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episode = 33; // アルバム


 一人取り残された僕は、沢山のクエスチョンマークを頭の中で抱えたまま、家に向かい歩き出した。


 「白亜」という名を持つ、寂しげな少女。僕はその子のことを知らない。


 そもそも、さっきの大人の女性は何者なんだろうか。僕の名前を知っていたから赤の他人ではないはずだ。それなのに思い当たる節はない。でも、どこかで見覚えがあるような気もする。そんな曖昧でもやもやとした感覚が燻っている。


 歩きながらポケットからスマホを取り出し、メッセージを書いて宮野に送った。


『白亜という女の子を知ってる? 学校にそういう名前の生徒いるかな?』


 生徒会の集まりの最中なのだろう、既読はすぐには付かない。スマホをポケットにしまい家路を辿る。


 僕の家の近所に、「水無月」という表札を掲げた家がある。二階建ての古めかしい木造住宅で、晴れ渡る青空の下でもそこだけはどこか陰気な影を纏っているような、薄暗い印象の家だ。住人は中年の男性が一人で、近所付き合いはなく、町内会の集まりなどにも全く顔を出さないらしい。当然町会費も払っていないから、町内のゴミ捨て場にゴミ出しをさせないようにする案も出たようだけれど、誰もその家の住人と関わりたくないからか、実現したことはないそうだ。


 そんな水無月家の前を通り、自宅の前まで辿り着いたところで、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して、画面を点ける。先ほど送ったメッセージに対する宮野からの返信が来ていた。


『白亜? うーん、印象的な名前だから知ってたらすぐに思い当たると思うけど、ちょっと分かんないな。名簿をざっと見てみたけど、そういう名前の生徒はうちの学校にはいないみたい。卒業生だったら分かんないけど』 


 名簿まで確認してくれたのか。宮野の律儀な性格に感謝の気持ちを感じていると、すぐに次のメッセージが来た。


『っていうか、カノジョに別の女の子の名前を聞くとかどういう意図なのかなー?』


 特に意図なんてなくて、人付き合いの多い宮野なら知っているかもしれない、と単純に思っただけなんだけど。気に障ったのなら謝った方がいいんだろうかと入力欄をタップしたところで、また宮野からのメッセージが届く。


『カノジョって自分で書いちゃった! なんか照れるね! 近くに生徒会のメンバーもいるから表情に出せないけど、うれしはずかしで机の下で足をパタパタしてるよ。無表情のまま!』


 どうやら心配することはなさそうだ。撫でられた犬が喜んでシッポを振るように、足をバタつかせている宮野の姿が頭に浮かび、笑みが零れる。


『仕事中にごめん、ありがとう。生徒会がんばって』


 簡単な文章を書いて、送信ボタンを押した。


 家に入り、階段を上がってバッグを自室に置いてから、居間に下りて冷蔵庫を開ける。麦茶のボトルを取り出してコップに注ぎ、一息に飲み干した。そして、考える。


 あの謎の女性が僕に見せた、白亜という少女のことを。


(本当のことが、あなたにとって幸せなことなのか、私には分からない。けれど、このままでいることが正しいことのようにも思えない)


(真実を知ることは、とても苦しいことかもしれない。でも私は、あなたに、もう後悔をしてほしくないの)


 「本当のこと」、という言葉を、あの人は使った。「真実」という言葉も。


 それはまるで、今のこの僕が、この時間が、この現実が、この世界が、嘘だとでも言うような話しぶりだ。


 あの女性が、僕の名前を知っているだけの、虚言癖のあるおかしな人という可能性も考えてみた。けれど優しく落ち着いた立ち振る舞いや、どこか寂しげな静けさを纏った雰囲気は、とても狂人のものとは思えなかった。


 考えても分からなければ、忘れてしまおうか。このまま、何事もなかったようにスルーしてしまえば、やがてこの不思議な違和感も忘れていって、これまでと変わらない、それなりに幸福な日常を送れるはずだという実感がある。


