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うまくいかない日々の果てに――2

☆☆☆


 笑美さんが会社から出てくるのを、今か今かと待ちわびる。午前中に逢ったばかりだけど、途中で佐々木さんをまじえてしまったし、どうにも僕に対する印象は薄くなっているはず。


(初対面はあんなに見つめてくれたのに、それ以降は目すら合してくれなくなったのは計算外。どうやって心の距離を近づけるかだ――)


 会社の扉をロックオンしたまま考え込んでいると、目的の人が出てきた。硬い表情で僕を見つめる笑美さんに、にっこり微笑んでみせる。相手の態度がどうであれ、どんなタイミングでも第一印象って大事なんだ。


「笑美さん、お疲れ様です!」


「澄司さん……。お待たせしてしまい、すみませんでした」


「謝らなくていいですよ。僕が勝手に待っていたんだし。車で送ります」


 笑美さんの会社の駐車場に停めてあるところに誘導しようと、スマートに肩を抱き寄せたら、動かしていた足を止める。


「いつもどおり電車で帰りますので、送らなくてけっこうです」


 僕に一切顔を合わせずに、俯いたまま拒否されてしまった。


(千田課長のヤツ、笑美さんに圧力をかけ過ぎたんじゃないだろうか。この雰囲気を打破するのは、かなり厄介な仕事になるな)


「わかりました。ちょっとだけ待っていてもらえますか? すぐに済みますから」


 ポケットからスマホを取り出し、千田課長に電話した。笑美さんは居心地悪そうに、その場で立ちつくす。


「もしもし、綾瀬川です。先ほどはありがとうございました。お願いがあるんですけど、僕の車を会社の駐車場に停めさせてください。笑美さんを駅まで送っていきますので」


 僕の告げた言葉を聞いた笑美さんは、目を見開きながら俯かせていた顔をあげ、まじまじと見つめる。驚きと困惑を含んだ表情に負けじと、優しく微笑んでみせた。


『松尾が大変失礼なことをしてしまい、申し訳ございません』


 スマホから聞こえる謝罪の言葉に、なんでもないふうを装うように答える。


「千田課長、笑美さんは失礼なことをしていないですよ。むしろラッキーなくらいです。車で笑美さんをご自宅まで送ったら、あっという間ですし。運転しながら話をするよりも、並んで歩きながら話をしたほうが、お互いの距離が縮まります。そういうことですので、車の件よろしくです」


 事前に笑美さんの住所を千田課長に教えてもらっていたので、場所を把握していた。車のナビに登録していたこともあり、一緒にいられる時間も計測済みだったりする。


 向こうの返事を聞かずに、さっさとスマホをオフにした。これ以上待たせると、笑美さんが余計に気を遣うだろう。


 限られた時間を使って、笑美さんとの距離を縮めるのは骨の折れる作業になるので、電車と徒歩での帰宅は、僕としては大変ありがたかった。


「澄司さん、あの……」


「お待たせしました、さて行きましょうか」


 迷わず笑美さんの左手を掴み、手を繋いだまま駅に向かう。千田課長には駅まで送ると言ったが、一緒に電車に乗り込み、自宅まで送るつもりだった。


「澄司さん、手を放してください。ひとりで歩けます」


 歩くのをやめ、僕の手を握る気配のない笑美さんの左手を、両手で包み込んだ。顔をさっぱり合わせてくれない笑美さんが、立ち止まってやっと僕を見つめる。


「笑美さんがこのまま走って、僕から逃げそうなので、手を繋いじゃいました」


「逃げたりしません……」


「だって、千田課長に命令されてますもんね。なんかそういうの、僕も嫌です」


 なめらかな肌を確かめるように手の甲を数回撫でてから、笑美さんの左手を解放した。肩のかけているカバンの取っ手を握りしめて、僕がこれ以上接触しないように施す滑稽な姿に、肩を竦めながら口を開く。


「会社同士のつながりがなかったら、もっと気楽にお互い逢うことができたっていうのに、君の上司が変な縛りをつけたせいで、笑美さんの気持ちが暗くなってます」


「すみません……」


「謝らないでください。したくない仕事をさせられる気持ちくらい、僕にもわかるので」


「澄司さん?」


「こうして一緒に歩いて帰ることができて、すごく嬉しいです」


 さっさと話を変えて僕が歩き出したら、笑美さんは困った表情のまま、隣に並んで歩いてくれる。


(さてここからの話題は、笑美さんの好みについて、詳しく教えてもらわなければ。なにかをプレゼントすることもできない)


「笑美さんの好きな食べ物ってなんですか?」


「好きな食べ物?」


 ありきたりなことを訊ねた僕を、笑美さんは不思議そうな面持ちで見上げた。変なことを聞いたつもりはなかったのに、どうしてそんな顔をするんだろうと、頭の中に疑問符が浮かぶ。


