***
呆けた頭で考えたところで、バカな私はなにも思いつかないし、この状況が変わらないことくらいわかっていた。自分の席に座ってからも茫然としてしまい、まったく仕事に手がつかない。
綾瀬川専務の息子さんに逢うことや、佐々木先輩の彼女になってしまったこと。そのどれもが現実離れしているゆえに、私のキャパを完全に超えた。
(両方お断りするには、まず――)
「松尾、ちょっといいか?」
「ひっ!」
唐突に声をかけられた驚き、肩を竦めながら息を飲んで振り返ると、佐々木先輩が一枚のA4用紙を、私の目の前に掲げる。ほぼ白紙の中央に『これを見ながら話を合わせろ』と、青い文字の手書きがなされていた。
「よく見てくれ。この間頼んだ書類だけど、ここの部分の数字が、間違っているんじゃないかと思ってさ。計算と合わないんだ」
なにも書かれてないところを指さしながら、私に顔を寄せる。するとその動きで連動するように、いい匂いが漂った。なんの香水かわからないけれど、爽やかなシトラス系の香りが鼻腔をくすぐり、私の落ち着きなさに拍車をかける。
「松尾、ちゃんと確認してる?」
しかもイケメンのドアップほど、心臓に悪いものはない。顔のすぐ真横でなにかを言われるたびに、耳に吐息がかかっているような錯覚に陥った。
「かっ確認しましたけど。これ間違ってますかねぇ」
刺激的な佐々木先輩から離れるために、首を傾げながら両手でデスクを掴み、椅子を平行移動した。それなのに離れた分だけ、体を寄せられてしまう。みずからドツボに嵌る行為に、後悔してもすでに遅し!
体を寄せられて触れる面積が増えたら、自然といい匂いは増えるし、ぬくもりも伝わってきて、頬にじわりと熱を持った。
「多分間違ってる。しかも、ここだけじゃない」
自分の言うことは絶対正しいという、自信に満ちた口調で佐々木先輩は言って、デスクに転がってるペンを持つと、白紙になにかを素早く書き込む。
『うまく演技できてる。そのまま続けてくれ』
走り書きでも見惚れてしまう文字を書く佐々木先輩に感心して、私は黙ったまま首振り人形のように頷いてしまった。
「松尾、しっかりしてくれよ」
「すみません。いろいろ一気に立て込んでしまって……」
「しょうがないな。一緒に確認してやる、ついて来い」
佐々木先輩は仕方なさそうな表情を、わざとらしさのない感じで作り込み、私の左腕を引っ張って無理やり立たせて、引きずるようにフロアから連れ出す。
扉が閉まる瞬間、後ろを振り返ってみた。
迫真の演技を難なくこなした佐々木先輩と、一歩間違えたら場違いとも思える微妙な態度を貫いた私について、誰も疑問に思わなかったのか、私たちの姿を目に留める社員は誰もいなかった。
「ふたりきりで話せるところは……そこでいいか」
廊下の突き当りにある、消耗品を保管してある備品庫に引きずり込まれた。呆気にとられる間に佐々木先輩は目の前で鍵をかけて、ふたりきりの空間を作った。私の腕をやんわりと放し、持っていた白紙を手際よく四つ折りにして、ポケットにしまう。
「松尾、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですよ。頭が大混乱状態です。いきなりなんで、あんなことになってしまったのか……」
「だよな、俺も驚いた。付き合ってまだ1日しか経ってないのに、松尾が御曹司と見合いなんて、俺に勝ち目はないだろ」
ほかにも「相手はハーフだし、きっとイケメンなんだろうな。いやはや参った」と小さな声で呟いて、扉に背中を預ける佐々木先輩に、「それですよ!」と大きな声で叫んでしまった。
「それとは?」
カッコよくメガネのフレームをあげながら問いかけられても、振れ幅の大きい私の心はときめく余裕がなかった。額に手を当てて、いつもより低い声で答えてやる。
「どうして私が、佐々木先輩と付き合ってることになってるんですか?」
「だって昨日おまえに、路上でアプローチされただろ。あの場で俺は断ってない」
目を瞬かせて断言する佐々木先輩のセリフに、私はその場でフリーズしてしまった。なにか言い返したいのにアホ面丸出しで、口をパクパクさせるのが精一杯。
