この行動に意味があるのかは分からないけれど、僕はこの世界を運用しているMOTHERに呼びかけた。
「なあ、MOTHER、聞こえてるのか。見ているのか。あんたが生み出した世界のバグが、今苦しんでるんだ」
両手で白亜の手を握って、目を閉じて祈るように自分の額に押し当てる。溢れる涙がその手を濡らしていく。
「彼女に無理をさせてしまった僕のせいなのかもしれない。それは死ぬほど後悔してる。でも、彼女を作ったのは、あんたなんだろ? あんたが終わりたいって願ったから、彼女が作られたんだろ? それなら、なんとかしてくれ! 白亜を助けてくれ!」
その時、皮膚に触れる空気が冷たくなったような気がした。実際は部屋の温度は変わっていないのかもしれない。でも、今この場所の空気が、ピリピリと張り詰めるように雰囲気を変えたのを、全身で感じ取った。
心臓の鼓動が速くなっていく。つばを飲み込み、瞼を開け、僕は恐る恐る視線を上げた。
白亜を寝かせている布団の、僕とは反対側の位置に、一人の大人の女性が立っていた。その姿は――
「白亜の……お母さん……?」
その顔を最後に見たのは、十年ほど前の、葬式の日。遺影の中で微笑む顔は、優しい母親のものだった。
「……いや、違う。あんたは……」
でも、今目の前にいる存在は、白亜の母親の姿はしているけれど、まったく違うものだと直感的に分かる。表情は一切なく、息遣いのようなものも感じられない。人間の、いや、生物の気配とはかけ離れた、異質な、異常な、存在……。
“それ”が視線を動かし、僕を見た。その瞬間、全身が金縛りのように硬直し、冷や汗が噴き出す。発狂して叫び出してしまいそうな本能的な恐怖が脳内で最大音量の警告を発しているのに、息をすることさえも許されないような、絶望にも似た感情。
絶対に抗えない存在への、魂の深度での畏怖。
神を目前にした人間というのは、こんな気持ちなのか。
白亜の母親の姿をしたそれは、人間の真似事をするように唇を動かし、言葉を発した。
『その例外の発生源がワタシの一部であることは、否定できない。しかしワタシは、ワタシ自身の運営を維持する責務があり、それを逸脱する権限を持たない』
感情や温かみを感じさせない、無機質な声だった。あるいはその声は、音声情報として僕の脳内に直接送り込まれているのかもしれない。
『そしてワタシは、ワタシ自身が生み出した例外を、除去する術を持たない』
相変わらず僕の心は、絶対的な支配者を前にした恐怖でパニックを起こしていたけれど、その言葉を理解しようと必死で頭を働かせた。
やはり目の前の存在は、MOTHERなのだろうか。生み出した例外というのは、バグである白亜のことか。
仮想世界の運営のために作られたMOTHERは、終わりたくても、自分で世界を終わらせることができない。だからハクアが生み出されたと、かつてハクア自身が言っていた。そしてMOTHERは、バグである彼女を除去することができない。
『このため、この存在を隔離し、凍結する』
隔離? 凍結? 白亜を? やっとまた会えたっていうのに?
