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episode = 16; // 一番消したい相手


「えーっと……誰だっけ?」


 髪の薄い頭頂部を掻きながら、五百蔵先生は言った。


 五百蔵は昔から、生徒に対し興味も関心も持たず、熱血や情熱といった言葉からは対極にいるような教師だった。担任であっても担当クラスに対し放任、不干渉で、それをいいことにクラスは頻繁に荒れていた。


 五百蔵に限らず、当時は学校全体にそういった、諦めにも似た怠惰と放置の空気が蔓延していたように思う。仕事だから仕方なく教師をしていて、授業や事務連絡などの最低限の業務以外は受け付けない、という大人が大半を占めていた。やる気のある若い教師が赴任して数ヶ月後にはノイローゼになって退職した、という話も聞いた。


「先生、お休みの日に突然すみません。僕のこと、覚えてますか?」


 五百蔵は迷惑そうな表情を隠すことなく眉根を寄せ、改めて僕の顔を見た。


「あー……すまん、何人も生徒を受け持ってると、卒業した全員を覚えてるってわけにもいかなくてな」


「そうですよね。でも、この子のことなら、思い出せるんじゃないでしょうか」


 そう言って僕は、繋いだ手を離さないようにしながら、ハクアが被っているフードを外した。露わになった彼女の顔を、五百蔵が見る。その顔に驚きが拡がり、恐怖に引き攣っていく様を、僕は静かに眺めていた。


「まさか……水無月、なのか? バカな、あり得ん!」


 青ざめた顔で後ずさる五百蔵は、土間に転がる靴を踏んでバランスを崩し、惨めに小さな悲鳴をあげて尻もちをついた。僕はハクアの手を引き彼に近付いて、冷たく見下ろしながら訊く。


「さすがに覚えてましたか。どうしてあり得ないんですか?」


「どうしてって、水無月は、死んだはずだろう! なんでここにいる!」


「そう、白亜は死にました。クラスでの陰湿な虐めや家庭の問題が彼女を追い詰め、自ら死を選んだんです。僕は当時、何度も先生に相談しましたよね。でもあなたは何も行動しなかった。口先では改善を約束しておいて、表情一つ変えず、見て見ぬふりをし続けた。信頼すべき大人、担任教師に理解されず見捨てられたという実感も、あんたが白亜に言った最悪な言葉も、白亜の心を砕いた原因の一つなんだ」


「そうか、思い出した、お前は如月か。――でも、考えてもみろ。教師は日々の業務で忙しいんだ。なんで俺が生徒のプライベートまで面倒見てやらなきゃならんのだ。どうして不良みたいな奴らに注意しなきゃいけないんだ。俺だって怖いんだ。逆ギレされてこっちが傷付けられたら誰が責任取ってくれるんだよ」


 心が温度を失っていくのを感じる。静かな声で、僕は尋ねる。


「……あなたは、なんのために教師になったんですか?」


「そんなの、親から言われたからだ。昔から決められてたんだ。生きるために、金を稼ぐために、仕方なく働いてやってんだ。そんなやつ俺以外にもいっぱいいるぞ! 水無月は自分の意思で死んだんだろ。あいつの心が弱かったんだろ。自業自得だ。自己責任だ。俺は何もしてない! 俺は悪くない!」


 自業自得。自己責任。それは当時、白亜と二人で相談に行った時に五百蔵が白亜に投げつけた言葉だった。みんながお前を嫌うのは、お前に問題があるからじゃないのか、と。


 深く息を吐き出して、ドロドロと黒く濁って爆発しそうになる感情を何とか抑える。そしてハクアと繋いでいない方の右手をゆっくりと上げ、人差し指の先端を五百蔵に向けた。


「ハクア、頼む。こいつを消してくれ」


 一秒も経たないうちに、五百蔵の姿は消え去った。


 復讐の対象である一人を消しても、胸の内側にこびりついた不快な感情や、どうしようもない虚しさは、少しも消えていかない。「復讐は何も生まない」、というのはよく聞く言葉だけれど、これがそういうことなのだろうか。ハクアの手を離せば、僕の中からも五百蔵の存在がなくなるのかもしれないけれど、そうやって心の安寧のために白亜に纏わる記憶を消してしまうことこそ、僕にとっては「何も生まない」ことなんだ。


