそれ、ノロケ? 誰かに見られる可能性があるのに、なんで置き手紙するかなポンコツ先輩は! すっごく危ない! そんなのが置いてあったら、私なら絶対見ちゃうよ」


 口では文句を言ってるのに、笑顔で私に体当たりしてくる。そんな彼女に明るく話しかけた。


「千田課長の命令。社内で佐々木先輩と話ができないなら、社外ならいいってことでしょ?」


「会社の人間にバレないようにね。特に梅本とその仲間たちには! アイツらに見つかったら間違いなく千田課長に告げ口して、まっつーの足を引っぱると思うわ」


 そんな他愛ない話で盛り上がりながら、ふたりで給湯室に入り、使っていない花瓶を探した。戸棚の奥にあった一輪挿しを見つけて、水を入れてからガーベラを挿す。


「斎藤ちゃんのおかげで、心置きなく佐々木先輩とLINEで話ができる。ありがとね」


「どーいたしまして。みんなの見えないところで、愛を育んでちょうだい。あ、でもほどほどにしないと、次の日の仕事に響くから気をつけて」


「ナニをほどほどにしなきゃいけないわけ?」


「言わなくてもわかってるクセに。だってポンコツ先輩ってば、ここでヤる気だったんだから」


 笑顔が眩しい斎藤ちゃんのおかげで、さっきまで抱えていた暗い気持ちが、幾分和んだことに気がつく。


「斎藤ちゃん、本当にいろいろありがと……」


 一輪挿しを胸に抱えながら告げた私を、斎藤ちゃんは微妙な笑顔のまま、ぎゅっと抱きしめてくれた。それだけでこのあとに澄司さんと一緒に帰るというストレスまでも、軽減したのだった。

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