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午前中の仕事をなんとかやり遂げ、次に指示されたものに手をつけた瞬間、肩を二度軽く叩かれた。振り返ると千田課長がいて、フロアの奥にある応接室を親指でさす。
「悪いんだけど、お茶を三つ用意してくれない? ひとつは濃いめで」
独特な注文に、とあるお客様の顔が頭に浮かぶ。
「四菱商事の方が、お見えになっているんですか?」
「そうなんだ。しかも松尾が淹れたお茶が飲みたいと、本人が仰ってね。前回来たときに、えらく褒めていたよ」
「ありがとうございます。すぐにご用意しますね」
デスクの上を整理してから給湯室に向かうと、佐々木先輩が書類を手にして、応接室に入るのが目に留まった。
(さっきフロアから出て行ったのは、四菱商事の方をお出迎えするためだったのかな。千田課長にはお茶を三つと言われたけど、佐々木先輩の分をいれて、四つ持って行くか)
指定された濃い目のお茶と、普通のお茶を手際よく用意し、応接室の扉をノックしてから中に入る。
「失礼いたします……」
深い一礼をしたのちに、四菱商事の専務の前にお茶を配膳して、向かい側に座る見慣れた上司と先輩方それぞれに、お茶を配る。用意した数はぴったりだった。
「そうそう、君だったね。美味いお茶を淹れてくれたのは」
専務は茶碗を手にしながら香りを堪能後、お茶を口にした。
「は~。このちょうどいい濃さと渋みが、お茶の美味さを上手に引き出してる。今日のも美味い!」
「ありがとうございます」
「うちの奥さん、アメリカ人でね。美味いお茶を、なかなか淹れることができないんだよ。ところで君の名前は?」
もう一口お茶をすすった専務に問いかけられたことで、お盆を胸に抱きしめながら答える。
「松尾笑美と申します……」
「お年はいくつだい?」
「あ、今年で26になりますが」
このままここにいると、これ以上のプライベートな質問をされる予感がして、早く退室したくなった。
「うちの息子は25なんだが、どうだろう。今度逢ってみては――」
(もしや取引先のお偉いさんの息子と、見合いをしなきゃいけなくなった系?)
「綾瀬川専務には、私の年と近い息子さんがいらっしゃったんですね」
ニコニコしながら私の返答を待つ専務に、どうやって失礼のないようにお断りするか、言葉を考えていると。
「松尾には、すでに決まった相手がいますよ」
末席にいる佐々木先輩が乾いた声で、事実じゃないことを告げた。
「ぶっ!」
あまりに衝撃的なセリフに、思わず吹き出してしまい、慌ててお盆で口元を隠した。愛想笑いが、引きつり笑いになっているだろう。
「松尾、彼氏いるのか?」
千田課長は、目の前の専務に視線を飛ばしてから、心配そうな面持ちで私に話しかけた。千田課長の隣に座ってる先輩、そして混乱する原因を作った佐々木先輩も黙ったまま、私をじっと見つめる。
食い入るように見つめるから、それに気がついた。佐々木先輩の膝の上に置いてる左手の動き。さりげなく手首を内側に曲げつつ、人差し指で自分を指し示しているではないか!
「いっ、ぃ、います、彼氏! 綾瀬川専務すみませんっ」
(佐々木先輩ってば、昨日のアレを了承したってことなのぉ!?)
いつもと変わらない冷静沈着で、堂々としている佐々木先輩とは裏腹に、私はしどろもどろに答えて、頭を深く下げた。
せっかくのお見合いを断ったので、罵声に似た言葉を予想していたのに、「別にかまわないよ」なんていう信じられないセリフが、専務からなされる。
「え、へっ?」
聞き間違いだと思って、ちょっとだけ頭をあげながら専務を見ると、ソファに深く腰かけ直して、満面の笑みを顔面に浮かべた。
「若いうちはさ、いろんな人と出逢ったほうが、いい経験になるさ。なぁ千田課長」
「はあ、まぁ……」
大口の取引先相手なので、これ以上お断りできないのは、誰の目から見ても明白だった。
「今回の仕事のこともアイツに知ってほしいし、ちょうどいい。三日後の打ち合わせのときに連れてくるよ。松尾さん、かしこまらずに、軽い気持ちで逢ってやってくれ」
「承知いたしました……」
言いながら、ちらりと横目で佐々木先輩の様子を窺うと、少しだけ俯いて顎に手を当てて、なにかを考えてる最中だった。照明を受けた銀縁眼鏡のフレームが輝き、シャープな顔立ちをより一層際立たせる。
きつく眉根を寄せて難しそうな顔をしているのに、口角が上がっているせいで、佐々木先輩の心中をまったく読むことができなかった。