***
今日一日いろんなことがあったせいと、疲労を抱えたメンタルのまま、澄司さんの相手をしたことでさらに疲れ果て、自宅マンションの扉を閉めた瞬間、玄関だというのにその場に崩れ落ちてしまった。
「疲れた疲れた~! もうなにもしたくないよ……」
誰もいないことをいいことに、ひとしきり愚痴を吐きまくってから、やっと家の中に入る。肩にかけていたバッグをいつもの場所に置いて、室内着に着替えようとしたとき、普段は鳴らないスマホが私を呼んだ。
「珍しい、誰からだろ?」
ひとりごとを呟いてディスプレイを見たら、斎藤ちゃんからだった。
「もしもし斎藤ちゃん、今日は先に帰ってごめんね」
明日の会議の資料作りをふたりでやる予定だったのに、千田課長の命令で帰ることになってしまい、ひとりで準備をさせてしまった手前、開口一番に謝った。
『気にしないで。上司命令を優先しなきゃならないまっつーのほうが、私よりも大変だったでしょ?』
自分を気遣ってくれる友人の優しい言葉が、疲れた体に染み渡る。目尻に涙が浮かびそうになるくらいに。
「会社の真ん前で澄司さんが待っていて、車で送りますって言われたんだけど、すぐに断ったんだ。あんな感じで待たれたら、ほかの社員の目も気になっちゃうよ」
『断って大丈夫なの? あとから千田課長に文句を言われるんじゃない?』
「そうならないように、澄司さんが先手を打ってくれた。車で帰るよりも、徒歩と電車で帰ったほうが、一緒にいられる時間が長くてラッキーだって」
『さすが! イケてる男は、言うことがひと味違うねぇ』
斎藤ちゃんのセリフで、澄司さんとさっきまで一緒にいたことを思い出す。
「こうして一緒に歩いて帰ることができて、すごく嬉しいです」
私の愛想笑いとは比較にならない、澄司さんの眩しい笑顔に、「そうですか」と短く返答する。
駅までは歩いて10分ほどの距離。ほかの会社の退勤時間も相まってか、歩道には帰り人が適度に歩いており、すれ違う人がそろって私たちを見た。
(澄司さんは背が高いだけに、異様に目立つよね。しかも芸能人並のイケメン。そんな人の隣に私がいることは、違和感しかないだろうな)
「笑美さんの好きな食べ物ってなんですか?」
「好きな食べ物?」
唐突な質問に隣を仰ぎみたら、エメラルドグリーンの瞳を細めながら、私に向かって嬉しそうに語りかける。
「僕はカレーが好きなんです。店によってカレーの風味や使われているスパイスが、全然違うんですよ。あちこち食べ歩きするのが、結構楽しくて」
ここまで説明されたゆえに、私が答えないわけにはいかないので、視線を前に戻しつつ口を開いた。
「私は唐揚げが好きです」
「あ……から揚げ美味しいですよね。もも肉を唐揚げしたものはジューシーさがあっていいですけど、胸肉を揚げたものも肉の弾力や旨みを感じられますし。どっちも甲乙つけがたいかな」
ここまでテンポよく会話をしていたのに、妙な間があったことに焦って、頭に浮かんだものを告げてしまう。
「チーズささ身の揚げたものも好きです」
ポツリと呟いたひとことに、澄司さんが私の顔をいきなり覗き込む。
「それに大葉がトッピングされていたら、また風味が変わって美味しいですよね」
サラサラの髪が夕日を浴びて、金髪のように光り輝いた。すごく綺麗だと思うけれど、ときめきを感じることはない。
「……はい。ムダにお酒が進んじゃいます」
顎を引いて間近にある顔と距離をとったら、澄司さんは満面の笑みのまま元に戻す。
「笑美さんはいける口なんですね。今度一緒に飲みに行きませんか?」
お腹が空いていたせいで、思わず会話に食いついてしまったことに気がつき、しまったと思った。
「そうですね……。そのうちにでも」
(自分から食事ネタを提供したら、誘ってくださいと言ってるようなものじゃない!)
