ハクアと手を繋いで夜の散歩を続ける。
歩きながら、僕はずっと考えていた。ついさっき、僕の指示で、この世界から人が一人、消えた。
これまでもバグの影響で人間が消えることはあった。僕のクラスの担任。隣町の小さな男の子。僕が知っているのはそれだけだが、他にも消えているのかもしれない。
でも今回は、僕の意思で、僕が頼んで、ハクアに人を消させた。
那須川生徒会長は、校外での裏の顔はともかく、学校内では成績優秀・品行方正で、生徒や教師からの信頼も厚いようだった。その知能や人脈や手腕を活かして、きっと将来は大物になっただろう。素敵な女性と結婚し、かわいい子供と幸福な家庭を持ったかもしれない。その輝かしい可能性やあらゆる未来を、全て僕が奪った……とも言える。
ただのAIだ、シミュレーション上のデータの一つにすぎない。そう思おうとしても、言葉にできないもやもやとした感情が胸の中に残っている。
この感情はなんだろう。人を一人消してしまったという罪悪感? とんでもないことをしたという恐怖? それを誰かに咎められないかという不安や焦燥?
いや、待て。と僕はかぶりを振った。
こっちだって被害者だ。この世界が、この世界の登場人物たちが、僕と白亜に何をしたか思い出せ。白亜を追い詰め、絶望させ、彼女の未来や可能性を永遠に閉ざしたじゃないか。
これは敵討ちなんだ。白亜を殺したこの星への、復讐なんだ。
だから、僕が、思い悩む必要なんて、ない。
考え事をしながら歩いていたからか、見覚えのない細い路地にいることに気付いた。古い家が並んでいるけれど、生活の気配はあまりなく、明かりが少ないせいで薄暗い。
「どこだろ、ここ。ハクアごめん、適当に歩いてた。引き返してコンビニでも行こうか」
「ソウ、あそこにヒトがいる。あれは何をしているの」
「え?」
彼女の視線の先を見た。五十メートルほど先に古びた二階建てのアパートがあって、その軒先で一人の男が屈みこんで何かをしているようだった。時折手元がチカチカと淡く光る。
「……さあ。僕には分からないよ」
「ライターを持っている。ライターは、火を点ける道具」
ハクアは目が良いのだろうか。あるいはそれも、MOTHERが生み出したバグとしての能力なのだろうか。
「タバコでも吸おうとしてるのかな」
「タバコは持っていない。油をかけた雑誌の束に、着火を試みている」
「え、それって……」
まさか、放火――
「呼吸が乱れている。正常な精神状態ではないと予想される。ソウ、あれは何をしているの」
僕はアパートを見た。いくつかの部屋には明かりが点いている。小さな子が住んでいるのか、閉められたレースカーテン越しにぬいぐるみのシルエットが見えた。
ハクアの手を引き、アパートに向かって駆け出す。走りながら、声を出した。
「おい、あんた、そこで何してんだ!」
男は驚いて体をびくんと震わせた。その時ライターの火が付き、雑誌の束が明るく燃え上がる。男は立ち上がって僕を一瞥し、舌打ちをしてポケットから何かを取り出す。それは赤い炎に照らされて怪しく光る、銀色のナイフだった。
意味の分からない言葉を叫びながら、男がナイフを構えてこちらに走り寄ってくる。僕はハクアと繋いでいない方の手で男を指さし、言った。
「ハクア、あいつを消して!」
すぐに男は消えた。影さえも残さずに。
指先を、燃え上がる炎に向ける。
「あの火も消してくれ!」
ハクアが炎を見つめる。メラメラと音を立ててうねっていた火が、瞬時に消滅した。バグによる消失の対象が「初めからなかったことになる」からか、辺りには焦げ跡も見えない。
僕たちの声が聞こえたのだろうか、アパートの部屋の一つで住人が窓を開けようとする姿が見えたので、来た道を慌てて引き返す。被害はなかったとはいえ、何かあったのかと訊かれたら説明が面倒だ。
いくつかの曲がり角を曲がったところで足を止め、乱れた息を整える。ハクアも同じように息を切らしていて、そんな姿にふと人間味を感じた。
「ふう。ありがとう、ハクア」
「なぜ、礼を言うの」
「君があの男や雑誌の火を消さなければ、いまごろアパートが炎に包まれていたかもしれないし、僕はナイフで刺されて死んでいたかもしれない。だから、ありがとう」
