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ところ変わりまして!

 佐々木先輩が案内してくれたのは、全国展開している居酒屋のチェーン店だった。時間帯がわりと早かったため店内はガラガラ状態で、店員に奥にある個室へ案内された。お互い、生ビールとおつまみセットを数点注文する。


「松尾、残念がってるのが顔に出てる」


 おしぼりで手を拭ったあとに告げられたセリフを、真っ向から否定すべく、声をちょっとだけ荒らげた。


「残念がってないですよ。佐々木先輩ってば、深読みしすぎです」


「そうだな、お洒落なバーとか、そういうところを期待してただろ?」


 見るからに、意地の悪い微笑みを口元に浮かべながらの口撃に、冷ややかさを含んだ目で佐々木先輩を見つめる。


「本当にそんなこと、まったく考えてなかったです。私は会社の後輩ですし、佐々木先輩と深い仲じゃないんですから」


「深い仲になりたくて、自分を俺に推薦したんじゃないのか?」


 佐々木先輩に訊ねられたタイミングで、生ビールが運ばれてきた。テーブルに置かれたそれを先に手に取ると、佐々木先輩は目の前にジョッキを掲げる。


「とりあえず、松尾との出逢いに乾杯!」


「乾杯です……」


 ジョッキ同士が引き寄せられるようにぶつかると、とても耳障りのいい音が鳴った。佐々木先輩とのやり取りで喉が乾いていたこともあり、遠慮なくビールを半分飲み干す。


「松尾、いい飲みっぷりだな」


「佐々木先輩に質問あるんですけど」


 ぐびぐびビールを口にする私とは対照的に、一口ずつビールを飲む佐々木先輩。銀縁眼鏡のフレームをあげながら、私の顔を不思議そうに眺める。


「俺に質問?」


「はい。佐々木先輩は童貞なんですか?」


 そう問いかけた瞬間、佐々木先輩は飲みかけていたビールを、ちょっとだけ吹き出した。私が慌てておしぼりを手渡そうとしたら、右手でそれを制し、自分のおしぼりを口元に当ててから、ビールが零れているところを急いで拭う。


「佐々木先輩、大丈夫ですか?」


「大丈夫もなにも、松尾がどうしてそんな質問をするのか、さっぱり理解できない!」


 頬を赤く染めながら、上擦った声で喋る佐々木先輩は、普段見られない姿だった。


(この人、こんな顔もするんだ。仕事でどんなにトラブっても、いつも冷静沈着な感じでトラブルを解消しちゃう、すごい人だと思っていたんだけど――)


「だって佐々木先輩言ったじゃないですか、仕事が恋人って。ずっと出逢いがなかったら、そういう機会に恵まれなかったんじゃないかと思ったんです」


「なんだそりゃ。それ以前の出逢いを考えなかったのかよ……」


「あとはイケメンすぎて隙がないから、会社にいる女子社員たちも、おいそれとは近づけなかったですし。そういうリアクションをするということは、童貞じゃなかったんですね。すみません」


