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episode = 22; // ごめんね


 足を引きずるように力なく進む足取りは、中学校の通学ルートに差し掛かった。やがて灰色の校舎が見えてくる。


 たった数年前のことなのに、中学時代のことを思い返そうとしても、全体的に霞がかったように曖昧でおぼろげになっている。自分の中にあるはずの記憶を慎重に掘り起こすように、細い糸を手繰り寄せていくように、微かな思い出の欠片を繋ぎ合わせていく。


 誰もいないグラウンド。それを囲う緑のネット。並び立つ桜の樹。薄汚れた校舎の壁。静かな怪物みたいに佇む体育館。


 この場所にいい思い出なんて一つとしてないはずなのに、どれも泣きそうなくらいに懐かしく感じる。それは、きっと、君がかつてここにいたという記憶の残滓が、僕の中で疼いているからなのだろう。


 中学の制服姿を初めて見た時、一気に大人っぽくなったように感じて戸惑った。自分はまるで子供のままなのに、君だけが少し先に行ってしまったようで。けれど実際は昨日までと同じで、臆病で、人見知りで、底なしに優しくて、泣きそうな顔で微笑む君のままだった。そのことに、ちょっとだけほっとしたんだ。


 君はいつも僕の近くにいて、後ろをついて来るように歩いた。はたから見たらまるで親鳥とヒナみたいだ。守らなきゃって思ってたし、そして、僕も、君が離れていくのを恐れていた。


 始まりも覚えていない、でもいつからか確かに心の中にあって、消えない炎のように僕に生きる意味を与えてくれていた、君への想い。


「そうだ……まだ、僕の中にある。消えてない」


 今もなおその炎は、心の奥底で燻りながらも熱を絶やしてはいないのが分かる。


 どうして忘れてしまったのか。彼女の存在や僕の記憶を消したやつが何者なのか。それはまだ分からない。でも。


「消えてない。消させるものか」


 僕という存在の根幹をなしているこの大切な想いだけは、何者であろうと消せるものか。



 中学の敷地にはさすがに入れないので、校門の前で引き返して、別の道を行く。確か校舎の近くに、当時の担任の家があったはずだ。名前は、えっと……ダメだ、思い出せない。


 やがて、古びた二階建ての一般住宅に辿り着いた。トタンの外壁は醜く錆び付いていて、長い間手入れされていないのが見て取れる。表札を確認したら、「木之元」と書いてある。こんな名前だっただろうか。


 表札の下にある呼び出しボタンを押してから、今日は月曜だから、放課後の時間とはいえ教師が家にいることはないということに気付いた。戻ろうとした時、玄関の扉が開いて、四十代くらいと思われる男性が現れた。中肉中背、目立った特徴はないけれど、柔和な表情が親しみを感じさせる人だ。


「おや、君は、如月くんじゃないかい?」


 男性が僕の顔を見てそう言った。その途端、自分の中の先生の記憶が次々と思い出されてきた。そうだ、担任の木之元先生。少し気弱だけど穏やかな物腰で、生徒からも人気があった。どうして忘れていたんだろうか。


「木之元先生、学校じゃないんですか?」


「あはは、今日は創立記念日で中学校はお休みなんだよ。それよりもどうしたんだい、卒業生が急に訪ねてきてびっくりしちゃったよ」


「あ、えっと」


 ズキン、と頭が割れるように痛んだ。


 ――おかしい。この家に住んでいた教師は、僕が消したはず。


 いや、待て、消した? 何を考えているんだ僕は。……でも、指輪に触れて見えた映像の中でも、▒▒▒に頼んで▒▒▒先生を消してもらったはず――。頭痛がひどくなり、頭を抱えた。


「おい、どうした如月くん、大丈夫か?」


 木之元先生が心配そうに僕の体に触れようとするのが分かり、それがなぜか恐ろしく感じて一歩下がった。


「すみません、大丈夫です……。あの、先生、水無月白亜という生徒を覚えていますか?」


「ミナヅキハクア?」


 先生は腕組みをして、記憶を探るように斜め上を見上げ、「うーん」と唸っている。やがて諦めたように腕を下ろした。


「いや、すまん、先生は関わった生徒は全員覚えてるんだが、そのミナヅキハクアっていう名前の子は知らないな。誰なんだい?」


「いえ、いいんです……。すみません、突然、お邪魔して」


「具合悪そうだけど、本当に大丈夫なのか? 中で休んでいくか?」


「大丈夫です。失礼します」


 小さく頭を下げ、逃げるように足早に歩いた。物陰に隠れてしゃがみ込み、頭痛と動悸が治まるのを待った。


 自分だけが異質な存在で、世界から監視されているような気分だった。



 頭痛が治った後、中学校舎から家に向かって白亜と二人で歩いた帰り道の映像を思い浮かべながら、その記憶を辿るように歩いた。


 十分ほど行くと、先ほど訪れた水無月家が見えてくる。記憶を辿ってきた今なら分かる。やはりあの家は、白亜の家なんだ。玄関の前で手を振って別れたイメージを思い浮かべることができる。


