ハクアを背負い、息を切らして雨の中を歩いた。
家に入って階段を上がり、レインコートを脱がせて彼女を布団に寝かせた。ハクアは目を閉じて、苦しそうな呼吸を繰り返している。
「ハクア、どうしたんだよ、急に」
ハクアに白亜の姿を重ねながら、どこか人間離れした彼女に対して、風邪だとか熱だとかの体調不良は無縁なものと、勝手に思っていた。実際にハクアは人間ではなく、MOTHERが生み出したバグなわけだし(それで言うと僕だって人間じゃなくAIなんだけど)。
でも、今のハクアは、熱にうなされている人間と変わらないように見える。そう思って、右手で彼女の額に触れてみた。
「あつっ!」
反射的に手を引っ込めてしまうほど、そこは熱を持っていた。ノートパソコンに無茶な処理をさせている時とか、スマホを充電しながら寝落ちしてしまった時なんかに似た高温だ。雨に濡れて風邪でもひいたのだろうか。でも、彼女自身が世界を壊していくウイルスのような存在なのに、風邪に感染するようなことがあるのだろうか。
「ちょっと待ってて、冷やすものを持ってくるよ」
そう言って僕は立ち上がり、一階の洗面所に向かった。綺麗なタオルを水で濡らして絞り、それを持って階段を上がる。
それにしてもハクアが風邪をひくなんて、意外だ。雨の中を歩かせたのが悪かっただろうか。あれ、でも、どうして雨の中を歩いていたんだっけ……。
ふわふわとした曖昧な疑問を胸に抱えながら、自分の部屋に入って、布団で寝るハクアの隣に座った。
「お待たせ。これでちょっとは楽になるといいんだけど。あとで風邪薬を買ってくるから」
言いながら、濡らしたタオルをハクアの額に乗せる。その時に僕の指が彼女の額に触れ、消えていた記憶を思い出した。MOTHERのシミュレーション世界と、そのバグである彼女……。少し離れるだけで忘れてしまって、触れるだけで毎回驚かされる。まったく、なんて不便な設定なんだ。
「……いや、風邪薬が効くような症状じゃないんだよね、きっと」
一般的な風邪による発熱ではないことは明らかだけれど、冷たいタオルが気持ちいいのか、つらそうだったハクアの表情が少しだけ和らいだように見える。僕はハクアとの接触が途切れないように彼女の手に軽く触れたまま、声をかける。
「なにか、してほしいこと、あるかな。僕にできることがあれば、なんでもするよ」
ハクアは苦しそうな呼吸の中、小さな声で答えた。
「わたしを、殺して」
「……何度言われても、その願いは叶わないから、それ以外で頼むよ」
ハクアがその言葉を言う度に、胸の奥が悲しく痛む。けれど応答してくれたということは意識はあるわけで、そのことに少しほっとして、質問を重ねた。
「そもそも、今君は、どういう状況なの? 風邪ってことはないんだよね?」
「分からない……。バグによるオブジェクトの消失には、負荷がかかる。人間のような情報量の多い存在が対象の場合、負荷はより大きい。その負荷に、わたしの体が反応し、オーバーヒートとなっている、可能性が、ある。わたしの中で、バグの侵食が、進行している」
僕の、せいだ。
この世界の物質を消滅させられるハクアの力に驚き、実験と称して色々試した。
ハクアが素直に従ってくれるのをいいことに、自分の都合のいいように物や人を消して、それで自分が力を持ったような気になって、世界を綺麗にするとか言って、身勝手な全能感に酔いしれていた。
僕の行動が、ハクアを苦しめていたんだ。僕は、なんてバカなんだ。
両手でハクアの手を握る。その細い指先までも熱を持っているように感じる。
「ごめん……。僕が悪いんだ。僕が君を連れ回して、調子に乗って色々消させて、無理をさせてしまったから……。本当に、ごめん」
激しい後悔で心が溢れる。もしも時を戻せるのなら、世界の掃除なんてしないで、ハクアに美味しいものを食べさせるだけの日々を送りたい。ハクアを苦しませることは望んでいない。幸せそうに笑っていてほしいだけなのに。