「僕はカレーが好きなんです。店によってカレーの風味や使われているスパイスが、全然違うんですよ。あちこち食べ歩きするのが、結構楽しくて」


 ありきたりな質問には、ありきたりな回答が奇をてらわない。いつもどおり、スラスラ答えてやった。


「私は唐揚げが好きです」


 デザート系じゃなく、揚げ物を言った彼女の返答が意外すぎて、一瞬だけ息を飲む。それに対してのセリフが頭の中を流れているのに、口から思うように出てこない。


(――これ以上、変な間を与えちゃダメだ。なにやってるんだろ)


「あ……から揚げ美味しいですよね。もも肉を唐揚げしたものはジューシーさがあっていいですけど、胸肉を揚げたものも肉の弾力や旨みを感じられますし。僕としては、どっちも甲乙つけがたいかな」


「チーズささ身の揚げたものも好きです」


 自身の好きなものを告げたお蔭か、先ほどとは違う、柔らかな微笑みを横目でチラ見した。その笑顔がよく見たくて、笑美さんの顔を覗き込む。


「それに大葉がトッピングされていたら、また風味が変わって美味しいですよね」


「……はい。ムダにお酒が進んじゃいます」


 目と目が合った瞬間、顎を引いて距離をとられたので、仕方なく元に戻した。


「笑美さんはいける口なんですね。今度一緒に飲みに行きませんか?」


 好きなものを聞いた時点で、こういう流れになることを計算していたので、自然とお誘いすることができる。


「そうですね……そのうちにでも」


「から揚げの美味しいお店を探しておきます。楽しみにしていてください」


 笑美さんからげんなりするような雰囲気が漂っていたが、そんなこと気にしない態度を貫き、好きな花や動物・趣味などを訊ねて、会話を楽しんだ。


「澄司さん、ここまでありがとうございました」


 駅が目に映った途端に、笑美さんに告げられた言葉。深いお辞儀つきで言われてしまったが、めげずに返事をする。


「ご自宅まで送ります」


「駅までで充分です。ひとりで帰れますので」


 笑美さんは遠慮することを示すように、両手を使って大丈夫だというリアクションをする。僕はきっちり拒否すべく、首を横に振った。


「これから電車に乗ったら、この人混みの中に、笑美さんを放り出すことになるじゃないですか」


「いつものことなので平気です」


 絶対にこの機を逃さない――どんなものでも、最初が肝心なのだから。それに、断られることには慣れている。この外見のせいで視線を合わせてくれずに、営業の仕事を何度も断られてばかり。だからこそ相手に僕のことを理解してもらって、心の距離を縮めなければならない。


「いいえ。一緒に電車に乗ります」


 これ以上笑美さんが拒否できないように無理やり手を繋ぎ、改札口に向かって歩を進める。


「澄司さんは、私の家をご存知なんですか?」


「車で送るつもりだったので、あらかじめ千田課長に訊ねてました。ナビに登録済みですよ」


「手を放してください」


 迷惑そうな声色を聞いて振り返ったが、笑美さんがそこまで怒っている感じでもなかったので、返事をせずにそのまま歩く。すると次の瞬間、僕の手をぎゅっと握りしめたかと思ったら、後ろに向かって力を込められたことで、見事に足を止められてしまった。


「おっと! どうしましたか?」


 とてもひ弱な抵抗だったが、驚いた演技をしながら振り返る。


「手を放してください」


(意外な返事や無駄な抵抗をされると、意地悪したくなってしまうじゃないか)


「少しでも空いてる車両に、笑美さんをご案内しようとしているだけですよ。それとも混んでる車両に乗り込んで、僕に抱きしめられたかったとか?」


 小さく笑って握っていた手を外し、恋人つなぎに変化させる。このまま手の甲にキスしてやろうかと持ち上げたとき、それが目についた。


 ブラウスの袖口から手首が見えると同時に、くっきりつけられたキスマークが確認できた。


(こんな形で佐々木さんの執着心を見せられるとは、思ってもみなかったですよ)


 一瞬、反対の手首に同じ痕を残そうかと思ったが、猿真似になるのでやめることにした。


 相変わらず僕の手を握ろうとしない笑美さんの小さな抵抗は、やる気を削ぐどころか、執念に駆られるものになる。恋人つなぎした手を目の前に掲げて、まじまじと見つめた。


「澄司さん?」


「食べてしまいたくなるような、綺麗な手をしてますね」


「食べないでください……」


「冗談です。食べないですよ、今はね――」


 恋人つなぎから普通に手を繋ぎ、改札口を抜けて駅構内に入り、空いている車両をちゃんと探した。


「笑美さん、座れる席がありました。行きましょう!」


 目ざとく見つけた場所へ、彼女を引っ張る。体だけじゃなく心も同じように、自分に向いてくれないだろうかと思いながら。


 ここまで徹底して僕を拒否する笑美さんに、興味がどんどん湧いていく。これだけで、普通の見た目の彼女がかわいく見えてしまう己の単純さに、笑わずにはいられなかった。

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