愛しい夢は終わり、閉じた瞼の向こうに、
布団からゆっくり体を起こして、まだ眠い目をこする。目を開けると、まぶしいのは窓にカーテンがないからだと気付いた。
「カーテン……買わないとな」
どうしてカーテンがないのだろう。この部屋は僕が小学生の頃から使っているけれど、ずっとカーテンなしで過ごしていたなんてことはあり得ない。あの窓にかかるカーテンを、朝に開き、夜に閉めていた記憶だってある。でも、今カーテンがない原因を思い出そうとすると、靄がかかったように頭が働かなくなる。
視線を横に動かすと、部屋の隅に来客用の布団が敷いてあり、女の子が眠っていた。
「白亜……?」
「ん……」
僕が名前を呼ぶと、白亜はゆっくり瞼を開き、僕を見た。
「おはよう、蒼くん。……あ!」
白亜は何かに気付いたように声を上げ、布団を引っ張って頭までかぶった。
「寝起きの顔、見ちゃダメだよ」
「ご、ごめん」
咄嗟に謝りながらも、自分も寝起きだからか現在の状況に思考が追い付いていないのを感じる。えっと、どうして白亜が僕の部屋で眠っているんだっけ。ハクアはどうしたんだ? ……あれ、ハクアって誰だっけ?
というか、白亜は、三年前に死んだはずでは――
目の前の現状と記憶との乖離に叫びそうになった時、布団をかぶったまま彼女が言った。
「そっか、離れてると忘れちゃうんだっけ。たぶん今、とっても混乱してるよね。……じゃあ、はい」
そして左手だけを出して、僕の方に向ける。その小指には、銀色のリングがはめられていた。
「……え、なに?」
「いいから、触ってよ。言葉で説明するより、それが早いから」
僕は自分の布団から出て彼女の布団に歩み寄り、しゃがんで、その細い指先に触れた。
「あ、ああ……そうか、思い出した」
「うん」
「……改めて、おかえり、白亜」
「……ただいま」
今、ここに、白亜がいる。それだけで、胸に温かな感情が満ちていく。どうして手を離すだけで、こんなに幸福な気持ちを忘れてしまえるのだろう。
彼女の手を大切に握りながらその幸せに浸っていると、布団がもぞもぞと動いて白亜の遠慮がちな声がした。
「あの、顔洗ったり着替えたりしたいから、手を離してもらってもいい?」
「あ、ああ、うん。でも離すとまた忘れちゃうんじゃ」
「ずっと四六時中手を繋いでるわけにもいかないでしょ? その……トイレとかも、しないとだし。戻ったらまた触ってあげるから」
「分かったよ」
渋々手を離す。自分の中のハクアや白亜に関する記憶が消えてしまわないよう意識しながら、彼女の布団をじっと見つめる。
白亜は布団を少しだけ開き、隙間からちらりとこちらを伺うような目を向けた。
「そんなに見てたら出れないじゃん。あっち向いててよ」
「ええ……しょうがないな」
視界に入らないように背を向けると、
「うん、それでいいよ、ありがと。すぐ戻ってくるから待っててね」
背後で白亜が布団から出る音が聞こえた。大丈夫、まだ分かる。覚えてる。
彼女の足音が部屋の出口に向かっていく。後姿ならいいだろうと、僕はそっと視線をそちらに向けた。背が低く、少しだけ寝ぐせをつけた、白亜の姿が見える。ハクア用に買ったパジャマを着ていて、それだけで胸が甘苦しく締め付けられる。ハクアの時に何度も見ていたはずなのに、彼女が紛れもない白亜なのだと分かっているだけで、こんなに感情が違うものなのか。
うん、分かる。彼女は白亜だ。僕の大切な幼馴染。覚えてる。こんなに強い気持ち、いくらMOTHERに管理されたシステム上の世界であろうと、そんなに簡単に忘れるはずがないんだ。
白亜は扉を開け、部屋を出ていった。今いたのは白亜。そう、白亜。忘れない。忘れない。
「……あれ。何考えてたんだっけな」
何かとても大切なことを考えていたような気がするのに、忘れてしまった。
