ふらふらと足を引き摺るように歩き、陽も落ちた頃に家に着いた。
腹部周りにずんと重い痛みが残っていて、骨が折れているということはなさそうだけれど、全身が軋むように痛い。
ハクアはどうしてるだろうか。お腹を空かせてないだろうか。ずっとテレビを観続けているのだろうか。
帰りが遅くなった僕を心配していたり……は、ないだろうな、と小さく笑う。
靴を脱いだところで、ポケットのスマホが振動した。取り出して画面を見ると、宮野からのメッセージだった。
『明日、十時に駅前に集合ね! なるべくオシャレして来てね!』
キーボードをフリックして返事を書く。
『明日はやっぱり行けなくなった ごめん』
送信ボタンをタップして、スマホの電源をオフにした。
息苦しい制服から着替えて、汚れた服を洗濯機に放り込み、手と顔を洗ってから、階段を上がって自室の扉を開ける。
「ただいま、ハクア」
想像していた通り、ハクアはテレビの前に正座してじっと画面に見入っていた。もしかしたら、朝別れた時から一歩も動いていないのでは、と思ってしまう。
「ごめん、遅くなって。これから夕飯の用意をするよ」
「うん」
うなずいたハクアは立ち上がり、僕の方に歩み寄ってくる。
「どうした?」
「ソウ、手を出して」
僕の前に立ったハクアがそう言った。
「え、なんで?」
訊きながら、右手を上げて彼女の方に差し出す。ハクアは両手で包むように僕の手を握った。その瞬間、いくつもの光景や失っていた認識が頭の中で爆発的に広がる。
「……ああ、そうか。ありがとう、思い出させてくれて」
「うん」
MOTHERのこと。この世界の真相。僕を納得させるためにハクアがやったこと。どれも衝撃的な記憶なのに、ハクアから離れるだけであっさりと消えてしまうのは不気味だし、不便でもある。
「じゃあ夕飯を用意するけど、何か食べたいもの、ある?」
「ん」
と小さい声を出して、ハクアはテレビの方を見た。画面では太った男性タレントが、幸せそうな顔で大きなステーキを頬張っている。
「ステーキは、ちょっとすぐには用意できないかな」
「……そう」
「訊いておいて悪いけど、あるもので適当に作るよ。ちょっと待ってて」
「わかった」
そして僕は台所で二人分のチャーハンを作り、部屋に戻ってハクアに再びタッチされ、記憶の衝撃で皿を落としそうになるのだった。
夕食の後、ハクアと手を繋ぎながらぼんやりとテレビを眺める。ふと気になって、僕は訊いた。
「ハクア、今日も、何か消えた?」
「うん。木が一本と、車が一台」
「大きいものだね。車が消えるって、乗ってる人はどうなるの?」
「走行中の車が消えた場合はどうなるか分からない。今日のは、誰も乗ってない車だったから、よかった」
「そっか」
テレビの中では芸能人たちのトークで爆笑が起こっている。この世界が精巧な紛い物で、何度も滅亡と再生成を繰り返しているなんて、誰も知らないだろう。
「ソウ」と、ハクアが僕の名前を呼んだ。
「うん」
「いつ、わたしを殺してくれるの」
心の中に鉛の塊が投げ込まれたように、胸が重く、苦しくなる。
「……僕は君を殺さないよ。そんな未来は永遠に来ない」
「でも、わたしを殺さないと、世界が壊れる」
「こんな世界、壊れたっていいじゃないか」
那須川や袴田たちから受けた暴行で、今も体のあちこちが痛い。現実世界を模倣するにしても、AIである僕らに痛みという感覚を持たせる必要はあったのだろうかと、MOTHERを作った本当の人類を問い詰めたい気持ちだ。でもその人類も、二万年もの昔に絶滅している。
「どうせ、MOTHERの中で意味もなく繰り返しているだけの世界なんだろ。MOTHERだって、終わることを望んでるから、ハクアが作られたんだろ。だったら遠慮することない。僕らの手で、こんな世界は終わらせてやろうよ」
ハクアは何も言わず、うつむいた。彼女の表情は髪で隠れて見えないけれど、その視線の先には、僕があげた左手小指の指輪がある気がした。
「そうだ、まだ0時にはならないけど、これから散歩に行こう。バグの進行スピードからして世界の終わりはまだ当分先かもしれないけど、この仮初の星に不必要な存在を、一足先に綺麗にしていこう」
そう言って僕はハクアの手を握ったまま立ち上がり、手を引いて彼女も立ちあがらせる。
