消しゴム、丸めたティッシュ。
バグの力で、目の前の小さな物を狙って消滅させることは成功した。
次は、距離だ。離れたものでも消せるのかを確認したい。
ハクアの手は離さないようにしながら部屋の窓を開けて、ちょうどいいものがないかを探した。近隣の家の屋根や、電信柱、遠くに立ち並ぶ木々、空を飛ぶ鳥……様々な物が、夕暮れのオレンジ色の景色の中で存在している。
例えば隣家を丸ごと消してしまったら、僕とハクア意外は消失を認識できないとはいえどんな大ごとになるか分からないし、罪悪感もある。消しても影響が少なく、誰かに迷惑をかけないものにする必要がある。
「そうだ。ハクア、あの空を見て」
隣に立つハクアは、僕が指さした先の空を見上げた。そこには、沈みかけた夕日を受けて茜色に色付く雲がぽつぽつと浮かんでいる。
「小さな雲がいくつかあるだろ? あの、アルファベットのCみたいな形の雲を消してみてくれないかな」
「わかった。やってみる」
彼女と一緒に、指定した雲をじっと見つめる。するとすぐに、空に浮いていた雲が瞬時に消え、その先の空の色が見えるようになった。
「なるほど、遠くのものでも消せるのか。すごいぞ、ハクア」
確か雲の高さは、下層でも二千メートルほど。高いものなら高度一万メートルのものもある。今消した雲はここから斜めに見上げる位置にあったから、距離で言えば高度よりももっと長くなる。それに、小さい雲ではあったけれど、至近距離で見れば数メートルにはなるだろう。
少なくとも今ターゲットにした雲の距離や大きさのものは消せる、ということが分かった。
なら、次だ。
僕はテレビの電源を入れ、チャンネルを変えてニュース番組を映し出した。タイミングよく、この頃話題になっていた一家惨殺事件の犯人が逮捕されたという速報が流れていた。画面には、命に疲れ果てたような生気のない中年の男性が、両手に手錠をかけられ警察に取り囲まれながら車に乗せられる映像が映っている。アナウンサーの言葉から、この映像は録画ではなく今現在の生中継であることが分かった。
「……ハクア、この犯人を消せる?」
「なぜ、ヒトを消すの」
「これも大事な実験だよ。あの男は、何の罪もない幸福な家庭に押し入って、奥さんや娘にひどいことをして、それから全員を殺したんだ。そんなやつ、この世界に存在していない方がいい。だから、消していいんだ」
「……わかった」
ハクアは画面をじっと見つめる。リアルタイムの映像だから、消すことに成功すればこの画面で視認できるはずだ。多くの人が見ているだろうから影響は気になるけれど、直接目視できないものを消せるのか、というのは確認したい。
僕の指示で、人間が一人消えるかもしれない。そう思うとぞっとしたけれど、すぐにその考えは捨てた。多くの人がこの犯人の死刑を望んでいるし、さらに言えば、どうせこの男も、MOTHERが作り出したAI――データだけの存在なんだ。
カメラのフラッシュが激しく明滅する中で、犯人を乗せた車がゆっくりと走り出す。男が消える気配はない。
「ハクア、どうしたの?」
「やってみたけど、消えなかった」
「……そうか」
直接の目視ではなく、画面越しでは狙って消せないということだろうか。他に要因はあるかもしれないが、もしそうだとしたら、僕の本当の狙いは実現困難になってしまう。
心が沈んでいくのを感じながら、テレビのチャンネルを切り替えていく。時間的にニュース番組が多く、先ほども見ていた犯人逮捕の映像を流している局がほとんどだ。そんな中、外国の戦争を報じているチャンネルがあったので、リモコンのボタンを押す手を止めた。
「ハクア、人間は今も、戦争をして殺し合ってるよ」
「うん」
テレビの画面では、閃光と共に撃ち出されるいくつものミサイル、市街地で起こる爆発、マシンガンを撃ち合う兵士などが映されていく。さすがにリアルタイムの映像ではないだろうから、先ほどの中継映像の犯人よりも条件としては難しいだろう。でも、これに賭けてみたい。