 でも父親であるはずのあの男は、白亜を知っている様子はなかった。木之元先生も白亜を知らなかった。それはつまり、僕だけが白亜を忘れているのではなく、世界全部が白亜を忘れている、と言えそうだった。


 水無月家の前に立ち、二階の窓を見上げる。今は厚いカーテンが引かれているけれど、そこが白亜の部屋だった。先ほどの感じから、再度呼び鈴を押せば本当に警察を呼ばれてしまうだろう。白亜の父親に頼るのはやめた方がよさそうだ。その場から離れ、再び当てもなく歩き出した。



 歩きながら考える。


 僕は一体、何をしたいのだろう。


 白亜のことを思い出したいのは、当然ある。とても大切な記憶を失ったのだと分かるから。


 でも、思い出して、どうなる?


 白亜は、この世界には、いない。


 右手の中の持ち主のない指輪を、改めて強く握りしめる。


 白亜はどうなった? なぜこの世界にいない?


 彼女は悲しんでいた。自分が傷付くことを。


 そして、彼女が傷付くことで、僕が悲しむことを、何よりも悲しんでいた。


 体内にじわじわと血が巡っていくように、記憶が少しずつ繋がり合っていく。


 足が止まる。雨音が強くなる。呼吸が荒くなっていく。両手で頭を抱える。


 彼女は傷付けられていた。様々な物事から理不尽に追い詰められていた。


 そしてあの日、僕の目の前で、首を――



 体から力が抜け、僕は雨に濡れるアスファルトに膝をついた。


 白亜は自ら死を選んだ。自分が際限なく傷付けられるせいで僕が傷付いていくことを、自分を消すことで終わらせたんだ。


 そしてその認識が、次々と連鎖的に記憶を呼び起こしていく。白亜がバグとして再生成されたこと。この世界が並行シミュレーションの一つであること。MOTHERのこと。バグを凍結すると言っていたこと。


「ああああああああああああああああああああ!!!」


 気付くと僕は天に向かい、吠えるように絶叫していた。柔らかな棘のような雨が目や口に入る。でもそんなもの気にもならなかった。


「MOTHER!! 聞いてるんだろう!!」


 この世界は、全てが紛い物。意味もなく滅びと再生を繰り返しているデータだけの存在。そんなニセモノの世界で、人は悲劇を繰り返し続けている。


 喉が裂けそうなほどの大声で、どこにいるとも知れないそいつに呼びかける。でもきっと、世界そのものであるそいつは、どこにでもいる・・・・・・・んだ。


「自分の世界に絶望して、バグを生み出して無責任に放置して! 急に現れたと思ったら、こっちの話も聞かずに彼女を凍結して! それでこの世界はどうなったんだよ! 何か変わったのかよ!!」


 雨なのか自分の涙なのか分からない液体が、目元から溢れ続けている。声を張り上げて僕は続ける。


「今日もどこかで争って、殺して、欺いて、奪って、傷付け合って、誰かが泣いてる! 人間は愚かで、世界は醜いままだ! いくらバグを閉じ込めたって、人間は次々に悲劇を生み出すぞ! 絶望は永遠になくならない! あんたが出した結論の通り、終焉だけが救済だ!!」


 そして雨粒と悲しみに満ちた空気を肺に取り込み、最後の言葉を言い切る。


「こんな世界! さっさと終わらせろ!!!」


 その時突然、僕の前に一人の大人の女性が現れた。白亜の母親とも違う、見覚えのない顔だ。綺麗な人だ、と思ってしまう。


 その人は、泣き出しそうな顔をしてこちらに歩み寄り、地面に膝をついたまま驚きで言葉を失っている僕を、胸元に優しく抱きしめた。そして、絞り出すような声で、言った。


「……ごめんね」


 僕にその言葉の意味は汲み取れなかった。何のことか訊こうとした時には、女性はもう消えていた。


 呆然としたまま一人雨に打たれる。意味が分からない。でも、もしかしたら――


「母、さん……?」


 ふと違和感を感じて視線を下げ、僕は再度驚くことになる。



 そこには、白亜が倒れていた。


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