いつの間にか流れていた涙を拭って、僕は混乱している頭の中を整理してみることにした。
今日は、土曜日。時刻は夕方。窓の外は薄暗く、分厚い雲から陰鬱な雨が降り続いている。
僕は今日、何をして過ごしていたんだっけ。
傘をさして外を歩きまわっていたような気がする。でも、どこを歩いていたのか、何のために歩いていたのか、思い出せない。
頭を抱えてうずくまる。記憶も意思も、濃い霧がかかったようにぼんやりとして、そこに何があるのか掴もうと手を伸ばしてもどこにも触れられない。それでいて、自分の中の何か大きな要素がごっそりと抜け落ちてしまっているような、そんな気持ちの悪い感覚だ。
それに、僕の目の前には、来客用の布団が敷かれている。これも意味が分からない。僕が敷いたのか? なぜこの部屋に? ここに誰が寝ていたというんだ?
「……とりあえず、片付けるか……」
どれだけ頭の中を探っても、ここに自分以外の人が泊まっていた記憶も、泊める予定も、見当たらない。そんな謎めいた布団が自分の部屋に敷かれているというのが不気味なので、片付けることでひとまず視界に入らないようにしようと思った。
布団を畳んで、持ち上げる。その時に小さなリング状のものが布団から落ちて、床を転がった。
「なんだ? 指輪?」
銀色の小さな輪っかは、フローリングの上をころころと回転して、部屋の隅の壁に当たってパタンと倒れ、そこで静止した。
気にはなったけれど、両手は布団を持ち上げている状態だ。これをさっさと片付けてしまいたい。狭い扉を抜けて、足元に気を付けながら階段を下り、和室の押し入れに布団を押し込んだところで、玄関のチャイムが鳴った。出ると、近所に住んでいるお婆さんで、回覧板を持ってきたという。
「蒼くん、今日も一人でお留守番してて偉いねえ。お父さんなかなか帰ってこなくて寂しくないかい」
近所なだけあって、お婆さんはうちの家庭事情をよく知っており、僕の父が長距離運送の仕事で滅多に家に帰ってこないことを以前から知っている。世話焼きなんだろうけれど、いつまでも僕のことを小さな子供のように扱ってくる。
「大丈夫ですよ。僕ももう高校生ですし」
「でも、ただでさえお母さんいなくて大変だってのに、お父さんももっと蒼くんを心配して気を使ってあげなきゃダメよねえ」
「ええ、まあ……」
「あ、そうそう、この前ね、お隣さんからキュウリを沢山もらっちゃってね。ほら、うちの隣の、山崎さん、あそこ畑やってるから」
「そうですか」
「だからね、わたしが蒼くんに栄養あるもの食べさせてあげようと思って、日持ちするようにお漬物にしてきたから。ほら、これ、食べてちょうだい」
そう言ってお婆さんは、キュウリがぎっちりと詰まった大きなタッパーを渡してきた。正直、こんなに大量にもらっても困る。
「あ、ありがとうございます」
「いいのよー。蒼くんが赤ちゃんの頃からわたし見てるんだから、あなたはわたしの孫みたいなもんなの。だから元気でいてもらわないとね。何か困ったことがあったらすぐに言ってね」
「はい」
その後もしばらくお婆さんは、近所の噂話や家族の愚痴などを長々と話し、空が暗くなり始めた頃にようやく帰っていった。
「……やれやれ」
タッパーを持ったまま、僕は大きくため息をつく。すっかり遅くなってしまった。これから食材の買い物に出るのも面倒だから、夕食は米を炊いて、もらった漬物で済ませるか。
一時間後、食卓で一人、白米とキュウリの漬物のみという簡素な夕飯を始めた。
はたから見たらとても孤独な食卓だけれど、もうずっとこの調子だから、別に寂しいとは感じない。むしろ、いま父親が目の前に座っていたとしても、何を話せばいいか困ってしまうだろう。
いや、待てよ。本当にずっとこうだったか?
僕はここ数日間、本当に、ここで、一人で、食事をしていたか?
