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episode = 21; // 思い出せ


 家に着くと、着替えもせずに階段を上り、自分の部屋に入った。


 何も考えられない。心の中の虚無が僕という存在を食い尽くそうとしている。この恐ろしいほどの虚しさを、早く終わらせてしまいたかった。


 足を引き摺るように部屋を歩き、学習机の前に立つ。ペン立てに入っているカッターを手に取ったが、なぜか先端が切り取られたようになくなっていた。


「なんだ、これ。いつの間に……?」


 カッターの刃は金属だし、本体はプラスチックで出来ている。その両方が、つるりとした綺麗な断面を晒している。まるで、そこから先だけ別の空間に飲み込まれてしまったような……。こんなことがあるだろうか。いや、考えても分からないし、今重要なことはこれではない。


 仕方ないので、机の引き出しを開けて、中に入っていた彫刻刀を取り出した。切り出し刀を両手で持ち、鋭利な刃先を自分の首に向ける。


 恐怖も、未練も、何もない。この刃を喉に突き刺せば、空虚なこの命を終わらせることができる。それだけを考えていた。


 両腕に力を入れようとした、その時――視界の端でキラリと光る小さな物が見えた。


 あれは……そうだ。一昨日の土曜日、なぜかこの部屋に敷いてあった来客用の布団を片付けようとした時、布団から転がり落ちたんだった。その後近所のお婆さんが訪ねて来て長話に付き合わされている間に、すっかり忘れてしまっていた。


 あの指輪を、拾わなくてはいけない――。自分の中の無意識な声が、そう告げたような気がした。


 気になったので彫刻刀を机の上に置き、指輪が落ちている壁際まで歩いた。近くにしゃがむと、銀色のシンプルなリングに、小さな透明の石がはめ込まれているのが見えた。


「なんでこんなものがこの部屋に……」


 僕の知らない間にこの部屋に誰かが寝泊まりしていて、その人が落とした物――という可能性を考えたけれど、すぐに否定した。だって僕はずっとこの部屋で一人で眠っている。


 覚えのない布団に、覚えのない指輪。そして、何か途方もなく大きなものを失ったような、この空虚。


 何かがおかしい。一体何が起きているというんだ。


 僕は右手を伸ばし、床に落ちている指輪を摘まもうとした。そして指先が銀色のリングに触れた瞬間――


「うっ……⁉」


 バチン、と脳内で電流が走ったように痛みが弾け、見たことのない光景が早送りの映像のように頭の中で流れる。


「なんだ、これ……」


 知らない少女が映像に映る。右の頬に傷があって、人見知りで、卑屈で、でも僕の前では自然な表情をしてくれていた。


 夏祭りの屋台。整然と並んで煌めくいくつもの指輪と、それを見て目を輝かせる少女。家まで送って別れた後、一人で急いで買いに走ったこと。


「こんなの……知らない……」


 まるで自分以外の誰かの記憶を植え付けられているような気分だ。でもそれでいて、失くしてしまった欠片の一部が心に戻っていくような感覚もある。


 頭の中の映像は高速で流れ、次々にシーンを切り替えていく。少女の葬式。廃屋での再開。彼女の指にリングをはめたこと。


「あ、ああ……」


 君の手を離さないように、雨の中を二人で歩いた。


 中学時代の教師の家。恐怖に引き攣る顔。そして、僕の指示で音もなく消える人間。


 熱でうなされる少女。突然現れた大人の女性。そして――


「ああああああああああああ!」


 気付くと指輪を握りしめたまま、頭を抱えて床の上にうずくまりながら叫んでいた。ドクドクと暴れる心臓の鼓動が耳にまで聞こえるようだ。


 映像は途絶え、乱れた息を整えた。


 僕は忘れている。とても大切なことを。いや、「忘れさせられた」んだ。


 さっき見えた映像が、自分の記憶なのだろうということは想像がつく。でもそれが自分の中に戻ったという感覚はなかった。「消された記憶を細切れにして早送りの映像として見させられた」という表現が近い。自分のもののはずなのに、心の中に異物を放り込まれたような気持ち悪さがある。


