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松尾の友人斎藤は、次の日におこなわれる会議の下準備のため、仕方なく残業していた。あともう少しで終わるという頃に、「斎藤、悪い」なんていう言葉がかけられる。
誰だろうと振り返ったら、自分にはめったに声をかけることのない先輩の佐々木が、少しだけ慌てた様子で小さく頭をさげた。
友人の恋人が声をかけてきた時点で、なんのことなのかを素早く察し、作業を中断して佐々木にしっかり向き合う。
「まっつーのことでなにか?」
「ああ。教えてほしいことがあってさ。ここじゃなんだから――」
周囲の目を気にしている感じだったので、ふたりそろってフロアから出て、小会議室に引きこもった。斎藤が扉を閉めた途端に、潔く訊ねた佐々木のセリフは、思いもよらぬものだった。聞き間違いだと、瞬間的に思ったくらいに。
「佐々木先輩すみません。私疲れてるみたいで、よく聞き取れなかったんですよね」
「松尾のスマホの番号、教えてくれ」
「……はい?」
「だから俺、松尾の連絡先、実は知らないんだ」
「付き合ってるのに、それっておかしいじゃないですか」
聞き取れる声量で佐々木が理由をハッキリ答えたというのに、斎藤は告げられた言葉が信じられなくて、すぐに教える気にはどうしてもなれなかった。
「松尾に聞くタイミングがとれなかった。原因はそれだけだ」
「タイミングがとれなかったって、じゃあ今まで、どうやって意思の疎通を図っていたんですか? まさか目と目があっただけで、お互いの気持ちが読めるなんていう、ミラクルなことを言わないてくださいよ」
あらかじめ注意を促した斎藤に、佐々木は困惑の表情をありありと滲ませながら一言。
「メモ用紙……」
「はい?」
「メモ用紙でやり取りしてた」
「ちょっと待ってください。今は令和ですよ、ほかにもいろんな方法というか、デジタルでやり取りするでしょう? どうしてLINEの交換すらしてないんですか?」
「そこまで頭が回らなかった」
「意味がわからない。佐々木先輩、恋愛経験おありですよね。確か元カノは、同期の方でしたっけ」
佐々木の恋愛について、噂話を知っていた斎藤は渋い顔のまま、やっとのことで問いかけた。
「ああ……」
「その当時、LINEの交換したでしょう?」
「今まで自分から、積極的にそういうのをしたことがなかった」
決まり悪そうに言い切った佐々木を見ていて、斎藤はハッとした。
「佐々木先輩もしかしてまた、千田課長に邪魔をされたんじゃ……」
「斎藤はどこまで知ってるんだ?」
自分の言ったことを止めるように、口元に手を当てた斎藤は、目の前にいる佐々木を憐みを含んだまなざしで見つめた。
「その……元カノの教育係だった千田先輩が、寝とったということだけ知ってます」
「そうか……」
佐々木が俯くとメガネのレンズが蛍光灯の光を受けて、うまいこと感情を隠す。斎藤は過去の出来事と現在のことを考えつつ、重たい口を開いた。
「まっつーには、きちんと告白してるんですよね?」
「ああ。備品庫でした」
「なんで備品庫で?」
ロマンチックの欠片もない場所でなされた告白を聞いて、松尾のことがかわいそうになった。
「そういう流れになったからだ」
目の前でうな垂れる佐々木を見ながら、斎藤は軽いめまいを覚える。
「えっと意思の疎通はメモ用紙で、告白は備品庫ってことは、まだナニもしていないということですか?」
「松尾に言われたんだ、ちょっとずつ距離を縮める感じで付き合いたいって。元彼のことを引きずってるのを考慮して、今のところは頬にキス程度までしかいってない」
(なんだその、ピュアなお付き合いの仕方は。今の中学生よりも健全でしょうよ)
「佐々木先輩は、まっつーの頼みをきいているということですか、なるほど。じゃあ想像してみてください。これからいい感じの流れになって、まっつーとヤれるところまできました。そこはどんな場所で、どんなシチュエーションですか?」
斎藤はあることを確かめるために、思いきって訊ねた。自分の考えが、どうか外れますようにと――。
佐々木は親指と人差し指で眉間を摘まみ、小難しそうな表情のまま答える。
「どんなシチュエーション……。ふたりきりでたまたま残業していて、誰もいないフロアで、そんな雰囲気になったところで、はじまった感じ」
「はーい、ビンゴ! 佐々木先輩の恋愛感が、ポンコツなのがわかりました」
斎藤は頭を抱えたまま、その場にしゃがみ込む。自分の中のショックを表そうにも『ポンコツ』という言葉しか、しっくりくるものがなかった。
「ポンコツって、それ酷くないか?」
ああ、もう! と小さく呟いた斉藤は勢いよく立ち上がり、佐々木の鼻先に人差し指を突きつけながら豪語する。