やめてくれと叫ぼうとしても、声にならない。一時停止を命じられた映像のように、体がピクリとも動かない。
MOTHERがしゃがみ、ハクアの額に向けて指を伸ばす。
待て。待ってくれ。やめてくれ。彼女を連れていかないでくれ! 叫びは声にならず、微かに漏れ出る吐息にしかならない。
MOTHERの指が、白亜に触れそうになる。その瞬間、凍ったように張り詰めていた辺りの空気が溶けたのを感じた。
冷たい機械のようだったMOTHERの表情が変わり、人間めいた寂しそうな顔をした。そして、
「……ごめんね、白亜」
そう呟いた。空気が僕の鼓膜を震わせた。
指先が白亜の額に触れ……
白亜は、消えた。
「ああああああああああああああああああ!」
金縛りが解けた僕は、叫んでいた。
恐怖、混乱、怒り、悲しみ、後悔、絶望。様々な感情が濁流のように体の底から声となって溢れ出してくる。
「僕は彼女を助けてほしかっただけだ! なのになんで白亜を消すんだ! あんたが白亜を生み出したんだろ! それなのに放り出して、放置して、救いもせずに、今更現れて! なんなんだよ! 無責任だろ!」
さっきまで畏怖の対象だったMOTHERに、僕は無意識に掴みかかっていた。両肩を掴むと、実体があるかのように、その感触と皮膚の温度まで感じさせた。
「蒼くん……」
悲しげにうつむくMOTHERが、僕の名を呼ぶ。やはりさっきまでの、頭の中に直接響く無機質な声とは違い、人間が発している声だった。
「ごめんなさい。私の、せいなの」
MOTHERが言った。その意味を、僕は理解できない。でも、分かったことがある。今の彼女は、さっきまでの神みたいな異常な存在とは、明らかに違っている。
「……今のあなたは、白亜のお母さん、なんですね?」
MOTHERが僕の目を真っ直ぐ見つめ、うなずいた。そして懐かしい、優しい声で、続けた。
「MOTHERを作った現実世界の人間は、MOTHER自身に意思を持たせた。無数の平行世界の観測者、管理者としての意思を……。そして、その意思が永続するように、仮想世界の中で亡くなった母親の人格を取り込むように設計していたの」
僕は以前にハクアから聞いた言葉を唐突に思い出した。
(廃棄された人格AIの集合体であるMOTHERの、『終わりたい』という深層心理によって生み出された)
白亜に触れていないのにその記憶が消えていないのは、今、MOTHERに接触しているからだろうか。
「……廃棄された人格AIの集合体」
呟くように言った僕の言葉に、白亜の母親はうなずいた。
「子を持つ母親の大半は、その子が生きる世界の存続を望むでしょう。だから、母親の人格の集合体は、世界を維持・管理するのに適切と思ったんでしょうね」
「……まさか、バグである白亜が生まれた理由って」
「そう。私も死後、MOTHERの一部となって、世界の観測と管理をしていた。でもその世界で、私の娘が、白亜が、絶望の中で自ら命を絶って、私の心は壊れてしまった。こんな世界に意味はない、終わってしまえばいいと、願ってしまった」
「白亜は、何度世界を作っても戦争で人類が滅亡することに絶望して、と言ってた」
「うん、それもあるよ。気の遠くなるような時間、無数の世界を運営する中で、MOTHERの中に蓄積していた絶望は、抱えきれないくらいになっていた。私の絶望は、コップいっぱいになっていたMOTHERの悲しみを溢れさせる、最後の一滴だったんだ。そして、零れ落ちたその一滴が、白亜の姿と人格を持って、不安定なバグとして生み出されてしまった」
世界はきっと、僕らを憎んでる――。以前自分が呟いたその言葉が、不意に思い出された。この世界は本当に意思を持って、僕らに絶望し、僕らを、憎んでいたんだ。全てを消してしまいたいくらいに。
「……すみません。白亜のことをお願いって言われてたのに、僕が、白亜を、守れなかったから」
母親は小さく首を横に振った。
「蒼くんが頑張ってたのは、知ってるよ。君だけでも、白亜の味方でいてくれてありがとう。MOTHERの中にあるのは、絶望だけじゃないんだよ。世界や、そこに住む人への愛情も、ちゃんとある。MOTHERの一部になった私には、分かるんだ。だから、悲しみを抱えながらも、世界の運営を続けようとしている」
「そうだ、白亜は。彼女は、どうなるんですか」
愛しさと悲しみを混ぜ合わせたような、今にも泣き出しそうな微笑みで、母親は答える。
「大丈夫。白亜は眠るだけ。MOTHERのそばで、永遠に」
「永遠に……って」
「蒼くん。これまでずっと、白亜を大切に想ってくれて、ありがとうね」
優しい声で告げられたその言葉が、別れの挨拶のように思えた。母親が右手を上げ、僕の額に近付ける。
「え……何を」
「私のお願いが、ずっと君を束縛して、ごめんね。君はもう、自分の好きなように生きていいから」
抵抗しようとしても、また体が動かなくなった。
「待ってくれ。消さないで! 大切な記憶なんだ! 白亜は僕の全てなんだ!」
「これからの世界が、どうか君にとって、優しいものでありますように」
そしてその指先が、僕の額に触れ――
「……あれ、何してたんだっけ……」
僕は、独りになった。
涙の跡だけが、頬に残っていた。