「ミナヅキ、ハクア……」


 消された記憶の中では、僕はその白亜という名の少女といつだって一緒だった。その少女が大切だという感覚は失われたままだけれど、とても大切だったのだろうと、自己の根幹を失ったような今の僕には容易く想像できる。


 手の中に握り締めていた指輪をズボンのポケットに入れ、僕はゆっくりと立ち上がった。この近所に、水無月という表札を掲げた家があるのを思い出した。さきほど見た映像の中でもその家は現れていたはずだ。だから、そこに行ってみようと思った。



 外は霧のような細かい雨が降っていた。傘も持たず、力ない足取りで、水無月の家に向かう。


 未だ僕を圧し潰そうとする、存在意義を奪われたような虚無感と、映像で見た失くした記憶の混乱。その二つで、世界が揺らいでいるような眩暈を感じる。


 歩いて五分ほどで、その家は見えてきた。二階建ての古めかしい木造住宅。壁は黒ずんでいて、全体的に影の中に在るように見える。まるでこの家自体が、人間が抱える闇を象徴しているようにも思えた。


 表札が「水無月」であることを確認してから、深呼吸をして、呼び鈴を押す。しばらく待ったが反応がないので、二度、三度とボタンを押した。


 やがて人の気配が近付き、玄関の扉が乱暴に開けられる。不機嫌さを隠そうとしない表情の男が、開いた扉から現れた。四十代ほどの、細身だが引き締まった長身で、窪んで暗い眼の奥からは異様な圧を感じる。


「お前、確か、近所の……なんだっけ」


 低い声でそう言ってから、挨拶もせずに突っ立っている僕を見て、男は舌打ちをした。


「いいから、さっさと要件を言えよ。こっちは忙しいんだ」


「……あなたは、水無月さん、ですよね?」


「あ? チャイム連打したくせに表札見なかったのか? 用がないんなら帰ってくれ」


「あの、ここに、白亜という女の子はいませんか?」


「ハクア?」


 僕は男の表情の変化を見逃さないように凝視した。けれど、動揺や躊躇いのような感情は見いだせない。


「誰だそれは。知らねえな」


「本当に知らないんですか? あなたの娘なのでは?」


「は? 俺に娘なんていねえよ。お前頭イカレてんのか」


「本当に、この名前に、一つも思い当たりませんか? 家の中を見させてもらってもいいですか? 何か痕跡が見つかるかも――」


「ふざけんな!」


 扉の隙間から家の中に入り込もうとした僕の肩を、男は突き飛ばした。体勢を崩して地面に尻もちをついた僕を見下ろし、男は冷たい表情で言い切る。


「そんなやつはいないし知らん。お前、マジで病院行った方がいいぞ」


 そして「次チャイム押したら警察呼ぶからな」という言葉を残し、音を立てて扉が閉められた。


 深くため息をつき、立ち上がってズボンの汚れを払った。ここにいても仕方ないので、行く当てもなく歩き出す。


 降り続く雨が髪や体をじっとりと濡らしていく。体が重くなっていくような気がする。


「……一体、どうなってるんだ」


 消された記憶。消えた少女。


「水無月、白亜……」


 頭が割れるように痛い。脳幹が揺さぶられるような眩暈がする。まるで頭の内側で、本当の自分が「思い出せ」と叫び続けているかのようだ。


 今ある世界が紛い物のように感じる。いや、今の自分が、紛い物なのだろうか。



 ふらふらと歩く中で、かつて通った小学校の校舎が見えてきた。いつも二人で歩いた通学路。……二人で? 誰と?


 赤と黒、二つのランドセル。いつも何かを恐れているような、小動物みたいな女の子。アルバムに残っていた、二人で写った写真。


 思い出せ。思い出せ。きっと、とても大切な記憶なんだ。


 色白で、黒く真っ直ぐな髪がシルクみたいに綺麗で、困ったように眉を下げて笑う顔がかわいかった。


 優しい子だった。優しすぎて、誰かを傷付けることを恐れて、そんな優しさが、彼女を傷付けていた。


 ポケットに入れていた指輪を取り出し、右手の中に握る。この指輪も、きっととても大切なもの。祈るように願うように、胸の前で強く握りしめながら、心の中で何度も繰り返す。


 思い出せ。


 思い出せ。思い出せ!


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