目を閉じて、記憶を探る。昨日は……一昨日は……その前は……
ダメだ、思い出せない。何を食べたか、どこで食べたのか、それすら出てこない。一体どうなっているんだ。
不気味な違和感を抱えながらも、考えたところでしょうがないという結論でその不安に蓋をして、さっさと食事を済ませた。シャワーを浴びて、部屋で少し本を読んでから、早々と布団に潜った。
きっと疲れてるんだ。それに、忘れてしまったということは、覚えておく価値もない、無意義な時間だったということなんだろう。
*
日曜日。特に予定もないので、洗濯や掃除、食料品や消耗品の買い物を午前中に終わらせて、あとは家でのんびりと本を読んで過ごした。
こうして静かで穏やかな時間を送るのは、なんだか久しぶりな気がする。
……久しぶり? またこの気持ち悪い感覚だ。
静かな時間が久しぶりなら、これまでは騒がしく過ごしていたとでもいうのだろうか。いや、まさか、と僕は一人で自嘲した。
唯一の家族である父は滅多に帰ってこなくて、友人と呼べるような知り合いもおらず、趣味といえば読書くらい。こんな自分が、騒がしい日々を送っている姿が想像つかない。
「こんな、自分……」
ふと、心の声を口に出してみた。
こんな自分? どんな自分だ?
意識を自分自身に向けてみる。自分という存在。如月蒼という人間。これまでの人生。してきたこと。考えてきたこと。好きなものや、人。大切なものや、思い出。
自分というものを思い浮かべた時に、軸となるようなものがすっぽりと抜け落ちているように思えた。
これは、なんと言えばいいのだろうか。――そうだ、「アイデンティティ」。
“自我同一性”とか“存在証明”とか呼ばれるもの。自分を自分たらしめるもの。自分らしさ。
そういったものが、自分の中をいくら探しても、見つけられない。体の中心に大きな穴が開いているような気がしてくる。
僕という人間は、十七年も生きていながら、こんなにも虚しくて薄っぺらな存在なのだろうか……。
読みかけの本を閉じて、ゆっくり立ち上がった。フラフラと覚束ない足取りで部屋を出て、階段を下り、居間に入る。本棚、押し入れ、テレビ下の収納を順番に漁って、ようやく見つけ出した。分厚い図鑑のような本の表紙には、「Photo Album」と印字されている。
小さな子供の頃に、父がこのアルバムに写真を貼っているのを見た覚えがある。僕自身は興味を持てずにページを開いたことはなかった。でも、僕という存在、これまで歩んできた人生、それがここにはあるように思えた。
アルバムを食卓に持っていき、椅子に座ってページを開く。最初に貼られていたのは、見覚えのない大人の女性が、その腕に赤子を抱いている写真だった。その写真の下に、僕の生年月日と「蒼、誕生」と書かれている。
「……そうか、これが、僕の母さんなのか」
母は視線を赤子の僕に向けているから、顔ははっきりとは見えない。でも、とても幸せそうに微笑んでいるように見えた。言葉を交わしたこともないこの人は、きっと、僕を、とても愛してくれていたのだろう。
胸の奥がわずかに熱くなるのを感じながら、ページを捲っていく。赤子だった僕が少しずつ成長していく様子が見えた。母と二人で写っている写真が多いから、父が撮影していたんだろう。でもページの途中から、母の姿が写真に一切写らなくなった。母は僕が二歳の時に、事故で亡くなったと聞いている。その時期を境に、貼られている写真の枚数がガクンと減っているように思えた。
幼児だった僕は、小学生になった。入学式の日にランドセルを背負い、校門の前で撮影した写真では、仏頂面をした僕が一人で立っている。次のページには、公園のような場所で遊んでいる写真があった。僕の隣に同い年くらいの女の子が立っていて、僕はその子と手を繋いでいた。誰だろう、近所の子だろうか。
その後のページにも、その女の子と一緒に写っている写真が何枚かあったが、小学二年くらいの時期で写真が途絶えている。それ以降のアルバムのページはずっと白紙だ。父が写真を撮るのをやめたのか、撮っていたとしてもここに貼るのをやめたか、どちらかだろう。
ゆっくりと息を吐き出して、アルバムを閉じた。
僕が求めていた、僕を僕たらしめるアイデンティティは、このアルバムからは見つけられなかった。一緒に写っていた少女の存在は少し気になるけれど、顔も名前もまったく覚えていないくらいだから、交流は随分昔に途絶えているんだろう。
椅子に背を預け、暗い天井を眺める。
体や心の中心に穿たれた大きな穴が、冷たい風を通してひゅうひゅうと音を立てているような気がする。
好きなものも、大切な人も、思い出も、何もない。
それなら僕は、この虚しい世界で、一体、何のために生きているのだろう。