放課後、宮野は生徒会の仕事があると言い早々に教室を出ていった。袴田とも別れを告げ、部活に所属していない僕は下校のために荷物を準備する。そんな時、クラスメイトの女子たちの会話がふと耳に入った。
「えっ、あの謎の広場、遊園地ができるの?」
「そうそう、土地の所有者が長いこと持て余してたみたいなんだけど、もったいないからって、来年から着手するっぽいよ」
「マジー!? 超楽しみ! できたら絶対遊び行こうよー」
「ね、気になるよね。完成するのは卒業後になるかもしれないけど、行こうね」
話を聞いていると、どうやら僕が昨日立ち寄った空き地の話題のようだった。あの、中央にベンチが一つだけぽつんと設置されている不思議な空間。そうか、あの場所には遊園地が出来るんだな。完成したら宮野と一緒に遊びに行くのもいいかもしれない。
バッグを背負い、廊下を歩き、靴を履き替えて校舎を出た。考え事をしながら帰路をぼんやりと歩いて行く。
相対性理論を確立した理論物理学者アルベルト・アインシュタインは、こんな言葉を残したらしい。
――現実は錯覚に過ぎない。とても根強いものではあるが。
僕らが暮らしているこの世界の全てが、高度なコンピュータ内で実行されている仮想的なもの、シミュレーテッドリアリティである、という仮説があると聞いたことがある。確か、ニック・ボストロムという哲学者が提唱したのだったか。
そのシミュレーション世界の中での住人は、自分たちがシミュレートされている非実在の存在だとは気付かないまま生活している。物質世界の中で実在を持ち、自らの意思で行動し、生きていると、疑うこともなく考えている。
でも時折、現実では説明のつかない、「おかしなこと」が発生する。
例えば、鳥が羽ばたくこともなく空中でピタリと静止していたり、手が滑って落とした鍵が別の人のポケットから出てきたり、事故に遭ったと思われていた飛行機が数十年後に突然現れたりする。これらの不可思議な事象が、世界をシミュレートしているコンピュータやシステムの欠陥――「バグ」なのではないか、と考える人もいる。
世界がシミュレーションなのだとしたら、それを作った高度な知的生命体は、一体何のためにこんなことをしているのか。何らかの研究なのか、ただの娯楽なのか、それとも我々には想像も及ばない理由なのか。被造物に過ぎない僕らには、それを知る術はない。
「現実は錯覚に過ぎない」というアインシュタインの言葉が、これらのシミュレーション仮説のことを言っているのかは分からないけれど、通じるものはあるように思う。
僕らの上位存在がこの仮想世界を運用しているのだとしたら、それはこの世界一つだけじゃなく、
「他の可能性の世界」、いわゆるパラレルワールドをいくつも並行して運用している可能性もある。前述の「おかしなこと」に加えるとすれば、パラレルワールドから迷い込んだ男の話が都市伝説的に残されている。
もし、この世界がシミュレーションだとして、同時にパラレルワールドも存在するとして、異なる二つの世界――「宮野とデートした昨日」と「定期テストを受けた昨日」が、何らかのバグで交差、融合して、記憶が併存していると考えれば、この違和感にも納得ができる。……何重にも現実離れした考えだけれど。
あるいは、その二つの記憶も含めた、これまでの僕の人生全てさえもが作り物の紛い物で、本当の僕はどこか暗い場所でうずくまっているんじゃないか。そんな風に考え出すとぞっとした。
僕を好きだと言ってくれる宮野。彼女の朗らかな笑顔や言葉を思い浮かべると、心が温かくなる。僕だってこの現実を、この世界を、この命を、本物だと信じていたい。
でも、この幸福で順調な現実が覆い隠している「何か」があるような気がしてならない。
そして、そこに、とても大切なものを置いてきてしまったような、曖昧で漠然とした微かな焦燥のような感情が、ずっと胸の奥で燻り続けている。
そんな風に取り留めもなく考えながら自分の足元だけを見て歩いていたら、不意に別の人の足が視界に入って慌てて立ち止まった。
「わ、すみません、前を見てなくて……」
一歩下がって視線を上げると、そこにいたのは大人の女性だった。二十から三十代くらいだろうか、艶やかな黒い髪を肩まで伸ばし、落ち着いた雰囲気で、綺麗な人だなと自然に思ってしまう。知らない人だけど、どこかで見たことがあるような気もする。
女性は僕の顔を見て、優しく微笑んで言った。
「こんにちは」
「こんにちは……」
「元気でやってる?」
「えっと、まあ、それなりには」
学校の関係者か、家の近所の人だろうか。知り合いなら早く思い出さないと失礼になってしまう。
その人は、ふふ、と小さく笑いながら、
「そんなに警戒しないでよ」
と言った。態度に出てしまっていただろうか。
「す、すみません」
「じゃあ……あなたは、今、幸せ?」
そう訊かれて、自分の中の警戒度が急上昇した。宗教関連の勧誘だったら面倒だ。否定したら怪しいグッズを勧められたりするんだろうか。
「……はい、幸せですけど」
「それなら、よかった」
女性の微笑みに、ほんの少し寂しげな気配が混ざったのが見えた。
「あの、すみませんが、急いでいるので失礼します」
小さく頭を下げて歩き去ろうとすると――
「蒼」
女性から名前を呼ばれ、驚いて足を止めた。やはり知り合いなのか?
「生きるって、とても難しいことだね」
「え?」
「本当のことが、あなたにとって幸せなことなのか、私には分からない。けれど、このままでいることが正しいことのようにも思えない。人格の集合体なんてものになっても、何が正解かなんて、ずっと分からない」
女性は右手を上げ、握手を求めるように僕の方に差し出して、続けた。
「だから、蒼、あなたに選んでほしい。ほんの少しだけ道を示すから、私の手を取って」
この人が何を言っているのか分からない。けれど、さっき言った「本当のこと」という言葉が、僕が抱えている違和感と繋がるような気がした。
僕は自分の右手を見る。少し、震えていた。心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。
もしかしたら、今の幸福な現実が覆い隠している「本当のこと」が明かされるのだろうか。
もしこの現実が錯覚なのだとしたら、この世界が嘘なのだとしたら、その張りぼての先にある真実は、一体どうなっているのだろう。それを知るのは怖いと思う。けれど、知らなくてはいけないという焦燥にも似た感情が、体の内側から溢れてくる。
右手を伸ばし、女性の手に近付ける。女性が僕の手を、優しく握った。温かな体温が僕の右手を包む。
その瞬間、頭の中に一人の女の子の顔が浮かんだ。見覚えのない顔で、右頬に傷があり、寂しげな表情を浮かべている。
――白亜。
心の中で声が聞こえた。これは、自分の声。僕の中に眠る僕が、知らない少女の名を呼んだ。
この子は、白亜というのか? なぜこの子の顔が浮かぶ? これが隠されている「本当のこと」なのか?
握られていた手が離される。代わりに手に触れた外気が、なぜか冷たく感じた。
女性が言う。
「……見せるのは、ここまで。真実を知ることは、とても苦しいことかもしれない。でも私は、あなたに、もう後悔をしてほしくないの。だから、この先は、あなたが選んで。私も全ての権限を持っているわけじゃないけれど、できるだけのことはするから」
そして、呆然と立ちすくむ僕を残し、女性はどこかに歩き去って行った。