「松尾と別れるつもりはありません」
即答した佐々木先輩を、胸を熱くして見つめてしまった。澄司さんとは違い、佐々木先輩の声には、決意みたいなものを感じとることができた。
「笑美さんは、どうですか?」
澄司さんは佐々木先輩から私に視線を移して、実に爽やかに問いかけた。
「私……ですか?」
「佐々木さんと別れて、僕と付き合う気はありませんか?」
「な、ないです。ごめんなさい……」
「ですよねぇ。お付き合いアピールを、くだらないこととハッキリ言い切れてしまう、素敵な方と付き合っているんですから。ですが――」
なにかを言いかけた澄司さんは口を一旦引き結び、腰を落としながら私に顔を近づけて凝視する。
(――イケメンのドアップは、佐々木先輩でお腹いっぱいなのに)
「僕のほうがうまいですよ」
エメラルドグリーンの瞳が、意味深に細められた。たったそれだけのことなのに、澄司さんから表現し難いなにかが、ふわりと漂ってくる。
「へっ?」
告げられた言葉の意味がわからないのと、澄司さんの迫力に押されて、思わず顎を引いて距離をとった。すると佐々木先輩が私の腕を引っ張り、澄司さんとの間に割り込む。
「綾瀬川さん、真昼間から誘うというのは、どうかと思います」
「誘ったつもりなんて、全然ありません。だって僕はなにがうまいのか、ひとことも言ってないじゃないですか」
「あんなふうに顔を近づけて言われたら、誰だって誤解します」
佐々木先輩が私の壁になったのに、澄司さんは移動することなく、至近距離で佐々木先輩の顔を見続けた。
「笑美さんはなにを意味するのか、わからなかったみたいですけどね。残念!」
佐々木先輩を見下ろすと見せかけて、私を見下ろした澄司さんの視線は粘り気を感じさせるもので、危機感を覚えずにはいられない。
(真昼間からのお誘いということは、アレか、アレしかないでしょ! なぜ気づけなかった、私のバカ!)
「綾瀬川さんはあんな誘い方をして、女性の扱いにとても長けていることを、松尾にわざわざアピールしたかったんですね」
「そういうつもりは、まったくありません」
澄司さんはトゲを感じさせる物言いをした佐々木先輩に視線を移すと、仕方なさそうに私たちからやっと距離をあけた。すると佐々木先輩は片手を腰に当てながら、どこか得意げに話しかける。
「そういうことは口頭ではなく、実践で伝えればいいのではないでしょうか」
言いながら私を隠すように、一歩だけ前に進む。澄司さんに告げた言葉に、ヒヤヒヤしてしまった。実践で伝えるなんて露骨な言葉は刺激が強すぎて、私は使うことはないだろう。
「いいんですか、僕が実践しても?」
「断られた相手にそういうことをするのは、犯罪になりますけどね」
「だったら本人が、自然に身を任せる状況下ならいいということになりますが、それでもかまわないんですか?」
「松尾には、俺以外知ってほしくない」
静かに、だけどハッキリと私の心に、佐々木先輩の言葉が響いた。
(さっきのセリフ、どんな顔で言ったのか見てみたかった――)
目の前にある大きな背中を見ながら、そんなことをつい思ってしまった。
「佐々木さんって、見た目は冷静そうなのに、結構情熱的な方なんですね。僕なんかよりも、女性の扱いに長けてそうだ」
「…………」
「笑美さん、お茶の淹れ方は、また今度教えてください。あんまり長居してると、大切な仕事の話を聞きそびれてしまうので」
澄司さんは腰を折って深く一礼し、優雅な足取りで私たちの前から去って行った。
「松尾、大変だったな。大丈夫か?」
会議室に澄司さんが消えたのを確認後、佐々木先輩は私に振り返って優しく声をかけてくれた。
「佐々木先輩がすぐに来てくれたので、大丈夫です。ありがとうございました」
「アイツとは初対面なのに、もう下の名前で呼び合ってるんだな」
感情の読めない顔のまま、淡々とした言葉で指摘されたせいで、慌てて視線を逸らしながら答える。
「呼ぶように強要されてしまいまして。握手した手を放さないって」
「なるほど。そういうことをすれば、松尾はなんでも言うことを聞いてしまうのか。今度使ってもいい?」
「なっ、なにを強要しようとしてるんですか……」
怯えるフリをしてみせたら、嬉しそうに笑って、私の耳元に顔を寄せる。すぐ傍に佐々木先輩の存在を感じて、ドキドキしてしまった。
「一緒に帰りたいだけ。一生懸命に仕事をしてる俺を無視して、逃げるようにさっさと帰るんだもんな」
クスクス笑ったと思ったのに、次の瞬間には私の頬にキスを落とす素早い身のこなしに、あっけにとられるしかない。
「ちょっ!」
「今日は帰るなよ。置いてったら、おしおきだからな」
わざわざ念押しするように、佐々木先輩は私の頭をぐちゃぐちゃに撫でてから、ひとりで部署に戻ってしまった。本当はあとを追いかけたかったけど、それができない。
ただ頬にキスされて、頭を撫でられただけ――たったそれだけなのに、体中が熱くてたまらなくて、動くことができなかったから。