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episode = 31; // 本物だって思いたいよ


 朝、自室の布団の中で目覚めた。


 カーテンがないから、朝になると眩しい光が射し込んで、目覚ましよりも早く起きてしまう。早くカーテンを買わないと、と思ってはいるけれど、こうして日の出と共に起きるのも悪くないかもな。


 一階のキッチンでトーストと目玉焼きを一人分用意して、コーヒーを淹れた。トーストの上に目玉焼きを乗せて塩コショウを振り、コーヒーにはたっぷりと牛乳を入れてカフェオレにする。簡単に朝食を済ませて、思い出したように中間テスト対策の勉強をした。


 制服に着替えて通学用のバッグを持ち、靴を履いて家を出る。陽射しは既に夏の様相を呈していて、これから訪れる暑い季節を思ってため息をついた。


 高校に向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。


「よう、如月ぃ」


 振り返ると、クラスメイトの袴田が、まだ眠そうな顔で頭を掻いていた。


「おはよう、袴田」


「はよー、今日もテストだりぃなぁ」


 袴田は一年の時から何かと絡んでくるから、いつの間にか友人のような関係性になっていた。


「あはは、でもその分早く帰れるんだから、僕は嫌いじゃないけどな」


「うへ、テストが嫌いじゃないとか、マジメくんかよー。どうせ如月は対策もばっちりなんだろうなぁ」


「そういうお前はどうなんだよ」


「オレがテスト対策するようなキャラに見える?」


「見えないね、まったく」


 僕が答えると、彼は「だろぉ?」と言って笑いながら僕の背中をバシバシと叩いた。痛い。


 袴田と他愛もない雑談を交わしながら歩くと、校門の辺りで宮野の姿を見つけた。宮野もこちらに気付いたようで、笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。


「おはよう、如月くん!」


「おはよう」


「おい、オレには挨拶はないワケ?」


 不服そうな袴田に、宮野は「あれ、あんたもいたの?」と大げさに驚いて見せた。僕たちが付き合っているのは校内では秘密にしているのだから、あまり扱いの差を見せつけるようなことはしないでほしいとヒヤヒヤしてしまう。


 三人で教室に入り、それぞれの席に着く。隣の席である宮野は、ニコニコと満面の笑みを湛えてこちらを見つめてくる。


「な、なんだよ……」


「んー? ふふふー、なんでしょうー」


 周りには他の生徒もいるっていうのに。僕はスマホを取り出して、LINEにメッセージを書き込む。


『付き合ってることは学校では秘密って言ったのは君だろ? 態度を露骨にすると怪しむ人が出るからやめた方がいいって』


 宮野とは、今月の初めに体育館裏に呼び出されて告白され、付き合うことになった。彼女のテンションの高さに疲れることもあるけれど、その自由奔放な明るさや優しさには救われることも多い。


 僕が送ったメッセージを見て、宮野も返事を送ってきた。


『えー、別にこれくらい普通じゃない? それより昨日は楽しかったね!』


『まだ言うのw 昨日も帰ってから散々LINEしたじゃん。それより、生徒会副会長である君が、昨日は本当に中間テストをサボって大丈夫だったの?』


『え? テストは受けたよ? あれ? でも如月くんと朝から待ち合わせしたような……?』


 隣に座る宮野は首を傾げている。僕もなぜか、昨日のことを思い出そうとすると記憶が混濁する。朝から出かけて、二人で服を買って、映画を観て、お昼にハンバーガーを食べて、その後遊園地に……あれ、遊園地なんてこの辺にあったっけ? そもそも昨日は中間テストで英語・数学・日本史を受けたはず……と、こんな具合だ。よく分からないけれど、宮野とデートした僕と、学校に来てテストを受けた僕、二人分の記憶が混ざって曖昧に共存しているような感覚。


『まあ、細かいことは気にしない! テストも受けたし、デートもしたってことで、一粒で二度美味しいみたいな!』


『テストは美味しくはないだろ……』


『お、じゃあデートは美味しかったってことね?』


 宮野のフリック速度はとても速い。目にも止まらぬ指さばきで、いつも瞬時に返事が来る。僕は少し考えて、文字を打ち込んだ。


『美味しかったという表現が適切とは思わないけど、まあ、楽しかったよ』


『やったぜ! 不束者ふつつかものではございますが、これからも末永く宜しくお願いいたします』


『その定型文はいろいろ吹っ飛びすぎだから』


 突っ込みつつも、胸の中が温かくなっていく。


 そんなことをしていると、教室の扉が開いて担任の島田先生が入ってきた。二人で慌ててスマホをバッグにしまう。先生は重そうな体を揺らして教壇に立ち、ハンカチで顔に流れる汗を拭いた。