「……そう」
男がなぜあのアパートに放火をしようとしていたのかは分からない。住人に何か恨みがあったのか、あるいはただの通り魔的な凶行か。でも、ハクアの力で放火魔を消したことで、何人かの命が悲劇から救われたのは確実だ。それに、放っておいたらあいつは今後も放火を繰り返していた可能性だってある。
「うん、やっぱり、君の存在は不都合なことだけじゃないよ。いつかこの世界が終わるとしても、それまでにさっきみたいな悪い人間をどんどん消していけば、少しは素敵な世界に近付けることができるんだ」
ハクアは何も言わない。でも、もう慣れた。反応はなくても、こちらの話をきちんと聞いてくれているのは分かっている。
「よし、これからも毎日こうして散歩して、この世界に要らない奴らを消していこう」
僕は彼女の手を引き歩き出す。那須川を消したことに対する胸の中のもやもやとした感情は、もうなくなっていた。
*
翌日は、初めて朝からハクアを外に連れ出した。土曜日だから学校に行く必要はない。
空は分厚い雲が覆っていて薄暗く、明け方から小雨が降っていて歩き回るには不便だ。天気予報によればこの雨は一日中続くらしい。
二人で傘をさして手を繋ぎながら歩くのは大変なので、ハクアには家にあった父のレインコートを着せている。サイズが大きくてぶかぶかだけど、フードを被せることで彼女の顔をある程度隠せるから、かえって都合がいいかもしれない。仮に悪意のない知り合いにハクアが見つかって、騒ぎになる度に相手を消すのは、さすがに気が咎めるから。
「ソウ、どこに行くの」
「そうだな……」
この世界は、バグの影響で少しずつ崩壊し、やがて消滅する。それまでに、世界に必要のない人間を消していくことを決めた。
そのターゲットとしては何人か思い当たるけれど、居場所が分からないことにはどうしようもない。ハクアの消失の力を意図して使うには、彼女が対象を目視する必要があるからだ。
すぐに思いつく相手としては、高校で僕に執拗な嫌がらせや暴力をしてくるクラスメイトの袴田だが、住所を知らないからこちらから会いに行くことはできない。
それなら、かつて白亜を傷付けた者たちへの復讐をしよう、と僕は考えていた。
昨日の夜、オンライン住宅地図の契約をして、何軒かの家を特定していた。住宅地図では家主の苗字が載っているから、珍しい苗字であれば絞り込むことができる。中学二年の時の担任教師は「
雨のおかげか通りに人は少なく、レインコートを着た少女と、傘をさしながら彼女の手を引いて歩く男子高校生の二人組を怪しむような人もいない。
灰色の空から降り続け、静かに町を濡らしていく雨は、大地を浄化するシャワーのようにも、世界が流している涙のようにも思えた。
僕もハクアも無言のまま歩き、やがて辿り着いたのは、古びた二階建ての一般住宅だ。トタンの外壁は醜く錆び付いていて、長い間手入れされていないのが見て取れる。中学校の校舎から距離が近く、まるで昔からそこの教師になることが決められて縛り付けられているような、重苦しい呪いにも似た空気を感じた。表札の文字が「五百蔵」であることを確認してから、呼び鈴のボタンを押した。僕が中学生だった頃は五百蔵先生は独身で一人暮らしのようだったから、一年半で状況が変わっていなければ、本人が出て来るはずだ。
少しして家の中から人の気配が近付き、そして聞き覚えのある声がした。
「どちらさん?」
僕は唾を飲み込み、用意していた言葉を発する。
「五百蔵先生、お久しぶりです、○○中学校の卒業生です。近くに寄ったので、ご挨拶をしようと思って」
こう言えば、教師としては追い返すことはできないだろう。少し渋るような間を開けて、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開かれていく。そこから、よれたTシャツにステテコというだらしない格好で中年太りした体型の五十代くらいの男性が姿を現し、不機嫌そうな表情で僕ら二人の姿を眺めまわす。ハクアには下を向いているように言ってあるから、顔は見えないだろう。