「もしもし……松尾?」
佐々木先輩が遠慮がちな声で、私を呼ぶ。その低音が鼓膜に響いた瞬間、疲れていた体がふわりと軽くなった。さっきまで感じていた不安な気持ちが、どこかに飛んでいってしまう。
「佐々木先輩、お疲れ様です。今どこですか?」
佐々木先輩の背後から、喧騒がまったく聞こえなかったので、もう自宅に帰って来たのかなと思いながら訊ねた。
「まだ会社にいる。さっきまで斎藤の作業を手伝っていたんだ。借りを残したくなかったから。今は誰もいない会議室に引きこもってる」
「すみません。本当はその作業、私の仕事なのに」
「気にするな。松尾は言いつけられた、四菱商事の面倒な接待をしなきゃいけなかったんだし。その声は、無事に帰れたみたいだな。なにもなかった?」
私のことを気遣うセリフに、嬉しくなって口元に笑みが浮かんだ。
「大丈夫です。帰る道中、いろんなことを聞かれたのが、ちょっとだけ疲れちゃったというか」
「俺が知らない松尾の情報を、アイツに渡したってわけか」
あまり聞くことのない、拗ねたような佐々木先輩の口調に、慌てて詫びをいれる。
「すみません。澄司さんみずからいろんなことを喋るせいで、私も教えなくちゃいけない流れになってしまったんです」
「謝らなくていい、俺は知ってる。松尾は酒を飲みながら、揚げ物を美味しそうに食べていたこと。つられて俺も結構食べたしな」
「あ、はい……」
私たちが仲良くなったきっかけをわざわざ説明し、電話の向こう側でクスクス笑う佐々木先輩に安堵したら、小さな咳払いのあとに優しげな声で口を開く。
「とりあえず、なにもなくてよかった。てっきり食事でもしてるんじゃないかと思ったら、なかなか電話をするタイミングが計れなかった」
「実はさっきまで、斎藤ちゃんと電話で話をしてました。佐々木先輩にスマホの番号教えたからって」
「そうだったのか。思ったより早く対応してくれたんだな、斎藤のヤツ」
「佐々木先輩のポンコツさが心配だから、フォローしてあげるって言ってくれました」
斎藤ちゃんが告げたセリフを伝えた途端に、
「出た、ポンコツって言葉……」
思いっきりげんなりした佐々木先輩の声が、スマホからハッキリ聞こえた。
(――斎藤ちゃん、佐々木先輩をどんだけポンコツ呼ばわりしたんだろう? 結構遠慮なく、ズバズバものを言うからなぁ)
「佐々木先輩、大丈夫ですか?」
「ああ。千田課長の妨害の恐れはあるが、口うるさい斎藤のフォローがあるみたいだし、松尾がアイツにとられないように、いろいろ頑張ることにする」
げんなりした口調から一転した、艶っぽい声色の変化を、スマホからクリアに聞きとれてしまったゆえに、訊ねずにはいられない。
「いろいろ頑張るって、なにを頑張るんですか?」
「松尾のその感じ。内容がわかってて、わざと俺に聞いてるだろ?」
まるで耳元で語られているようで、妙に心がざわついてしまう。
「本当にわかりません!」
佐々木先輩とイチャつく感じで、お喋りすることができるなんて、全然思わなかった。澄司さんと違って気を遣わなくていいし、なにより自然と会話が弾む。何気ない会話なのに、すごく楽しい。
「俺としては一気に、松尾との距離を縮めたいんだけど?」
「ナニをして縮めるつもりなんですか。怖いなぁ」
「怖くない、大丈夫。優しくするから」
(優しくするって佐々木先輩ってば、本当にナニをする気なんだろう……)
「それ、会社でしないでくださいよ!」
「わかってる。斎藤に散々注意されたし……。それじゃあ、また明日」
会話が続きそうな感じだったのに不自然な口調で、唐突に電話を切られてしまった。おかげで返事をする間もない。
「また明日か……。電話を切ったばかりなのに、また話がしたいなんて、ワガママって思われるかな」
ブツブツ言いながら、佐々木先輩の番号をスマホにしっかり登録した。早く明日にならないかなぁと、意味なく微笑みながら――。