「から揚げの美味しいお店を探しておきます。楽しみにしていてください」
そのあとも私のプライベートを探るような質問が続き、うまくかわしている内に駅に到着した。
「澄司さん、ここまでありがとうございました」
ぺこりとおじきをして、そのまま帰ろうとしたら、「ご自宅まで送ります」と告げられてしまった。
「駅までで充分です。ひとりで帰れますので」
両手を使って大丈夫をアピールしてみたのに、澄司さんは首を横に振る。
「これから電車に乗ったら、この人混みの中に、笑美さんを放り出すことになるじゃないですか」
「いつものことなので平気です」
「いいえ。一緒に電車に乗ります」
そう言って無理やり手を繋ぎ、私が乗る方面の改札口まで迷うことなく歩いて行く。
「澄司さんは、私の家をご存知なんですか?」
「車で送るつもりだったので、あらかじめ千田課長に訊ねてました。ナビに登録済みですよ」
(――用意周到というか、さすがだわ……)
「手を放してください」
澄司さんから逃げられないのが嫌というほどわかったので、これ以上の接触を避けるべくお願いしてみた。私を引っ張るように歩いていた澄司さんは、一瞬振り返ったけど、手を放そうとしない。聞こえているくせにそのまま歩くので、抵抗を試みるべく、立ち止まりながら後ろに荷重をかけた。
「おっと! どうしましたか?」
「手を放してください」
「少しでも空いてる車両に、笑美さんをご案内しようとしているだけです。それとも混んでる車両に乗り込んで、僕に抱きしめられたかったとか?」
してやったりな表情の澄司さん。一枚も二枚も上手な彼に文句はおろか、一切の抵抗ができなかったのである。そのことを思い出し、うんざりしながら斎藤ちゃんに愚痴った。
「澄司さんって本当に口が達者で、為す術なく一緒に帰ってきたよ」
「だよねぇ。それに比べて佐々木先輩のポンコツさには、心の底から呆れ果てたわ」
佐々木先輩とポンコツというワードがどうにも違和感しかなくて、考えてもさっぱりわからず、「なんのこと?」と訊ねるのがやっとだった。
「まっつーは佐々木先輩に、備品庫で告白されたんだって?」
斎藤ちゃんが佐々木先輩に付き合った経緯を、根掘り葉掘り聞いたことがセリフからわかった。
「うん。なんでこんなところで告るんだろうなって思った」
「本人は絶好なタイミングだと思ったらしいよ。ロマンがないよねぇ」
電話の向こう側で苦笑いする斎藤ちゃんの表情を想像し、同じように笑う。
「ロマン以前に、佐々木先輩が私のことを好きになったのが、奇跡としか思えないよ」
「佐々木先輩とは頬にキスまでの間柄だというのに、ここにきて顔面偏差値最強男が登場するなんて、まっつーのモテ期はすごいねぇ」
「ぶっ!」
斎藤ちゃんが私たちの仲を知りすぎてることや、澄司さんを表現するワードがなんかすごくて、思わず吹いてしまった。
(佐々木先輩ってば、どこまで斎藤ちゃんに話をしたんだろう。変なことを言ってないといいな……)
「まっつーは、どっちが好きなの?」
「佐々木先輩に決まってるでしょ。一応これでも付き合ってるんだよ」
交際歴1週間も経っていない私たちの関係。それでも付き合ってると即答したけれど、どっちが好きかなんて、訊ねられるとは思わなかった。スマホを耳に当てたまま首を傾げる私に、斎藤ちゃんからの質問は、容赦なく続く。
「佐々木先輩が会社のフロアでまっつーを襲ったら、そのまま流されちゃう?」
「そこ、なんで会社なわけ?」
「備品庫でまっつーに告白した相手だから。一緒に残業しているうちに、佐々木先輩が会社で盛ってきたらどうする?」
「いやそれ、ありえないでしょ。絶対!」
想像しようとしても、そんな風景すら思いつかなくて、思わず斎藤ちゃんに喚いてしまった。
「だよねぇ。普通はそうなのよねぇ。だから佐々木先輩のことを『ポンコツ』って言ったんだよ。あのね――」
佐々木先輩が斎藤ちゃんに私の携帯番号を聞いたことや、そこからのやり取りを克明に教えてくれた。すべてを聞き終えた私は、茫然としながら問いかける。
「斎藤ちゃん、ハッキリ言っていい?」
「なんでも聞くよ!」
「佐々木先輩とのお付き合い、すっごく不安しかないんですけど!」
あの手この手で接触しようとする澄司さんの前で、自分の身を守るのに精いっぱいだった私。佐々木先輩のダメさ加減を知ってしまった今、見えない不安が押し寄せてきた。
「ほんとそれ! だから私もできるだけ助けてあげるね」
「ショックなのは、千田課長と佐々木先輩の元カノが絡んでいたことだわ」
「そんなふたりが同じ職場で働くことになるなんて、当時は思わなかっただろうね」
「私なら無理だな。千田課長を見たら複雑な感情が溢れてきて、冷たく接しそうになるのがわかる」
佐々木先輩の心情を考えながら、いつも見ている姿を思い出した。そつなく仕事をこなしている表情からは、マイナスの感情は全然見えない。千田課長と喋っているときも、平然としていた。
新入社員の頃の出来事だから数年経っているとはいえ、傷ついた心は間違いなく痕が残っているはず。だからこれまで、誰とも付き合っていなかったのかな。
「まっつー、LINEに佐々木先輩の番号貼り付けておいたよ。今ごろ躍起になって、まっつーに電話していたりして。ふたりの邪魔しちゃ悪いから、もう切るね」
「ありがとう、斎藤ちゃん。また明日!」
そう言って画面をタップした途端に、知らない番号から着信が――。
「佐々木先輩かな? もしもし?」
もう一度画面をタップして電話に出たら、聞き覚えのある声が耳に聞こえた。