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episode = 20; // ただ虚しさだけが


 月曜の朝、虚しさを抱えながらも、いつものように支度をして、高校に向かった。


 通学路を歩きながら、自分が抜け殻になったような気分だった。中身のない、張りぼてのような存在。これまでずっとこうだっただろうか。こんなにも無気力なままで、よくこれまで生きてこられたな、と他人事のように思う。


 教室に入り、自分の席に座ってバッグを机にかけた。隣の席には宮野がもう座っているけれど、今日は静かだ。心なしか、僕と顔を合わせないようにそっぽを向いているように思える。まあ、騒がしいよりはいい、とバッグから文庫本を取り出して栞の位置でページを開いたところで、宮野がこちらを向いた。


「ねえ、如月くん?」


 いつもよりトーンが低い声で彼女がそう言うので、手元のページに視線を向けたまま答える。


「なに」


「あたしに何か言うことないの?」


「えっと……おはよう?」


「おはよ。って、そうじゃなくて。ひとまずその本を閉じて、あたしの方を向きなさい。人と話す時は相手の目を見るって教わらなかった?」


 仕方なく言われた通りにして、本を机に置いて宮野の方を向いた。彼女は無言で腕組みをして、険しい表情で両頬をぷくりと膨らませた。


「え、なに?」


「『え、なに?』はこっちのセリフなんですけど。あたしを見て何も感じない?」


「……もしかして、機嫌悪い?」


「そう、機嫌悪いです。めっちゃ怒ってます」


「何か嫌なことでもあったの」


「かあぁ!」


 と奇声を発して宮野は大袈裟に天を仰いだ。その姿勢のまま「なんであたしは、こんな人を……」と呟いている。意味が分からない。


 やがて顔を下ろした宮野は、何かを諦めたような表情で続ける。


「とりあえず如月くん、スマホの電源入れてみなよ」


「え?」


 今朝制服のポケットに入れたスマホを取り出して画面を点けようとしたが、反応がない。電源ボタンを長押しすると、OSの起動演出が始まった。そうか、休み前に電源を切って、そのままだったんだ。


 スマホが起動するとすぐ、画面にLINEの通知が大量に現れた。どれも宮野からのメッセージで、怒っているような言葉や、僕を心配するような言葉が並んでいる。そこでようやく僕は思い出した。そうだった。土曜に宮野の買い物に付き合う約束をしていたけれど、直前になって行けなくなったと連絡をして、そのまま電源を切ったんだ。


「そっか……ごめん、宮野」


 宮野は大きなため息を吐いた。


「いいよ。如月くんがそういう人ってのは知ってるし。約束を断られてちょっと、いや、かなり、悲しかったけどさ。このまままた学校に来なくなっちゃうのかな、とか、あたし何か嫌われるようなことしちゃったかな、とかの心配や不安の方がつらかったから、今日来てくれてほっとしたよ」


「ごめん」


「だからいいって。別の日に埋め合わせしてもらうから。で、土曜はどうしてダメだったの? 何か大事な急用が入ったとか?」


 金曜の夜、僕は宮野との土曜日の約束を断った。それは覚えている、というか、今思い出した。でも、どうして断ったのかを思い出せない。


「……あれ? なんでだっけ」


「ちょっと、大丈夫? 若年性アルツハイマーとかじゃないでしょうね?」


「いや……」


 否定はしたけれど、不安になる。ここ数日間、自分が何をしてどんな風に過ごしていたのか、はっきりと思い出せない。物忘れというレベルじゃない、短期的な記憶喪失のような症状だ。


「言いたくないことなら、無理に言わなくていいけどさ。……でも、簡単な連絡だけで約束をキャンセルされて、あたしがめちゃくちゃショックだったし悲しかったってのは、知っておいてよね」


「ごめんって」


「ちなみに、なんであたしがそんなに悲しかったのかは……分かる?」


「……買い物の荷物を持たせる人がいなくなったから?」


「はあ、如月くんは成績いいのにバカだなぁ」


「え?」


 今ので会話は終わったのか、宮野は不服そうに唇を尖らせたまま教室正面に向き直る。そして呟くような小さな声で、彼女は言った。


 それだけ楽しみにしてたからじゃん、バカ。


 そんな風に聞こえたけれど、僕の聞き間違えかもしれないから、反応できなかった。



 その後すぐにホームルーム開始のチャイムが鳴り、担任の島田先生が教室に入ってきた。太い体を揺らして、もう息を切らしている。朝会の後は全校集会があり、体育館に移動した。