そこで僕は、あることを思いついた。うつむいていた顔を上げ、ハクアに提案する。
「そうだ、ハクア、僕を消してくれ! 消えたものは最初からなかったことになるんだろ? それなら、君をそそのかした僕がいなくなれば、今の君の苦しさも晴れるんじゃないか?」
ハクアは薄く目を開け、僕を見る。彼女が苦しんでいる今、それでハクアが楽になるのなら、自分の存在が消えるということには何の恐怖も感じない。
でも、ハクアは数秒間の後、目を閉じて、消えそうな声で言った。
「それは……いやだ」
「どうして。これまでお願いしたものは消してくれたじゃないか」
「分からない。でも、ソウが消えるのは……悲しい」
彼女の閉じた瞼から、透明な雫が溢れ、零れた。その光景を見て僕は衝撃を受ける。今のは、涙だ。
ハクアは自分を、世界のバグだと言う。彼女が普通の人間とは違うことは、これまで散々見せつけられてきた。
でも、ハクアには感情がある。僕が消えるのは悲しいと言ってくれる。一見分かりにくいけれど、嬉しければ微笑むし、寂しそうな顔もするし、普通の人間みたいに心がある。そのことも、これまでに何度か感じていた。
それに……。そうだ。彼女の存在の矛盾に、今更ながら僕は気付いた。
ハクアは、この仮想世界を運営するシステム「MOTHER」の、終わりたいという深層心理が生み出した、バグ。世界の全てを消滅させてシステムを終わらせることが目的のはず。
それなのに、ハクアはその目的に反して、「わたしを殺して」と願っていた。
ハクアには、バグだけではない、ハクア自身の人格が与えられている。
それは、まさか――
「白亜……なのか?」
声が震えた。
さっき、目視できていたはずの白亜の父親を消そうとしてできなかったのは、ハクアの調子が悪くなったからだと思っていた。でも、父親の存在を「初めからなかったこと」にすると、白亜自身も存在できなくなるから、だから消せなかったのではないか。
複雑な感情で心臓が暴れる。
白亜は、三年前に、死んだ。死んだ人間は生き返らない。そんなの当たり前の常識だ。
でもここは、MOTHERがシミュレートしている仮想世界。これまで常識だと思っていたものなんて意味をなさなくなるようなことを、ハクアと出会ってから何度も経験した。僕も、那須川生徒会長も、宮野も、袴田も、五百蔵先生も、肉体を持った人間ではなく、人間だと思い込んでいるAI――データだけの存在らしい。それなら白亜だって同じはずで、ただのデータであるなら、システムのバグの影響で復活することだって、もしかしたらあるんじゃないのか。そう、間違えてゴミ箱に入れてしまった大事なファイルを、元の場所に戻すみたいに……。
苦しそうにうなされているハクアが、弱々しい声を出した。
「蒼くん……私を、殺して……」
声が詰まり、目の奥が熱くなる。
僕の呼び方も、その声も、間違いなく、白亜だ。
「白亜……。やっぱり、君は、白亜だったんだね」
再び意識を失ってしまったのか、僕の呼びかけに返事はない。左手は彼女の手に添えたまま、右手で白亜の頬を包むようにそっと撫でた。僕の両目から、止める間もなく涙が零れた。
もう二度と会えないと思っていた。でも、こんなに、近くにいたんだ。
また白亜と会えているという喜びと共に、彼女が今目の前で、僕のせいで苦しんでいるという事実に、胸が潰れるように苦しくなる。
一体どうすればいいんだろう。やはり病院に連れていくべきなのだろうか。でも人間の医者がこの状況を改善できるとは、やはり思えない。
神様にでも祈りたいような気持になる。白亜が幸せになるのなら、僕はなんだってするのに。
「……そうだ」
独り言のように僕は呟いた。
この世界に神様なんて都合のいい存在はいない。願いを聞き届けてくれる神様がいるのなら、白亜が死ぬことはなかったのだから。
でもこの世界には、神様に一番近い存在が、いるじゃないか。
静かに息を吸い込み、願いを込めるように、声を出した。
「MOTHER……聞いてくれ」