これまでは、水無月白亜の顔見知りと会うことを避けて夜中に出歩いていたけれど、もし会ってしまったらその時は、ハクアの力で消してしまえばいいんだ。
「またコンビニで何か買って一緒に食べようよ。僕たちはもう世界の悪意に怯える必要はないんだ。君の力は本当に素敵だよ」
ハクアの手を引くように僕は歩きだす。本当の自由を手に入れたように思えて、心が軽くなっていくのを感じた。
手を繋いだまま、僕らは夜の街を散歩した。
行先も決めずに気の向くままに歩く。僕たちを邪魔するものは消してしまえばいい。その気構えが、気分を高揚させていく。
夜風が心地よく肌を撫でていく。空には明るい月が浮かんでいる。僕の左手にはハクアの右手。
幸せについて「考え方次第だよ」と言った宮野の言葉を思い出した。そうか、この感覚が、幸せというものなのかもしれない。
ああ、でもワガママを言っていいのなら、白亜が死を選ぶ前に、ハクアが現れてくれればよかったのに。そうすれば、彼女を苦しめる全てのものを、次々に消してもらったのに。
白亜は、自分と瓜二つなハクアのことをどう思うだろうか。仲良くなってくれるだろうか。彼女は自分をあまり好きではないみたいだったから、鏡を見ているようで嫌な気持ちになるかな。そもそも、どうしてMOTHERが作ったバグであるハクアが、白亜の見た目をしているんだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、近くの家の玄関ドアが開き、人が二人出てきた。驚いて思わず足を止め、ハクアと二人で近くの茂みに身を隠した。
「ソウ、どうして隠れたの」
とハクアに言われ、隠れる必要はなかったと気付く。面倒な相手だったら消せばいいのだから。
「いや、つい、咄嗟に……。あ、でも、待って」
先ほど出てきた二人組を見て、僕はあることを思いついた。
二人は、男と女だ。玄関ドアの前で立ったまま会話している。
「今日誰もいないんだから、泊まっていけばいいのに。もう一回しようよぉ」「そうしたいのは山々だけど」などの会話の内容から、どうやら女の家のようで、帰ろうとする恋人を引き留めているようだ。
はじめは暗くてよく見えなかったけれど、先ほど街灯の明りに照らされた顔を見て、はっきりと分かった。眼鏡をかけた細身で長身のその男は、那須川生徒会長だ。宮野を狙ってるんじゃなかったのか。いや、この感じだと、何人もの女性と関係を持っているのかもしれない。宮野は、ターゲットの一人、ということだろうか。
低俗な男。生徒会の沽券に関わる。――今日那須川が言っていた言葉を思い出し、笑えてくる。あれは高度な自己紹介だったのだろうか。
「……ハクア、あの男を消してくれ」
「なぜ」
「あいつは今日、理不尽な理由で僕を何度も殴ったんだ。学校では真面目で優秀な生徒会長の顔をしてるけど、不良連中を手下にして、好き放題してる。だから消していい。これは、世界を綺麗にするための、掃除だよ。それに、目の前で人が消えた時に、他の人がどんな反応をするか見ておきたい」
ハクアはしばらく黙った後、無言で視線を那須川の方に向けた。僕もその方向をじっと見つめる。
一秒も経たないうちに、那須川の体は音もなく消え去った。腹部にずっと残っていた痛みが、少し軽くなった気がした。
残された女は虚空を見つめて呆然とし、
「あれ……私、なにしに来たんだっけ?」
と独り言のように言って、首を傾げて家の中に入っていく。
ゆっくりと息を吐き出して、僕はハクアに言う。
「ありがとう、ハクア。目の前で人が一人消えても何も感じないなんて、MOTHERのバグの効力はすごいね。生徒会長の消失は影響が大きいから、担任教師の時みたいに別の人が成り代わるんだろう。学校で僕がそれを認識できないのは残念だけど」
ハクアはうつむいていて、表情が見えない。人を消すと疲れたりするのだろうか。
「……ハクア、大丈夫?」
「問題ない」
ぽつりと答えたその言葉に、僕は安堵する。
――自分の指示で人を一人消しておいて、隣の少女のことは心配するのか。
そんな自己否定がふと心に浮かんだけれど、その思いはすぐに拭い捨てた。他者の価値なんて相対的で、人によってそれぞれ違う。当たり前のことだろう。それに、消した人間だって、ただのAI、データだけの存在に過ぎないのだから。