「お願いだ、ハクア。時間がかかってもいいから、この世界の全ての兵器を消してほしい」
ハクアは静かに僕を見た。夜のように冷たいその瞳から目を逸らさずに、僕は続ける。
「MOTHERが絶望の果てに君を生み出した原因が、どれだけ世界を作っても最終的には争い合って滅んでしまう人間のせいなら、この世界から強制的に戦争をなくせばいいと思ったんだ。人を殺す兵器を消して、争いを始めようとする首謀者も消して、それをずっと続けていけば、戦争はなくなる。そうすれば、人間が滅ぶことも、地球が汚染されることもなくなって、君がバグとして世界を終わらせる必要も、それを防ぐために僕が君を殺す必要も、なくなるはずだ」
左手で握っているハクアの右手に、自分の右手を重ねた。白亜と同じ、か弱く小さな、けれど柔らかく温かな手だ。その手を両手で握って、祈るようにそっと力を込めて、僕は願う。
「僕は君を殺したくなんてないし、君に消えてほしくもない。だから……頼む」
ハクアは小さく息を吸い、そして言った。
「わかった。やってみる」
二人でテレビに視線を戻す。僕にできることはないけれど、ハクアの手を強く握る。
理想や、宗教や、歴史や、主張のすれ違い。そんなことでヒトがヒトを殺し続けている。人間はなんて愚かなんだと思ってしまう。
でも、殺戮の兵器が、争いを扇動する人間が、この世から一つ残らず消えてしまえば、平和な世界になるんじゃないのか。
世界が自分の終わりを望んで生み出した悲しいバグが、その平和な世界を作り出せるなら、それはハッピーエンドと言えるんじゃないか。
だから、頼む、ハクア。
――でも、僕なんかの筋書き通りには、この世は動いてはくれない。
「……ダメ。消せない」
「……そう、か」
バッドエンドは、避けられない。
ハクアを紛争地に連れていき、目視できる距離で兵器を一つ一つ消していくことはできるのかもしれない。でもそんなの現実的じゃないし、世界中に溢れる戦争の火種を消して回るには、何十年、何百年かかるか分からない。
肩を落としたその時、頭の中でパチリと一つの小さな感覚が弾けた。世界を構成する無数のピースが一つ、闇に飲み込まれたような感覚。
「ハクア、今のって」
うつむくハクアは、髪で隠れて表情が見えない。
「わたしの影響で、ヒトが一人消えた。隣の町に住む、まだ小さな男の子。わたしが意識して消さなくても、バグの暴走で少しずつ何かが消えていく」
「……人が消えると、その周りの人はどうなるの」
「何も気付けない。初めからなかったものとして認識が書き換えられる。それによって著しい矛盾が生じる場合は、オートプロテクトにより代替の人格AIが生成される」
僕は入れ替わっていたクラス担任のことを思い出した。学校の教師が一人消えたとなると、多くの関係者や生徒たちに影響が出る。だから別の教師が置き換わるように配置され、初めからそうだったように皆の認識が替えられたんだ。
自分が、想像もつかないような巨大なシステムの中に組み込まれているんだということに、戦慄を覚えた。
うつむいたまま、ハクアは感情の乗らない声で言う。
「消えた男の子の家族は、認識もできないまま、大切な子供を失った。わたしのせいで」
かける言葉が見つからない。
消したいものは消せず、誰かにとっての大切な存在が消えてしまう。どうしてこの世はこんなにうまくいかないのだろう。MOTHERも、作るのなら、ただ楽園のような世界だけを作ればいいのに。そうは出来ないからハクアが生み出されたのだろうとは分かっているけれど、思惑が外れた今、そんなことを考えてしまう。
希望のない世界。苦痛だらけの世界。白亜を殺した世界。
実体もなく、システムの中で滅びを繰り返しているだけの、意味のない世界。
どうしてこんなものが存在しているんだ。一体、何のために。
MOTHERだってそう思ってるのだろう。だからハクアが作られたんだ。
それなら、こんな世界、壊れてしまっていいんじゃないか。