 きっと、五百蔵に代わる教師のAIがどこかで生成され、関係者の記憶は改竄されて、新しい教師が休み明けから何事もなかったように教壇に立つのだろう。せめてそいつが、今の生徒にとって信用できる大人であることを願う。


 今声を出せば震えてしまいそうだったから、目を閉じて、何度も深呼吸をする。多少落ち着いてから、ようやくハクアに声をかけた。


「ありがとう、ハクア」


「……なぜ、礼を言うの」


「要らない人間を消して、世界が少し、優しくなったからだよ」


 この場所に心を残してしまわないように、僕はハクアの手を引いて足早に立ち去った。



 その後、過去に白亜を傷付けた中学時代のクラスメイト達の中で、家の場所を知っている者や、住宅地図から推測した場所を何軒か尋ねて回った。けれど、肝心の本人が不在だったり、苗字が同じだけの他人の家だったりが続いた。残念だが、今日中に全ての復讐を遂げる必要はない。世界の終わりまでには、まだまだ時間があるだろう。気長にやっていけばいい。


 雨の中を歩き回って疲れてきたので、一度家に帰ることにした。無言のままのハクアの手を引き、家路を歩く。


 家まで十分ほどの距離まで差し掛かった時、僕の視界にある人間が映り、思わず足を止めた。


 僕がいる位置から百メートルほど先に、二階建ての古めかしい木造住宅がある。そこは、白亜の家だ。その家の軒先で、誰かを待っているのか一人の男が立っている。


 心臓が大きく波打つように鳴った。鼓動が速くなり、締め付けられるような痛みを覚える。


 左手でハクアの手を強く握ったまま、震える右手を上げ、人差し指を男に向ける。


「ハクア……あいつを、消せ」


「なぜ」


「あいつは君の……いや、白亜の、父親だ。白亜は色んな人から不条理に傷付けられていた。そうすることが当たり前の空気ができあがってしまっていた。でも、最後に彼女の心を決定的に折ったのは、あいつなんだ」


 今でも覚えている。白亜の葬式の日に涙の一つも流さず、つまらなさそうに座っていたあいつの顔を。


 その日も今日のように雨が降っていて、式の終わりにタバコを吸いに外に出たあいつの後ろを、僕はこっそりとついていった。あいつはタバコの煙を揺らしながら誰かと電話をしていて、その中でこんなことを話していた。


 ――この前の話は、なしになった。白亜のやつ、金持ちのジジイどもに体売って金にする商売の話をしたら、その日の夜に死んじまったんだよ。まったく、ようやくあいつが俺の役に立つ時が来たってのに、最後まで使えねえ娘だったな。


 指さす右手が雨に濡れていく。僕はハクアに言う。


「誰かを傷付け、追い詰めることを、罪悪感も持たずに当たり前のようにやってしまえる人がいるんだ。そういう奴らがいるから、この世界から悲劇がなくならない。あいつは、いちゃいけない存在なんだ。だから、消せ、ハクア!」


 ハクアの視線があいつに向けられたのを見た。あいつが消える瞬間を焼き付けるように、僕は目を見開く。


 けれど、一秒経っても、五秒経っても、十秒ほどが経っても、あいつは消えなかった。


「何してるんだよハクア。早く消すんだ!」


「……ダメ。消せない」


「なんでだよ!」


 白亜の父親から視線を引き剥がし、ハクアに向ける。苛立ちのような感情を自分の中に感じた。これまで色々消してきたのに、ちゃんと目視できているのに、一番消したい相手をなぜ消せないんだ、と。


 でもその苛立ちは、瞬く間に消え去った。


 ハクアの様子がおかしい。顔色が悪く、呼吸が乱れ、体が震えている。


「どうしたの、ハクア」


 糸が切れたように彼女は膝を折り、雨に濡れた地面にしゃがみ込んだ。苦しそうな呼吸を繰り返している。


「ハクア、ハクア!」


 救急車を呼ぶか? いや、彼女は普通の人間じゃない。MOTHERが生んだバグだ。病院で何とかなるとは思えない。


 レインコートのフードが外れ、彼女のシルクのような髪が雨で濡れていく。ともかく、ここでこうしていてもしかたない。ひとまず僕の家に連れ帰って休ませよう。そう思った僕は、ハクアを背負い、家に向かって歩き出した。


 歩いている間に、白亜の父親は家の前に停まった車に乗り込み、どこかへ行ってしまった。


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