 授業中、退屈な授業を適当に聞き流しながら、物思いに耽っていた。


 これまでの人生、特につまづくようなことも、深く傷つくようなことも、心が折れるようなこともなく、普通に、平凡に、無難に、ここまで歩んできた。高校生になってかわいい恋人もできて、順風満帆と言ってもいいくらいだ。


 でも、時折思う。


 心の奥の深いところ、注意して意識しなければ簡単に見落としてしまいそうな部分に、微かな違和感を抱え続けている。


 どこか紛い物のような、誰かに用意されたシナリオのような命。


 これは本当に、「僕」の人生なのだろうか。


 「如月蒼」という存在は、これで合っているのだろうか。


 何かとても大事なことを、見落としてしまっているんじゃないか。


 でもそんな心の奥の違和感を見つめ続けていると、とても深く、暗い所に引きずり込まれてしまいそうで、恐ろしくなる。だからいつも、考えることを放棄してきた。


 でも今は――


「おい、如月、聞いてんのか」


 突然教師に名前を呼ばれ、我に返る。


「あ、えっと……」


 すかさず隣の宮野が小声でフォローしてくれた。


「教科書のここ、朗読だってさ」


「あ、ありがとう」


 おかげで事なきを得た。この教師は怒ると面倒なので、もっと気を付けなければいけなかったと反省する。


 無事に授業が終わった後、休憩時間に宮野が話しかけてきた。


「如月くんどうしたのさ、ぼーっとしちゃって」


「いや、ちょっと考えごとをしてて……」


「ふうん? もしかして、あたしのこと?」


「違うよ……」


 誰もまともに取り合ってくれなさそうな内容だけど、宮野になら話してもいいような気がした。幸いクラスは休み時間で騒がしく、他の生徒に話を聞かれてしまうことはなさそうだ。


「なんかさ、自分の人生とか、存在が、本当のものじゃないんじゃないかって、そんな気がすることない?」


「うーん?」


 思った通り、宮野は腕を組んで真剣に考えてくれている。彼女のこういう律儀なところ、とてもいいと思う。


「ちょっと哲学的でよく分からないなぁ。例えば、どういう時?」


「例えば、今朝LINEで話したような、昨日デートした自分とテストを受けた自分、二人分の認識が重なっているような感覚。それってもしかして、本当の記憶と、作り物の記憶、その二つが混ざってるんじゃないかな、って」


「ううむむ。昨日の件は確かにあたしも不思議に思ってるけど……」


「でしょ?」


「でもそれって、どっちが本当の記憶なの?」


 急に宮野がずいと顔を近付けてそう訊いた。僕は驚いてのけぞる。


「え……」


「如月くんとデートしたあたしと、テストを受けたあたし、どっちが本物なの?」


「それは、分かんないよ」


「テストはちゃんと受けたはずだし、今日、先生からも昨日の欠席を怒られてない。でもデートがめっちゃ楽しかったっていう記憶もあるし、スマホに写真も残ってる。片方がホンモノで、もう片方がニセモノなら、あたしは如月くんとデートした自分を本物だって思いたいよ。でもそうすると、昨日はテストを受けてないってことになっちゃうし、それは困るよ」


「そう、だね」


 僕だって、昨日の宮野とのデートが偽物の記憶だなんて思いたくはない。それに、その時の光景も感触も感情も、音や味や匂いだって、偽物だと考えるにはあまりにも鮮明なリアリティを伴って思い出すことができる。


 どちらも本当の僕の記憶で、何かの偶然で昨日だけパラレルワールドが交差した、と考えた方が自然なくらいだ。


 やはり、考えれば考えるほど分からなくなるし、考えてはいけないことのようにも思えてしまう。


 優しく笑って、宮野は続けた。


「別にさ、昨日がちょっと変だとしても、あたしたち困ってるわけじゃないどころか、得しちゃってるわけでしょ? だから深く考えなくていいと思うんだよ。考えるのは、困った状況になってからでいいと思う」


 宮野の淀みない言葉を聞いていると、自分もそんな気になってくる。深く考えず、もっと気楽に、ただ楽しく、今の幸福を享受すべきなんじゃないか。


 でも、そう思いながらも、この違和感を手放してはいけないと考えてしまう自分もいるんだ。


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