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彼氏を紹介することを澄司さんに頼まれたので、仕事中の佐々木先輩を連れ出すべく、単身でフロアに顔を出したというのに――。
「笑美さん!」
フロアの扉を開けて数歩進んだ瞬間に、澄司さんは迷うことなく、私のあとを追いかけてきた。
(ううっ、澄司さんのせいで、あちこちからの視線を、めちゃくちゃ感じる。私に向けてじゃないけど、手に汗握る展開を、皆さんはきっと期待しているに違いない!)
「彼氏さんを見るついでに、ほかの従業員の方の仕事ぶりを、拝見してみたくなりました」
「えっ?」
「だって僕の会社の取引先相手なんだし、見たってなにも問題ないですよね」
眩しさを感じさせる満面の笑みで言われた時点で、『仕事の邪魔になるのでご遠慮ください』の言葉を飲み込むしかなかった。
「あ……はい」
引きつり笑いを浮かべながら返事をし、仕方なく歩き出したところで、血相を変えた佐々木先輩が目の前に現れた。
電話が鳴っているのに誰もとろうとせず、室内に虚しく響き渡る。皆さん一言も発することなく、固唾を呑んで私たちを見守っていた。
自社のイケメンエースVS四菱商事の御曹司という、稀に見る対決を逃すまいという気迫が周りから伝わってきて、澄司さんの前から思わず退いた。
「貴方が笑美さんの彼氏さんですか?」
「……はい、佐々木と申します」
佐々木先輩の肯定したセリフを聞いた瞬間に、澄司さんは顎に手を当てながら、少しだけまぶたを伏せて、気難しそうになにかを考える。たったそれだけのポースをとっているだけなのに、紳士服モデルの写真を撮影しても、おかしくないくらいに決まっていた。
「確か佐々木さんは、我社とのプロジェクトに関係していませんか? 書類のどこかに、お名前があったと記憶しております」
「微力ながら、お手伝いさせていただいてます」
会話だけ聞くと、仕事中のやり取りのような感じなのに、漂っている雰囲気がそれとはまったく違った。
相手の隙を狙い澄ましているのか、お互い笑みを浮かべているのに、瞳がやけに真剣そのもので、間に入ったりしたら、ふたりのレーザービームで間違いなく消し炭にされるような気がした。
(とりあえずみんなの視線から、目立ちまくるこのふたりを、早く消さなければ。あとからどんな噂話をされるか、わかったもんじゃないし)
「お話し中のところすみません。個人的に込みいった話があるので、移動をお願いします!」
表面上、仲良さそうに微笑み合うふたりに、意を決して告げた。このときの私の顔が必死そのものだったと、斎藤ちゃんがあとから教えてくれたけれど、その気持ちは間違いないものだった。
「笑美さんのお願いを、きかないわけにはいきません。佐々木さん、移動しましょうか」
そう言って先に歩き出した澄司さんのあとをついて行こうとしたら、不意に右手を掴まれる。ちょっとだけ冷たいてのひらに掴まれたせいで、驚きながら振り返った。
「佐々木先輩?」
手を掴んだ張本人をしっかり見上げて呼びかけたのに、佐々木先輩は私の視線を無視して、無表情のまま歩を進める。
みんなに注目された状況下で、佐々木先輩に引っ張られて歩かされた私は、背後に気を遣って何度も頭を下げた。あちこちからなされるヒソヒソ話が耳に入ることが、本当に嫌でたまらない。
「仲がよろしいみたいですね」
佐々木先輩と廊下に出たタイミングで、澄司さんはにこやかに話しかけてきた。背の高い彼が見下ろす先は、しっかり繋がれた私たちの手だった。
「やっ、あのこれは……」
しどろもどろに答えると、佐々木先輩は私からやんわり手を放す。そして澄司さんにきちんと向かい合って、いつもより低い声で答えた。
「別に。付き合っていれば、普通だと思います」
「僕だけじゃなく職場の方々にも、しっかりアピールしたくなったんでしょう? これは俺の女だって」
「そんな、くだらない意図はありません。それでお話があるのは、綾瀬川さんですよね?」
佐々木先輩は横目で私を一瞬見てから、ふたたび澄司さんを仰ぎ見る。
「くだらない意図なんていう言葉で、表現されるとは思いませんでした。そうか、佐々木さんにはハッキリ言っておいたほうがいいみたいですね」
「なんでしょうか?」
ふたりの会話を遮ることなんてできなくて、テニスのプレイを観戦するギャラリーのように、視線を忙しく左右に動かす。
「僕、笑美さんがとても気に入りました。彼女とお付き合いしたいので、別れてもらえませんか?」
微笑みを絶やさずに言い切ったセリフは、とても衝撃的なものなのに、お店屋さんで「これください」みたいな、軽い感じに聞こえてしまった。