「松尾ってば、俺が彼氏になったことが、そんなに不服だったのか。変な顔してる」
「ち、違いますっ。えっとその……う~ん。佐々木先輩は私のことを全然知らないのに、彼女にしたのが謎すぎて」
驚きとかいろんな感情が相まって、うまく言葉が出てこなかったけど、伝えたかったセリフをなんとか言うことができた。
「確かにな。会社じゃこれまで挨拶くらいしかしてなかったけど、居酒屋でいろんな話をおまえから聞き出すことができたのが、俺の中では好印象だったんだ」
胸の前に腕を組み、嬉しそうに答える佐々木先輩をまじまじと見つめながら、改めて考えてみる。
「いろんなこと……? あの話の中で、佐々木先輩に好印象を与えるようなことを、私は言いましたっけ?」
正直、私としては佐々木先輩に好印象を与えたつもりがなかったので、不思議としか思えなかった。
「元彼とのことはつらい出来事なのに、あえて明るく振る舞って、俺に話をしてくれたろ。三か月前に終わったことだから、気持ち的に松尾はスッキリしているのかと思ったのに、深く掘り下げていったら、割り切れていないことがわかったしな。その真相を探るべく、誘導尋問みたいになったけど」
「そうですよ。佐々木先輩の元カノの話を聞けずじまいでした。ズルいです、フェアじゃない」
さりげなく文句を言って、昨日有耶無耶にされたことを教えると、佐々木先輩はニヤニヤしながら、なぜか私に指をさす。
「しかもおまえの口から出る言葉が、どうにもツボに嵌って、笑ってばかりいた。俺の予想を超えることばかり、松尾が言うからさ。それでコイツと付き合ったら、結構面白いんじゃないかというのが決め手だったわけ」
佐々木先輩が付き合うと決めた理由が残念すぎて、笑うに笑えなくなった。自然と頭痛が増していく。
「佐々木先輩、面白いから付き合うことに決めたなんて、正直信じられません」
素直な気持ちを堂々と口走ったら、メガネの奥の瞳が意味深に細められた。まるで獲物に狙いを定めるようなそれに、嫌な予感しかしない。昨日の居酒屋でも垣間見た表情だっただけに、気を引き締めて口撃に備える。
「松尾は俺を信じられないから、さっさと捨てて、玉の輿に乗るつもりなのか?」
「乗りませんよ、そんなもの」
端的な私の返答を聞いた途端に、佐々木先輩の目尻が嬉しさを表すようにさがった。それだけで漂っていた雰囲気が、ガラッと変わる。
「松尾のそういうところに、俺は惹かれたんだって。普通は玉の輿に乗るために、喜んで平社員の俺を捨てるだろ」
「そんな理由で捨てたりしませんけど、イケメンな佐々木先輩とのお付き合いは、いろいろ恐れ多くて、できそうにないです!」
私なりに、佐々木先輩との交際をキッパリお断りした。これ以外のお断りする言葉が見つからなかったせいで、説得力がなかったせいか、佐々木先輩は不思議そうな表情で首を傾げる。
「自分から俺に迫っておいて、恐れ多いなんておかしくないか?」
「だって、どう見ても不釣り合いですよ私たち」
(傍から見たら、佐々木先輩のようなイケメンが、私のような凡人と付き合ってるなんて絶対におかしいと、間違いなく思われるはず。お金でも渡して、無理やりつきあってるなんて想像されたりして)
「不釣り合いなんて、俺は人の目なんか気にしない……」
「私はすっごく気にします!」
両手に拳を作りながら断言したら、背を預けていた扉から体を起こして、私を見下ろした。メガネの奥から注がれる、熱のこもった佐々木先輩のまなざしから、なぜだか目が離せない。
「はじめてなんだ!」
珍しく声を荒らげた佐々木先輩は、告げたあとにハッとして、頬を真っ赤に染めた。どこか初々しさを伴うその姿に、思わず――。
「やっぱり童貞……」
「違う違う、そうじゃない。おまえと喋ってると、どうにも調子が狂ってしょうがないな」
「鈴木雅之の歌でも歌いますか?」
照れて錯乱している佐々木先輩を和ませるべく、思いきって変なことを言うと、左手にエアマイクを持つ格好をわざわざしてくれた。結構ノリのいい先輩らしい。