 けれどそれと同時に、当たり前の日常の中に差し出されたこの違和感が、忘れてはいけない、目を逸らしてはいけない「真実」に繋がる唯一の手掛かりのようにも思えてしまう。「白亜」という少女の寂しげな顔を思うと、心がざわざわと不穏に波立ち、何かしなくてはという焦燥に駆られる。でも、一体、どうすれば――


 思考の袋小路に迷い込んだ僕の目に、食卓の端に置かれているフォトアルバムが映った。いつもこの食卓で食事をしているのに、これまで気にも留めなかったのはなぜだろう。いや、逆に、今この瞬間に現れたようにも思えたのは気のせいだろうか。そもそも僕はあのアルバムを食卓に置いた覚えがない。


 手に持ったままだった空のコップを流しに置いて食卓に歩み寄り、その分厚い図鑑のようなアルバムに触れる。白い表紙は古びて黄ばんでいて、誰からも忘れ去られた寂しさを歌っているように思えた。


 表紙を開くと、最初に貼られていたのは、見覚えのない大人の女性が、その腕に赤子を抱いている写真だった。その写真の下に、僕の生年月日と「蒼、誕生」と書かれている。


 ……いや、待て、見覚えがない? 嘘だ。


 僕は顔を近付け、その写真を凝視する。


 黒く艶やかな、真っ直ぐな髪。優しく浮かべた微笑み。


 ついさっき道端で僕の名を呼んだあの不思議な女性と、そっくりじゃないか。


「そんな、バカな……」


 この写真の女性は、僕の母親だ。僕が二歳の時に亡くなったそうだから、その顔も声も記憶にはないけれど、病院のベッドで赤子を抱いていることや、下に書かれた「蒼、誕生」という文字から、僕の母親であることに間違いないだろう。


 何枚かページを捲っていく。小さな僕と一緒に写る母の写真がいくつもあった。そのどれもが、先ほどの女性とまったく同じ容貌をしていた。


 家を飛び出してさっきの女性を探したい衝動に一瞬駆られたけれど、探したところで見つかるはずがないという直感にも似た諦めが足を止めた。


 あの女性は、僕の母親だ。それは間違いない……と思う。


 けれど、僕の母親は十五年も前に死んでいるんだ。それなら、僕は幽霊と会話していたとでもいうのだろうか。でも握った手の感触は実体を伴った温かさを持っていた。……これまで幽霊に触れたことはないから、幽霊ではないと断定する根拠にはならないかもしれないけれど。


 混乱する頭のまま、アルバムのページを進めていく。ある時期から母が写らなくなり、幼い僕も笑顔を失ったように見える。やがて幼児だった僕は、小学生になった。入学式の日にランドセルを背負い、校門の前で撮影した写真では、仏頂面をした僕が一人で立っている。次のページには、公園のような場所で遊んでいる写真があった。僕が一人きりで写っていて、僕の横には不自然な空白がある。本当はそこにもう一人が写っていたけど、消されてしまったかのような空白だ。


 その後のページにも、僕が一人で写っている写真が何枚かあったが、小学二年くらいの時期で写真が途絶えている。それ以降のアルバムのページはずっと白紙だ。父が写真を撮るのをやめたのか、撮っていたとしてもここに貼るのをやめたか、どちらかだろう。


(生きるって、とても難しいことだね)


(でも私は、あなたに、もう後悔をしてほしくないの)


 さっき言われた言葉が、頭の中でリフレインする。


 アルバムにいくつも貼られた写真の中の母は、いつだって小さな僕を愛おしむような、優しい笑みを浮かべていた。


「後悔って、なんなんだ。真実ってどこにあるんだよ……」


 誰に聞かせるでもなく、言葉を呟く。


「僕は、どうすればいいんだよ、母さん……」


 当然のように返事はなくて、ただ静かな戸惑いだけが、冷たい水のように胸を満たしていった。


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