 小さく頭を下げて、きちんと謝った。そんな私に、佐々木先輩は視線をあらぬ方に飛ばして、面倒くさそうに口を開く。


「俺にだって恋人くらいいたさ。長くは続かなかったけど」


「そうなんですね。それでお相手の女性は、どんな方だったんですか? 別れたきっかけは?」


 私はビール片手に、佐々木先輩に質問を繰り出す。会社で見ることのできない顔を見たおかげで、彼への興味がどんどん増していった。


「さっきからグイグイ突いてくるな。おまえはどこぞの、芸能リポーターなのか?」


 佐々木先輩は眉間に深い皺を刻んで不快感を露にしたけど、私は怯むことなく言の葉を紡ぐ。


「こうして佐々木先輩とお近づきになれたんですから、相手のことを知りたいと思っちゃ駄目でしょうか?」


「だったら松尾も白状しろよ。三ヶ月前に別れた彼氏のこと!」


「うわぁ、そう切り替えしてきたか。やっぱり佐々木先輩は容赦ないなぁ」


「松尾ほどじゃない。俺のはまだ可愛いほうだ……」


 メガネの奥の目を糸のように細めて、私をじっと見つめる。突き刺すようなそれから逃げることができそうにないので、きっと私の話からしなければならないだろう。


 残っている生ビールを飲み干したのちに言葉を選びながら、意を決してぽつりぽつりと語る。


「元彼と別れたきっかけはですね、束縛やモラハラがすごかったせいです。彼から逃げ出すのに、引っ越さなきゃならないくらいに、そりゃあもう酷かったんですよぉ」


「言ってることはかなり深刻なのに、松尾の口調が明るすぎて、どうにも大変さが伝わってこないんだが」


「私としては、これでも真面目にお話してるのに、佐々木先輩の感覚が変なんじゃないですか」


「ニコニコしながら解説されてもな……。ジョッキ一杯で、もう酔っぱらったのか」


 自分のジョッキを指さしながら指摘した佐々木先輩の表情は、相変わらず呆れた様相だった。


「酔ってませんよ。暗い話だからこそ、あえて明るく言って、雰囲気をこれ以上壊さないようにした、私なりの気遣いなんです! あ、生おかわりください!!」


 ちょうど通路を通りかかった店員に、空いたジョッキを見せて、おかわりを要求した。ちなみに佐々木先輩のジョッキの中身は、まだ半分以上残っている。


「松尾は会社でも、暗い表情を見せたことがなかったな……」


 顎に手を当てつつ考え込む佐々木先輩が、小さな声で呟いた。ちょっとだけ俯いてるせいで、照明にメガネのレンズが反射して、どんな顔をしているのかわからない。


「佐々木先輩ってば、私のことをチェックしていたんですか?」


「チェックというか、一緒に働いてる女子社員全員の顔色を窺っているだけさ。イライラしてるときに仕事を頼んだら、ミスをする可能性があるからな」


(さすがというか、仕事ができる男は相手の顔色まで見て、いろいろ判断しているんだ)


「そんなことを気にしながら、仕事をこなしていたんですね」


「俺だけじゃない、空気の読めるヤツは大抵してるって。女は体調ひとつで、気分の落ち込みがあったり、イライラしたりする日があるだろう」


「た、確かに、そんな日はありますけど……」


 喉を潤すビールはなく、おつまみもまだきていないので、手持ち無沙汰な状態だった。おしぼりを意味なくにぎにぎしていると、佐々木先輩が目の前で、すごく美味しそうにビールを飲む。


「やらないぞ」


「はい?」


 力のあるまなざしで私を睨む佐々木先輩に、理由がわからなくて首を傾げてみせた。


「モノ欲しげに俺を見てた。そんなに間接キスがしたいのか?」


「ちっ違いますよ! 佐々木先輩じゃなくて、ビールを見ていたんですってば」


 手にしていたおしぼりを放り出し、両手を左右に振って全力で否定した。


「そんなふうに、否定しなくてもいいじゃないか。俺の彼女に立候補したクセに!」


「や、あれは冗談といいますか、そのときのノリというか、そんな感じなんです……」


 俯きながら体を小さくするしかない。仕事が恋人の佐々木先輩に、恋人になりたいですとアピールした時点で、バッサリ断られると思った。それなのに断るどころか、こうして一緒に飲みに行くことになろうとは奇跡に近い。


 そして恋人になれるわけがないという変な自信があるからこそ、変な質問を堂々とぶちかましているところもあったりする。


「冗談であんなことを言える松尾の神経は、やっぱりすごいな」


「佐々木先輩は私から見ても高嶺の花ですし、相手にしてもらえないことくらい、重々承知してます……」


「なに言ってるんだ。俺は断ってないだろ」


 その言葉にギョッとして、慌てて顔をあげる。すると至極真面目な顔した佐々木先輩の右手が伸ばされ、私の頬に触れた。


「さささ佐々木先輩っ!」


 慌てふためきながら頬を染める私を尻目に、細長い指先が頬の皮膚に触れてから、顎のラインをなぞるようにさがっていく。顔をあげてるというのに、佐々木先輩の手に力が込められて、さらに上向かせられた。