 蒸し暑い体育館の固い床に座って、生徒会長の小宮山さんが壇上でスピーチをするのを聞くともなく聞いた。小宮山さんはこの学校初の女性の生徒会長で、綺麗な見た目と温厚な人柄で生徒からの人気も高い。校長が話している時は暇そうにしている生徒も、小宮山さんが壇上に立つと目と耳をしっかりそちらに向けるのが分かった。


 集会が終わり、教室に戻るために廊下を歩いている途中、宮野に声をかけられた。


「いやぁ、やっぱり小宮山さんってステキだよねぇ。成績優秀な上に眉目秀麗なんだもの。あの人見てると、あたしもまだまだだなぁって思うよ。男子からもモテモテみたいだけど、如月くんもああいう人がタイプだったりするの?」


「いや、僕は別に」


「ふうん?」


 どこか嬉しそうな表情になって、宮野は全く関係のない雑談を始めた。どうやら機嫌は治ったようだ。



 授業中、自分の命や人生について考えていた。


 自分の中の、心や、想いという、曖昧で目に見えないもの。目に見えないけれど確かにあるはずの、その大部分が、強制的に抉り取られたような感覚だった。


 何かとても大切なものをなくした。でもその失ったものが何なのか分からない。だから悲しめばいいのか、怒ればいいのか、焦ればいいのか、それすらも分からない。


 ただ虚しさだけが、体の内側を埋め尽くしている。



 放課後、宮野に別れを告げて、校舎を出ると、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。


「キーサラーギくーん、遊ぼうぜー」


 袴田が僕の肩に腕を回した。彼の取り巻きのガラの悪い男子生徒も数人いる。僕はため息をついた。


「今そんな気分じゃないんだけど」


「は? お前に拒否権なんかあると思ってるわけ?」


「ないんだろうね」


 ……まあ、いいか。もう、どうでも。どうせこの虚しい命に、意味も意義も感じられないんだ。


「分かったよ。好きにすればいい。殺してくれたって構わないよ」


「バカかお前は。んなことしたら俺らハンザイシャじゃねーか!」


 袴田がそう言うと、取り巻きが笑った。「何それカッケーじゃん」なんて言ってるやつもいる。殺さなくても暴行や恫喝は犯罪だ、とは言わなかった。いっそ殺してもらいたいとすら思っていた。


 彼らは僕を、ひとけのない校舎の影に連れていった。運動部のかけ声が聞こえ、吹奏楽部の練習の音が聞こえる。それはきっと、青春と呼ばれる輝きの一つなのだろう。その輝きが落とす影の中で、僕は袴田たちから集団で暴行を受けた。


 体の痛みはもちろん感じる。でももう心は死んでいた。だからつらいとは感じなかった。肉体の痛みが、自己とは切り離された幻のように感じていた。


 もう少しで意識を失って楽になれそうだ、という時、どこからか宮野の声が聞こえた。


「先生こっちです! 生徒が暴行を受けてます!」


 その言葉を聞いて袴田たちは舌打ちをし、走り去っていった。


 土の上に無様に転がっている僕のもとに宮野が駆け寄り、すぐそばで膝をついた。


「如月くん大丈夫⁉ ひどい、あいつら!」


「宮野……なんで、来たんだ」


「生徒が一人あいつらに連れていかれたって教えてくれた子がいるんだよ。さっきの『先生こっちです』ってのは、あたしの咄嗟のハッタリだけどね。それより、なんで逃げるなり、抵抗するなり、助けを呼ぶなりしないのさ」


 痛む腕で体を支え、起き上がろうとした。宮野が手を貸してくれて、なんとか立ち上がることができた。


「……別に、いいんだよ」


「よくないよ! 反抗しなきゃあいつら調子に乗るばっかりだよ」


「いいんだ、もう」


 校門に向かってフラフラと歩き出す。宮野が心配そうな表情で隣をついてきた。


「ちょっと、どこに行くの?」


「帰るんだよ」


「保健室行かなくていいの? ケガの手当てとか」


「いいよ。家でやるから」


「……ホントに、帰るだけ? なんか、今の如月くん、危うい感じがして、ちょっと……怖いよ」


 足を止め、宮野を見た。微笑みを作って、彼女の頭に手を置く。


「本当に帰るだけだから、大丈夫。いつもありがとな、宮野」


 そして歩き出すと、宮野は立ち止まったまま追ってこなかった。


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