「顔面偏差値最強男の考えるシチュエーションは、間違いなく一流ホテルのスイートをリザーブして、場所をしっかり確保。見晴らしのいい夜景を見ながら、まっつーを抱き寄せてから、砂を吐くような甘い言葉の連呼により、うまいことベットインするでしょうね!」
「あ……」
自分との違いに唖然とした佐々木に、斎藤は突きつけていた人差し指を戻して、あっけらかんと告げる。
「はじめてを会社でなんて、どこぞの安いAVの設定ですか」
「いやでも、3回くらい……」
「は? 3回も会社でシようなんて、信じられない!」
「違う、松尾を3回くらい、イかせることができたらいいなとか、思ったりして」
「いつ誰が来るかもしれない、こんな場所でヤるからということで、佐々木先輩が興奮するのはわかりますけど、たくさんまっつーをイかせたいのなら、せめてベットでお願いします!」
まくし立てる感じで一気に喋ったので、斎藤の息はいい感じに切れていた。息だけじゃなく頭もキレているように、佐々木の目に映る。
「斎藤にそこまで言われたら、ベッド以外でする気になれない」
「その発言、会社以外でもって考えていたんじゃーー」
屋外じゃなきゃいいなと、疑いのまなこで目の前を見つめた斎藤に、佐々木は無言で、首を横に振る以外の選択肢が残されていなかった。
「佐々木先輩、顔面偏差値最強男に勝つ自信ありますか?」
斎藤からの口撃で、いい感じにメンタルが削れた佐々木は、『勝てる』という言葉を告げることができない。ポンコツという言葉と恋敵の難解さを克明に語られたせいで、自信がなくなっていた。
だが『無理』や『負ける』なんてセリフを吐くことは、どうしても嫌だった。松尾を誰にも渡したくなかったから――。
だんまりを決め込む佐々木に、斎藤は大きなため息をついてから語りかける。
「今日はフロアで、三人が顔を付き合わせたときに、佐々木先輩がまっつーの手を進んで握りしめて、俺たち無敵ですっていうのを、きちんとアピールできていたのに」
「それなんだが、そういった意味はあのときなかったんだ」
「それ以外の意味が思いつかないんですけど!」
「松尾が早く出たがっているのがわかったから、俺は手を引いただけ。アピールなんて、これっぽっちも考えつかなかった」
肩を竦めながら理由を説明した佐々木を見て、斎藤はさらに難しい表情を作り込んだ。
「佐々木先輩は、まっつーの気持ちを優先して行動しているんですね。それがプラスになるのかマイナスになっちゃうのか、そのときの状況次第になるなぁ」
「なにが言いたいんだ?」
「顔面偏差値最強男は当然、恋愛に関しても抜かりなく行動してくるはずです。佐々木先輩がポンコツなことを知らず、まっつーを手に入れようと躍起になるでしょう」
「さっきから、ポンコツって連呼しすぎ。失礼だとは思わないのか」
「実際佐々木先輩はポンコツなんですから、諦めてください。焦れったいにもほどがありますよ」
「ポンコツで悪かったな!」
「それで、千田課長はなんて?」
斎藤は佐々木の怒りの矛先を変えるべく、話題をさっさと変えた。そのことを悟った佐々木は、自分の態度の悪さを反省し、げんなりしながら答える。
「松尾の通勤時間は息子さんが同伴するから、絶対に邪魔をするなってさ」
「なにそれ、最低!」
「いつまでその状態が続くのかを聞いたら、相手が飽きるまでだって。いつ飽きるんだか……」
明らかに苛立った面持ちの佐々木が、だんだん沈んでいくのを目の当たりにして、斎藤は松尾の寂しげな笑顔を思い出す。
友人と佐々木が付き合っていることを知り、そのことを開口一番告げたときに、課のお局で先輩の梅本が、いきなり話に割って入った。昼休みに呼び出しを食らうというおっかない案件を垣間見たので、一緒にいようかと言ったのに、『全然関係ない斎藤ちゃんが友達っていう理由で、お局グループの先輩方に口撃されるのを見たくない』と守りに入ったため、それ以上の口を出すことができなくなった。
ホントは助けてほしいくせに、相手のことを優先して大切に扱ってくれる友人を、なんとしてでも救いたい。
「佐々木先輩、まっつーの番号教えますね」
「あ? ああ、助かる」
「それと私に、佐々木先輩の番号教えてください。知らない番号から電話があったら、まっつーが出ないかもしれないので。あらかじめ佐々木先輩から電話があることを、きちんと伝えておきます」
しかも恋愛ポンコツ佐々木のフォローも、そつなくこなさなければならないだろう。
(とりあえず、まっつーがどれくらい佐々木先輩のことを好きなのか、全然わからないのも不安だな。中途半端な気持ちでいたら、きっとあの顔面偏差値男になびいてしまう)
斎藤は目の前に山積みにされた友人の恋愛事情に、頭を悩ませるのだった。