「高嶺の花とか言ってるけど、松尾は俺のことを男として意識してないよな」


 メガネの奥の瞳が、意味ありげに細められる。恥ずかしくて視線を外したいのに、この状態では絶対に無理だった。


「こんなことをされたせいで、現在進行形でものすごく意識してますよ! 本当に!!」


「こういう直接的なコミュニケーションをしなきゃ、意識されない俺の気持ち、松尾はなにもわかってないだろうな」


 顎に触れていた手が、おろしている髪の毛に移動した。髪の一束を人差し指にくるくる巻きつけているのを、横目で確認する。



「佐々木先輩の気持ち、というと――」


 私の髪を絡める人差し指から視線を移動させて、佐々木先輩の表情を窺った。さっきから、変な冷や汗が流れている。イケメンからの唐突な接触は、マジで心臓に悪い!


「俺をまったく意識していないから、松尾の口から童貞なんていう言葉が飛び出てくるんだ。というか直接言われたせいで、呆気にとられてしまった。普通は『女性経験はおありですか?』という具合に、うまくボカして訊ねるよな」


 まるで上司から仕事でミスったときのように、くどくど小言を告げられるせいで、私のテンションが一気にだだ下がりする。頬の熱も今はなく、皮膚の緊張感から笑顔も引きつり笑いになっているっぽい。


「松尾がこんなに、おもしろキャラだとは思いもしなかった。だからそうだな……」


 人差し指に巻きつけた髪が、自然と解かれた。フリーになった佐々木先輩の指先が、私の目尻に優しく触れる。


「松尾を泣かせてみたかも」


 そのセリフに即答したかった。「泣かせるなんて、なにをしようと考えてるんですか」って。だけど言葉にできなかった。佐々木先輩の声がいつもより少しだけ低く掠れていて、艶っぽく耳に届いてしまったから。


 目尻に触れている指先から熱が伝わり、顔全部が赤くなる。


「いつも笑顔の松尾が俺を意識して、胸が痛くなるくらいに好きになったときに、苦しくて泣いてしまう顔が見てみたい」


 元彼が同じことを言ったなら、キザなことを言ってんじゃないわよと、ゲラゲラ笑いながら馬鹿にできるというのに、佐々木先輩相手にそれは無理な話だった。


 真剣味を帯びたまなざしから、どうしても目が離せない。


「どうやったら松尾に、好きになってもらえるんだろう。なんだったらこのあと、俺が童貞じゃないことを確かめに行く?」


「むむむっ、無理です。佐々木先輩に見せれるような下着を、今日はつけていないので!」


「プッ! 期待を裏切らないその答え、松尾らしいのな」


(だって本当に、見せられない下着なんだよ。上下がバラバラな上に、色気がまったくない、くたびれたものだという。ちなみに、体型も同様だったりする……)


 佐々木先輩の指先が目尻からもう一度頬に触れるなり、軽く抓ってから手が引っ込められた。その後、おかしいと言わんばかりに笑い倒したあとに、喉を潤すようにビールをあおり、テーブルに頬杖をつく。


「俺は別に、下着なんてものには興味ない。その下がどうなってるのか、気になってるだけだ」


「その下って、佐々木先輩ってばエロい!」


「ほほぅ、俺の言葉のどこら辺がエロいのか、松尾にきちんと説明してほしいな。具体的に!」


 こうして佐々木先輩に散々からかわれたせいで、元カノのことを煙に巻かれてしまった私。口達者な先輩を相手にしている時点で、勝敗が決まっていたのだった。

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