「とりあえず、顔洗うか」
階段を下りて洗面所に入ると、三年前に死んだはずの白亜がタオルで顔を拭いていた。
「そんな……白亜が、どうしてここに……」
「ああ、もう、待っててって言ったのに――って、それも忘れちゃうのか、不便だなぁ」
亡霊に出逢ったように驚き硬直する僕の手を、彼女はそっと握った。その瞬間、僕は全てを理解した。
「……ごめん。忘れないように頑張ってたんだけど」
白亜は小さく首を横に振る。
「ううん、しょうがないよ、そういう世界なんだもんね」
「でも不便だし、今回みたいな鉢合わせを避けるために、なんとかした方がいいね、これから一緒に暮らしていくんだから」
僕の言葉に白亜はびくんと体を硬直させ、顔を赤らめていく。
「い、一緒に、暮らす……?」
「だって、そうだろ? 君をあの家に帰らせるわけにはいかないし、うちにいてもらうのが一番確実で、安全だ。昨日は同じ部屋で眠ったんだし、いまさら問題ないだろ?」
「き、昨日は、凍結から醒めたばかりなのと、泣き疲れたのとですぐ眠っちゃったけど……一緒に暮らしていくって、そんな、同棲する恋人みたいな……」
「僕はもう、恋人のつもりでいるんだけど……ダメかな?」
僕の手を取ったまま、白亜は「ううう」とうなりながら、顔を隠すようにうつむいていく。そして消え入りそうな小さな声で言った。
「……ダメじゃ、ないです」
「よかった」
胸の奥が温かくなっていく。この幸福を感じられることを、MOTHERに感謝したいくらいだ。
「でも、私なんかで、いいの?」
「今後、『私なんか』って卑下すること、禁止ね。僕は君がいいんだし、君じゃなきゃダメなんだ」
「なんか、蒼くん、変わった気がする」
「そうかな」
うつむいたまま、白亜はうなずく。
「前はこんなに積極的じゃなかったよ」
「うん、そうかも……。前は、苦しさの中にいても、僕らの未来は続いていくって思ってたからかな。でも、一度白亜を失って、世界が終わっていくって知って、そして君がこうして帰ってきてくれて……残された時間が有限だって分かったら、伝えたいことを伝えないのはもったいないって思ったんだ。僕はもう、躊躇も遠慮もしない」
「そっか……」
世界は終わっていく。目の前の少女が理不尽に背負わされた、世界自身の絶望によって。
それなら、僕らに与えられた長くない時間の、一分、一秒でも、ムダにしたくない。
「だから、朝ごはんを食べて、準備して、出かけよう」
「出かけるって、どこに?」
「昨日言っただろ? デートだよ」
「……デート!」
やっと顔を上げた白亜の目が、少し輝いたように見えた。
*
朝食後、二人で家を出て、手を繋いだまま歩く。
空は僕らを祝福するような快晴で、時折吹く初夏の風が気持ちよく、隣の白亜の髪をさらりと撫でる。その光景だけで、この胸はいとも簡単に幸福で溢れていく。
「そういえば蒼くん、学校は行かなくていいの?」
楽しさと緊張を混ぜ合わせたような表情で歩きながら、白亜がそう言った。登校時間は過ぎているから人通りは少ないけれど、今日は火曜日で、いたって普通の平日。白亜の疑問はもっともだ。でも。
「やがて世界が終わるって分かった上で、大切な人を家に残して登校するほど、僕は真面目じゃないんでね」
「わ、不良だ」
「学校に行ってる時間よりも、白亜と一緒に過ごす時間の方が遥かに大事ってことだよ」
「そ、そっか。積極的な蒼くんはすごいね……。ところで今日はこれから、どこに行くの?」
「全部だよ」
「全部?」
「これまで二人でやれなかったこと全部、これからやっていくんだ。今日だけじゃなく、これから世界が終わるまで、毎日」
「毎日かぁ、体力もつかなぁ」
言葉とは裏腹に嬉しそうな表情の白亜を見て、心が躍る。さあ、まずは何からしようか。